文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 文子(あやこ)は筆を置いて目を閉じた。
 疲れているのに、眠りはすぐには来なかった。

 近頃、夜にまんじりともしない時間が怖くなっている。
 眠れば眠ったで、いつ帝妃付きの女房が呼びに来るか判らない。

 見るなら浅い夢ではなく、何も映さない真っ黒がいい。
 そう願ってしまう。

 初めの頃、夢はただ、黒い気配だった。

 御簾(みす)の向こう。
 灯の届かぬ(ひさし)の奥。
 几帳の影。
 閉じたはずの襖の隙間。
 誰かがこちらを見ている。

 名も、形もない。
 けれど、見られていることだけは判る。

 その程度の夢だった。

 近頃は明らかに近付いて来ている。
 昨夜などは(つね)よりも、その(くら)い闇の手を傍に感じた。
 几帳の陰から忍び寄るように、畳の上を音もなく()い、文子(あやこ)の足首へ掛けられた。

 冷たいのに、逃げがたい。
 水ではない。
 風でもない。
 もっと古く、もっと深いもの。

 鬼神。
 そう思った瞬間、夢の中の文子(あやこ)は動けなくなった。

 名を呼ばれたわけではない。
 けれど、呼ばれている気がしている。
 文子(あやこ)文子(あやこ)姫と。
 音にならぬまま、胸のどこかを()でられるように。

 然るべき手順で(はら)い、退けねばならぬ類の夢だろうかと考えたこともある。
 夢見そのものの才は持たぬにせよ、夢に残る(かげ)りを(あらた)めるのは、己の領分だ。

 だが、あれが鬼神であるならば、話は別だった。

 むやみに(はら)い退けてしまえば、それまでだ。
 次に同じものが夢路を辿って来るとは限らない。

 まして文子(あやこ)は、式神を持たぬ女陰陽師である。

 陰陽寮の男たちは笑った。
 女と(ちぎ)る鬼神があるものか、と。

 ならば、夢の奥から文子(あやこ)を呼ぶあの気配を、ただの悪夢として捨ててよい(はず)がない。

 (はら)うべきか。
 捕らえるべきか。
 あるいは、(ちぎ)るべきか。

 答えを出せぬまま、夜ごと闇は近付いて来る。

 それでも、毎朝目覚める文子(あやこ)の胸に残るのは恐怖ではなかった。
 腹の底が煮えるほどの、強い怒りだった。