文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 その夜。
 常寧殿(じょうねいでん)の庭は、月に洗われていた。

 昼には人の足音と衣()れが絶えぬ場所も、今は月明かりに白い。
 池の面には月影が落ち、白砂はまるで霜が(まぶ)されたように照り光っている。
 植え込みの影も、石の輪郭も、すべてが月光に洗われ、清められていた。

 まるで、そこだけが斎庭(ゆにわ)になっている。
 文子(あやこ)は、そう思った。

 池のほとりに、男が立っている。

 夜燈(やと)――(いや)
 尚暉(なおてる)が、長い黒髪を背に流し、水面を(みつ)めていた。

 鬼神である時よりも、人の宮である時よりも、今は遠く(はかな)げに見える。
 月を映す水の向こうに、幾代もの皇統と、祈りと、(まじな)いが沈んでいる。
 それを一人で見届けてきた者の横顔だった。

 近付く足音に気付いたのか、尚暉(なおてる)がゆっくりとこちらを向く。

「お加減はいかがですか。宮……」

 言いかけたところで、彼の目が文子(あやこ)を捕らえた。

「どうして、もう夜燈(やと)と呼ばぬのだ」

 文子(あやこ)は、袖の内で指を握った。

「それは、あなたの式名ですから」
「式名は、お前が呼ぶ名だろう」
「ええ。けれど……二人きりの時は、尚暉(なおてる)さまとお呼びしたく思います」

 言い終えた途端、池の面を渡った風が、二人の間を抜けた。

 尚暉(なおてる)の目が揺れた。
 鬼神でも、宮でも、式でもない名を呼ばれた男の目だった。

 次の瞬間、文子(あやこ)は抱き締められていた。

 息が止まるほど強かったが、壊すための力ではなかった。
 長く深い場所に沈めていたものを、漸く(ようやく)両腕の内に取り戻したような抱き方だった。

 文子(あやこ)の頬が、彼の衣に押し当てられる。
 水辺の夜気を含んだ衣の下で、男の体温が確かにあった。
 鬼神の冷たさではない。宮として遠く仰がれる温度でもない。

 今、文子(あやこ)を抱き締めている一人の男の熱だった。

「……尚暉(なおてる)さま」

 その名を呼ぶと、尚暉(なおてる)の腕に更に力が込められた。

 背に刻まれた式紋が、肌の奥で熱を持つ。
 主従の証であり、(ちぎ)りの(あと)でもあるそこから、胸の奥へじわりと熱が広がっていく。

 鬼神の神威(かむい)に触れた時の震えとも違う。
 ただ二人きりであるだけで、世界の外のすべてが遠のいていくようだ。

 ややあって、文子(あやこ)は彼の衣に額を寄せた。

紬路(つつじ)がね」
「……東宮(とうぐう)妃は、あなたの友人なのだね」
「ええ。……わたくしたちに遠慮するな、と申しておりました」

 尚暉(なおてる)は目を閉じた。

 その言葉を、すぐには返さない。
 ただ、胸の底へ沈めるように受け止めていた。

「私は、中務省から御代(みよ)をお支え申し上げる心算(つもり)だ。皇統などに興味はない」
「ええ」

 文子(あやこ)は頷いた。

「きっと紬路(つつじ)も、東宮(とうぐう)という御位(みくらい)に心を寄せたわけではないのです」

 その言葉を、自分の口が選んだことに、遅れて熱が上がる。

「わたくしも……あなたが宮だということは、知らぬ間に」

 最後まで言えなかった。
 尚暉(なおてる)の指が、文子(あやこ)(あご)(すく)う。
 月の光が、彼のまつげに影を落としていた。

 文子(あやこ)は身じろぎをしなかった。
 指先に(あご)を預けたまま、言えなかった言葉の続きまで、もう委ねてしまった気がしていた。

「知らぬ間に、何だ」
「……お判りでしょう」
「聞きたい」

 鬼神の宮が人の男の顔をして、文子(あやこ)の言葉を待っている。
 命じれば従う式でありながら、奪い取る予感にうち震えていることを隠しもしない。

 文子(あやこ)は目を伏せた。

「あなたを、望んでおりました」

 唇が重なった。
 初めは、息を奪うほど深くはなかった。
 ただ確かめるように触れ、離れ、また触れる。

 だが二度目に重なった時、尚暉(なおてる)の手が文子(あやこ)の背へ回った。
 式紋の刻まれたあたりを、大きな(てのひら)が支える。

 その瞬間、熱が跳ねた。
 命令ではない。縛りでもない。
 二人の名をつなぐ式紋が、肌の奥で目を覚ます。

 文子(あやこ)は思わず尚暉(なおてる)の袖を(つか)んだ。
 立っていられないほどではない。
 けれど、立っているために、何かへ(すが)りたかった。
 尚暉(なおてる)はそれを知ったように、腰を抱く腕を強める。

 水面の月が揺れている。

 どちらの息か、もう判らなかった。
 唇が(ほど)けるたび、夜気が入り込み、それすら惜しいようにまた(ふさ)がれる。

 尚暉(なおてる)の指が頬を()で、耳の下を通り、髪の際へ沈む。
 捕らえられている。
 そう思うのに、文子(あやこ)は逃げなかった。
 逃げたくなかった。

 尚暉(なおてる)は一度離れ、額を寄せた。

「天地開闢(かいびゃく)より神留坐(かむづまります)、神々の(みこともち)を預かる、この身に()けて――」

 その言葉に、文子(あやこ)の背筋が伸びた。
 まるで夜と月と水が、二人のために(はら)えられた斎庭(ゆにわ)を用意したようだった。

 これは戯れではない。
 恋の囁きでもない。

 誓いだ。

「私は、あなただけと添い遂げる。他に側室など要らぬ。皇子(みこ)も、無理には望まない」
「……宮」
「違う」
「……尚暉(なおてる)さま」

 尚暉(なおてる)は満足げに目を細めた。

「ただし、それは陰陽道を預かる省庁の長として、種絶(しゅぜつ)(のろ)いを追わぬという意味ではない」

 水面の月が、風に崩れた。
 甘さの奥から、再び務めが顔を出す。
 けれど不思議と、今の文子(あやこ)はそれを寂しいとは思わなかった。

 目の前の宮が誓いを口にする時、そこには必ず国があり、(まじな)いがあり、背負うべきものがある。
 そして自分もまた、その隣へ立つ者なのだ。

文子(あやこ)

 尚暉(なおてる)は、彼女の手を取った。

「力を貸してくれるか。私の荒魂(あらたま)(しず)め、共に陰陽道を極め、いつか(すめらぎ)に掛けられた(のろ)いを解き明かすために」

 文子(あやこ)は、彼の手を握り返した。

「お貸しするのではありません」

 尚暉(なおてる)が、(わず)かに眉を上げる。

「共に行くのです。わたくしは、あなたの式主ですから」

 文子(あやこ)は、月明かりの庭で彼を見上げた。

「わたくしを置いて、鬼にも神にもならないと誓って」

 尚暉(なおてる)の目が、厳粛な色に染まっていく。
 月も、水も、白砂も、二人の間で息を潜めていた。

 先に動いたのは、尚暉(なおてる)だった。
 文子(あやこ)の前へ、ゆっくりと膝をつく。
 差し出された手が、文子(あやこ)の指を取った。

「天神地祇(ちぎ)御前(みまえ)

 まず、指の背へ口づける。

御名(みな)

 次に、指先へ。

「そして、御言(みこと)に、誓う」

 最後に、その指を己の額へ押し当てた。
 口づけより深く、祈りに近い仕草だった。

「私は、お前を置いて鬼にも神にもならぬ。……荒ぶる時は、お前の許に戻る。迷う時は、お前の命に従う」

 そのまま、尚暉(なおてる)文子(あやこ)の手を離さなかった。

 額に押し当てていた指を下ろし、(てのひら)ごと包み込む。

 次の瞬間、腕が背へ回った。
 逃がさぬためではない。
 誓ったばかりの言葉を、骨の奥まで染み込ませるような抱擁だった。

 文子(あやこ)の頬が、彼の胸元へ寄せられる。

 主従の契り。
 男女の誓い。
 その二つが、もう別々のものではなくなっていく。

 尚暉(なおてる)の唇が、髪の上を(かす)めた。
 次いで、耳元へ降りてくる。

 近すぎて、言葉になる前の息まで、肌に触れる。

「この身は、すべてお前のものだ。文子(あやこ)