後宮では、噂の足が何よりも早い。
誰かが御簾の陰で息を呑む。
誰かが文を運ぶ足を止める。
誰かが袖の内で口元を隠し、知ったばかりの話を、もう昔から判っていたことのように囁く。
中務宮さまが、女陰陽師を許嫁と呼んだ。
あの鬼神の宮が、陰陽寮の寮舎で、皆の前で。
しかもその相手は、内裏初の女陰陽師。
中務宮が民部省へ赴かれた折、参議の下働きとして伴った娘を見初めたそうよ――。
洞見の才を持っているって聞いたわ。
いえ、ついこの間まで後宮の嫌われ役と呼ばれていた姫よ。
いいえ、鬼神の宮を式にしたのだから、ただの姫ではないわ。
朝の渡殿を進む間、噂は幾度も文子の耳へ戻ってきた。
昨日までの噂とは、違う。
以前の噂は、文子を削るためのものだった。
女のくせに。
式神も持たぬくせに。
後宮へ左遷されたくせに。
三帝妃の里下がりも無事に済み、今朝の噂は、文子を飾るためのものに変わっていた。
鬼神の宮に選ばれた姫。
皇統の鍵を握る女陰陽師。
その出自と来歴について。
けれど、いずれも結局は同じだった。
誰かが勝手に文子の輪郭を作る。
それを袖の陰から眺め、怯え、羨み、面白がる。
そこに、文子自身が何を望んだかは関係ない。
文子の人となりを知った上での噂ではないのだから。
文子が式紋として鬼神の荒魂を背負ったのは、噂のためではない。
それに、女はいくつもの職能をその身に引き受けるのが常だ。
華族に生まれた姫であり、陰陽師であり、後宮の嫌われ役であり、今は有職文様蒐集の補佐役でもある。
許嫁という名が一つ増えたところで、その名のみでは文子の足は止まらない。
陰陽寮の門を潜ると、いつもなら早々に落ちる笑いが、今日は一つもなかった。
机の向こうの男たちが顔を上げる。
ある者は目を逸らし、ある者は礼の形を取る。
つい昨日まで、帝妃付きの占い師殿などと口の端で嗤っていた男たちだ。
笑いたいなら笑えばよい――。
そう思っていた頃より、ずっと仕事が捗った一日だった。
七殿五舎に集められつつある有職文様の控え。
紬路が院御所を回って集め始めた雛と裂の目録。
種絶の咒いそのものを打ち破ることができないのであれば、女たちを長く護って来た文様を編み出し、少しでも早く防護の護りを固めるのだ。
女たちが長く願って来た雛は、陰陽寮の男たちから見れば、出来の悪い咒いでしかないだろう。
衣の文様、雛の冠、几帳の裂、女房たちが覚えていた昔話。
けれど、それらは些事としてうち棄てて良いものではない。
咒いは何も大仰な祭壇の上にのみ宿るのではない。
たとえ市井の在所の祈りであろうと、昔から女たちが手ずから護って来た雛人形の中にあるように思えて仕方がない。
後宮へ左遷されたと思っていた。
美しい檻へ押し込められたと思っていた。
だが今は、違う。
あの場所にいなければ拾えなかったものがある。
あの女たちの怒りも、涙も、意地も、祈りも、いずれ咒いの根を絶つための手掛かりになる。
そんな予感があった。
退出する頃には、久方ぶりに、胸の奥が晴れていた。
気負わずに一日を働き切った後の、清々しい疲れだ。
そうして文子は占状帳を抱え、寮舎の外へ出ようとした。
そこで入口からの光を塞ぐように、目の前に男が一人立っていた。
尚暉だ。
昼の光の下では、角は見えない。
けれどその長い黒髪の奥、眼差しの底には、昨夜の斎庭で誓いを立てた鬼神の影が確かにあった。
「迎えなど、頼んでおりません」
「許嫁を迎えに来るのに、誰の許しが要る」
尚暉は、文子の抱えていた占状帳へ当然のように手を伸ばした。
断るより早く、その重みが腕から消える。
「結構です。自分で持てます」
「知っている」
そう言いながら、尚暉は占状帳を片腕に抱え直した。
「知っていて、なぜお取りになるのです」
「重いものを許嫁に持たせて歩くほど、無作法ではない」
「……それは、異国の礼法ですか」
「私の気持ちだ」
言い切られて、文子は返す言葉を一つ失った。
その様子に寮舎の男たちが、一斉に息を呑んだ。
文子は思わず睨んだ。
こんな場所で堂々と言い合うことではない。
だが、尚暉は少しも悪びれない。
むしろ、文子が感情を昂らせるのを待っている顔だった。
「まだ陰陽寮を出たばかりです」
「知っている」
尚暉は占状帳を抱えていない方の空いた手を、当然のように文子の背へ添えた。
「……人目があります」
「見せればよい」
「あなたは、すぐそういうことを……」
「嫌か?」
短く問われ、文子は言葉を詰まらせた。
嫌なら、命じればよい。
彼は従う。文子の式なのだから。
けれど、嫌ではなかった。
腹立たしいほどに。
「……気になります」
「仕事は終えたのだろう」
「これから後宮へ戻って、今日の控えを整理いたします」
「では、そこまで送る」
「中務宮さま自ら?」
「ほら、もう陰陽寮ではないと先に言ったのはお前だ」
文子はやり込められて一瞬、言葉を失った。
名を呼び直せ、と言われている。
人目があるというのに。
皆がこちらを窺っているというのに。
「……尚暉さま自ら?」
「そうだ。後宮まで送る」
言うなり、彼は背に添えた手を文子の肩へ置いた。
引き寄せるというほど強くはないが、寮舎から覗き見る者たちの視線が一斉に色めき立った。
気になって振り返った文子と目が合って、中には目を逸らした者もいる。
慌てて封魔符の備蓄を確かめる者。
筆を握り、料紙を広げる者。
急に忙しげに帳をめくる者。
皆、先ほどまで何もしていなかったくせに、変わり身の早いことだ。
文子は扇を開きかけ、やめた。
隠す必要などない。
全部見られてしまっても構わない。
少し気恥ずかしくはあるが、別に肩肘張って、女であることや許嫁となったことまで、すべて隠す心算もないのだから。
「もう、仕方のない宮さまですこと」
「褒めてくれるか」
「……咎めています」
大内裏は、弥生の明るい日差しに照り映えていた。
冬の名残はまだ風の端にある。
けれど白砂はまばゆく光を返し、朱色の柱にはところどころ春の色が差している。
築地の向こうでは、若葉の気配が日に日に濃くなり始めていた。
「秋になったら、禁野に行こうぞ。お前と紙鳶遊びがしたい。……見渡す景色一面が美しく、秋の味覚も豊富だ」
きっと無邪気な子どもだった頃の思い出がある場所なのだろう、と文子は察した。
大内裏のその一角には、名残りの梅がまだ白を残していた。
そのまた向こう、若い桜の開きかけた蕾は、日差しの中へ差し出している。
すぐに暖かい季節になるだろう。
寮舎のひしめき合った区画を離れると、突然、空が広くなった。
後宮の御簾の内でも陰陽寮の低い梁の下でもない、官衙の広い道を、白衣と緋袴の女陰陽師が歩いていく。
その半歩隣に、鬼神の宮が気負わずに着いて行く。
「陰陽寮の者に、無用の圧をかけるなどと」
文子はまだ軽く憤慨していた。
「無用ではない」
「有用でもございません」
「今朝は、仕事が捗っただろう?」
文子は黙った。
それは事実だった。
「……あなたの威を借りながら、仕事をしてもいいのかしら」
問うた途端、文子は自分の言葉が思いの外、頼りなく響いたことに気付いた。
「別に振りかざしている訣ではないだろう」
尚暉は、少しも迷わず言った。
慰めるというより、初めから迷うところではないとでも言いたげだった。
「……」
「それを言い出したら、商家や家内工業の内儀はどうなる。夫の名、代々家業の名、店の看板。それらを背にして働いている者は、いつだって居る」
言われてみれば、確かにそうだった。
見世に立つ者の誰もが、たった一人の腕だけで立っているわけではない。
屋号も、暖簾も、仕入れ先も、信用も、すべて誰かから受け継ぎ、また誰かへ渡してゆくものだ。
「宮廷も同じだ。血筋も官位も、世襲のものだろうよ」
「でも」
「むしろ、仕事ができなければ立つ瀬がなくなる」
その言葉は、文子の胸へまっすぐ落ちた。
名を借りるからこそ、名に見合う働きをしなければならない。
威を背にするとは、甘えることではなく、背負うものが増えることでもあるのだ。
「それはそうかもしれないけど……」
「文子はお堅い女だからな。そこがまたいいのだが」
あまりにも卒然と褒められて、文子は言葉を失った。
商いの話をしていた筈なのに、いつの間にか自分の気質まで見透かされている。
腹立たしいのに、胸の奥が仄かに熱を持った。
「必要な時には私の名も使え。そなたが仕事を通すために要るなら、それは私の役目になる」
尚暉は、文子を見た。
その眼差しは、差し出すものを決めた人のそれだった。
名も、立場も、血筋も、ただ飾りとして持っているのではない。
文子が前へ進むためなら、持っている物は何もかもを貸し出すことに躊躇いはないのだと。
「……尚暉さま」
「ほら、仕事の話は仕舞いにするぞ」
言い切って、尚暉は少しだけ目を逸らした。
照れているのだと判った瞬間、紬路の胸に灯った熱は、もう消えなかった。
風向きが変わり、梅の馥郁たる香りがふわりと鼻先を掠めた。
咲き初めた桜の枝が、春の日を受けて目に眩しい。
「働き過ぎだぞ。私が来なければ、いつまでも。……夜、寝具に身を横たえるまで」
「……仕事をするために宮中に出仕しているのですから」
「少しはこちらの身にもなってみよ。……俺はいつでもお前の許へ馳せ参じる覚悟で、呼ぶのを待っているというのに」
文子は足を止めた。
そうだ。
この人は、自分の式なのだ。
呼べば来る。
命じれば従う。
荒ぶる時は、文子の許へ戻ると誓った鬼神。
「では、あなたの方が働き過ぎです。……わたくしのために」
この式は宮でもあり、男でもある。
日がな一日、文子からの命を待っているかと思うと、怒る気が失せて来るのを感じた。
文子の命を待つ振りをして、こうして出し抜いて勝手に迎えに来たりもするのだが――。
「早く会いたかったのだ」
「陽が暮れてから、夜に来ればよろしいでしょう」
「……それは許嫁を、後宮まで送る楽しみとは別だ」
尚暉の黒曜石の眼に、妖しい光が宿る。
文子は扇を握り締めた。
言い返したいのに、胸の内で何か硬かったものが解けてしまう。
仕方のない宮だ。
困った人で、厄介な式だ。
でも、切なげな顔を見ると、何もかも許してやりたくなる。
「噂されます」
「……もう、噂されているぞ」
文子は、そこで漸く笑った。
何をたわいも無く言い合いしているのだろうと、ふと可笑しくなったのだ。
陰陽寮の者たちは、なお遠く窓からそれを見送っていた。
つまるところ、後宮も陰陽寮も大事なき日には退屈を託っている。
この平和がずっと続けばいい、と文子は思った。
噂に削られるのではなく、噂を背にして歩ける日が来るなど、少し前の自分は思いもしなかった。
白梅の名残が風に揺れ、咲き初めの桜が春の光を受ける。
白衣と緋袴の女陰陽師の隣に立つ、鬼神の宮。
これからも、こんな風に日々は過ぎて行くのだろう。
主従として。
許嫁として。
そして、まだ誰も知り得ない咒いを解き明かす、互いに似合いの比翼連理の翼として。
誰かが御簾の陰で息を呑む。
誰かが文を運ぶ足を止める。
誰かが袖の内で口元を隠し、知ったばかりの話を、もう昔から判っていたことのように囁く。
中務宮さまが、女陰陽師を許嫁と呼んだ。
あの鬼神の宮が、陰陽寮の寮舎で、皆の前で。
しかもその相手は、内裏初の女陰陽師。
中務宮が民部省へ赴かれた折、参議の下働きとして伴った娘を見初めたそうよ――。
洞見の才を持っているって聞いたわ。
いえ、ついこの間まで後宮の嫌われ役と呼ばれていた姫よ。
いいえ、鬼神の宮を式にしたのだから、ただの姫ではないわ。
朝の渡殿を進む間、噂は幾度も文子の耳へ戻ってきた。
昨日までの噂とは、違う。
以前の噂は、文子を削るためのものだった。
女のくせに。
式神も持たぬくせに。
後宮へ左遷されたくせに。
三帝妃の里下がりも無事に済み、今朝の噂は、文子を飾るためのものに変わっていた。
鬼神の宮に選ばれた姫。
皇統の鍵を握る女陰陽師。
その出自と来歴について。
けれど、いずれも結局は同じだった。
誰かが勝手に文子の輪郭を作る。
それを袖の陰から眺め、怯え、羨み、面白がる。
そこに、文子自身が何を望んだかは関係ない。
文子の人となりを知った上での噂ではないのだから。
文子が式紋として鬼神の荒魂を背負ったのは、噂のためではない。
それに、女はいくつもの職能をその身に引き受けるのが常だ。
華族に生まれた姫であり、陰陽師であり、後宮の嫌われ役であり、今は有職文様蒐集の補佐役でもある。
許嫁という名が一つ増えたところで、その名のみでは文子の足は止まらない。
陰陽寮の門を潜ると、いつもなら早々に落ちる笑いが、今日は一つもなかった。
机の向こうの男たちが顔を上げる。
ある者は目を逸らし、ある者は礼の形を取る。
つい昨日まで、帝妃付きの占い師殿などと口の端で嗤っていた男たちだ。
笑いたいなら笑えばよい――。
そう思っていた頃より、ずっと仕事が捗った一日だった。
七殿五舎に集められつつある有職文様の控え。
紬路が院御所を回って集め始めた雛と裂の目録。
種絶の咒いそのものを打ち破ることができないのであれば、女たちを長く護って来た文様を編み出し、少しでも早く防護の護りを固めるのだ。
女たちが長く願って来た雛は、陰陽寮の男たちから見れば、出来の悪い咒いでしかないだろう。
衣の文様、雛の冠、几帳の裂、女房たちが覚えていた昔話。
けれど、それらは些事としてうち棄てて良いものではない。
咒いは何も大仰な祭壇の上にのみ宿るのではない。
たとえ市井の在所の祈りであろうと、昔から女たちが手ずから護って来た雛人形の中にあるように思えて仕方がない。
後宮へ左遷されたと思っていた。
美しい檻へ押し込められたと思っていた。
だが今は、違う。
あの場所にいなければ拾えなかったものがある。
あの女たちの怒りも、涙も、意地も、祈りも、いずれ咒いの根を絶つための手掛かりになる。
そんな予感があった。
退出する頃には、久方ぶりに、胸の奥が晴れていた。
気負わずに一日を働き切った後の、清々しい疲れだ。
そうして文子は占状帳を抱え、寮舎の外へ出ようとした。
そこで入口からの光を塞ぐように、目の前に男が一人立っていた。
尚暉だ。
昼の光の下では、角は見えない。
けれどその長い黒髪の奥、眼差しの底には、昨夜の斎庭で誓いを立てた鬼神の影が確かにあった。
「迎えなど、頼んでおりません」
「許嫁を迎えに来るのに、誰の許しが要る」
尚暉は、文子の抱えていた占状帳へ当然のように手を伸ばした。
断るより早く、その重みが腕から消える。
「結構です。自分で持てます」
「知っている」
そう言いながら、尚暉は占状帳を片腕に抱え直した。
「知っていて、なぜお取りになるのです」
「重いものを許嫁に持たせて歩くほど、無作法ではない」
「……それは、異国の礼法ですか」
「私の気持ちだ」
言い切られて、文子は返す言葉を一つ失った。
その様子に寮舎の男たちが、一斉に息を呑んだ。
文子は思わず睨んだ。
こんな場所で堂々と言い合うことではない。
だが、尚暉は少しも悪びれない。
むしろ、文子が感情を昂らせるのを待っている顔だった。
「まだ陰陽寮を出たばかりです」
「知っている」
尚暉は占状帳を抱えていない方の空いた手を、当然のように文子の背へ添えた。
「……人目があります」
「見せればよい」
「あなたは、すぐそういうことを……」
「嫌か?」
短く問われ、文子は言葉を詰まらせた。
嫌なら、命じればよい。
彼は従う。文子の式なのだから。
けれど、嫌ではなかった。
腹立たしいほどに。
「……気になります」
「仕事は終えたのだろう」
「これから後宮へ戻って、今日の控えを整理いたします」
「では、そこまで送る」
「中務宮さま自ら?」
「ほら、もう陰陽寮ではないと先に言ったのはお前だ」
文子はやり込められて一瞬、言葉を失った。
名を呼び直せ、と言われている。
人目があるというのに。
皆がこちらを窺っているというのに。
「……尚暉さま自ら?」
「そうだ。後宮まで送る」
言うなり、彼は背に添えた手を文子の肩へ置いた。
引き寄せるというほど強くはないが、寮舎から覗き見る者たちの視線が一斉に色めき立った。
気になって振り返った文子と目が合って、中には目を逸らした者もいる。
慌てて封魔符の備蓄を確かめる者。
筆を握り、料紙を広げる者。
急に忙しげに帳をめくる者。
皆、先ほどまで何もしていなかったくせに、変わり身の早いことだ。
文子は扇を開きかけ、やめた。
隠す必要などない。
全部見られてしまっても構わない。
少し気恥ずかしくはあるが、別に肩肘張って、女であることや許嫁となったことまで、すべて隠す心算もないのだから。
「もう、仕方のない宮さまですこと」
「褒めてくれるか」
「……咎めています」
大内裏は、弥生の明るい日差しに照り映えていた。
冬の名残はまだ風の端にある。
けれど白砂はまばゆく光を返し、朱色の柱にはところどころ春の色が差している。
築地の向こうでは、若葉の気配が日に日に濃くなり始めていた。
「秋になったら、禁野に行こうぞ。お前と紙鳶遊びがしたい。……見渡す景色一面が美しく、秋の味覚も豊富だ」
きっと無邪気な子どもだった頃の思い出がある場所なのだろう、と文子は察した。
大内裏のその一角には、名残りの梅がまだ白を残していた。
そのまた向こう、若い桜の開きかけた蕾は、日差しの中へ差し出している。
すぐに暖かい季節になるだろう。
寮舎のひしめき合った区画を離れると、突然、空が広くなった。
後宮の御簾の内でも陰陽寮の低い梁の下でもない、官衙の広い道を、白衣と緋袴の女陰陽師が歩いていく。
その半歩隣に、鬼神の宮が気負わずに着いて行く。
「陰陽寮の者に、無用の圧をかけるなどと」
文子はまだ軽く憤慨していた。
「無用ではない」
「有用でもございません」
「今朝は、仕事が捗っただろう?」
文子は黙った。
それは事実だった。
「……あなたの威を借りながら、仕事をしてもいいのかしら」
問うた途端、文子は自分の言葉が思いの外、頼りなく響いたことに気付いた。
「別に振りかざしている訣ではないだろう」
尚暉は、少しも迷わず言った。
慰めるというより、初めから迷うところではないとでも言いたげだった。
「……」
「それを言い出したら、商家や家内工業の内儀はどうなる。夫の名、代々家業の名、店の看板。それらを背にして働いている者は、いつだって居る」
言われてみれば、確かにそうだった。
見世に立つ者の誰もが、たった一人の腕だけで立っているわけではない。
屋号も、暖簾も、仕入れ先も、信用も、すべて誰かから受け継ぎ、また誰かへ渡してゆくものだ。
「宮廷も同じだ。血筋も官位も、世襲のものだろうよ」
「でも」
「むしろ、仕事ができなければ立つ瀬がなくなる」
その言葉は、文子の胸へまっすぐ落ちた。
名を借りるからこそ、名に見合う働きをしなければならない。
威を背にするとは、甘えることではなく、背負うものが増えることでもあるのだ。
「それはそうかもしれないけど……」
「文子はお堅い女だからな。そこがまたいいのだが」
あまりにも卒然と褒められて、文子は言葉を失った。
商いの話をしていた筈なのに、いつの間にか自分の気質まで見透かされている。
腹立たしいのに、胸の奥が仄かに熱を持った。
「必要な時には私の名も使え。そなたが仕事を通すために要るなら、それは私の役目になる」
尚暉は、文子を見た。
その眼差しは、差し出すものを決めた人のそれだった。
名も、立場も、血筋も、ただ飾りとして持っているのではない。
文子が前へ進むためなら、持っている物は何もかもを貸し出すことに躊躇いはないのだと。
「……尚暉さま」
「ほら、仕事の話は仕舞いにするぞ」
言い切って、尚暉は少しだけ目を逸らした。
照れているのだと判った瞬間、紬路の胸に灯った熱は、もう消えなかった。
風向きが変わり、梅の馥郁たる香りがふわりと鼻先を掠めた。
咲き初めた桜の枝が、春の日を受けて目に眩しい。
「働き過ぎだぞ。私が来なければ、いつまでも。……夜、寝具に身を横たえるまで」
「……仕事をするために宮中に出仕しているのですから」
「少しはこちらの身にもなってみよ。……俺はいつでもお前の許へ馳せ参じる覚悟で、呼ぶのを待っているというのに」
文子は足を止めた。
そうだ。
この人は、自分の式なのだ。
呼べば来る。
命じれば従う。
荒ぶる時は、文子の許へ戻ると誓った鬼神。
「では、あなたの方が働き過ぎです。……わたくしのために」
この式は宮でもあり、男でもある。
日がな一日、文子からの命を待っているかと思うと、怒る気が失せて来るのを感じた。
文子の命を待つ振りをして、こうして出し抜いて勝手に迎えに来たりもするのだが――。
「早く会いたかったのだ」
「陽が暮れてから、夜に来ればよろしいでしょう」
「……それは許嫁を、後宮まで送る楽しみとは別だ」
尚暉の黒曜石の眼に、妖しい光が宿る。
文子は扇を握り締めた。
言い返したいのに、胸の内で何か硬かったものが解けてしまう。
仕方のない宮だ。
困った人で、厄介な式だ。
でも、切なげな顔を見ると、何もかも許してやりたくなる。
「噂されます」
「……もう、噂されているぞ」
文子は、そこで漸く笑った。
何をたわいも無く言い合いしているのだろうと、ふと可笑しくなったのだ。
陰陽寮の者たちは、なお遠く窓からそれを見送っていた。
つまるところ、後宮も陰陽寮も大事なき日には退屈を託っている。
この平和がずっと続けばいい、と文子は思った。
噂に削られるのではなく、噂を背にして歩ける日が来るなど、少し前の自分は思いもしなかった。
白梅の名残が風に揺れ、咲き初めの桜が春の光を受ける。
白衣と緋袴の女陰陽師の隣に立つ、鬼神の宮。
これからも、こんな風に日々は過ぎて行くのだろう。
主従として。
許嫁として。
そして、まだ誰も知り得ない咒いを解き明かす、互いに似合いの比翼連理の翼として。



