そう気付いた瞬間。
文子は咄嗟に気配を探していた。
怖いと思った心の奥で、真っ先に浮かんだのは、その名だった。
助けを呼ぶより早く。
術を組み立てるより早く。
「……夜燈」
小さく呟いてから、文子ははっと唇を噛んだ。
式神だからではない。
ただ、傍にいてほしいと思ってしまった。
そのことが妙に恥ずかしくて、文子は何事もなかったように写しへ視線を戻した。
すると、背後から手が伸びた。
「それ以上、見るな」
その声は叱責ではなかった。
耳元に近く、文子を驚かせぬよう抑えられている。
大きな手が、そっと文子の目を覆う。
熱があった。
指の節。
掌の重み。
こめかみへ触れる、確かな体温。
視界を奪われているのに、不思議と怖くはない。
見せたくないものから庇うように。
怯えるものへ「もう見なくてよい」と教えるように。
その手つきは、とても優しかった。
夢でもなく、ただの気配でもない。
生身の男の手だ。
「……夜燈」
「遅かったか」
「いいえ」
目を覆われたまま、文子は息を吸った。
薄く目蓋を閉じれば、闇の向こうにあるのは掌の熱ばかりだ。
その熱に触れられている自分が、はっきりと安堵していることを悟った。
「手を退かしても、見るんじゃないぞ。眼から離せ。……面倒だな」
「命令が矛盾しています」
「黙って俺の手の内にいろ」
文子の頬が熱くなった。
夜燈は、文子の背後に立っている。
近い。
髪に、彼の息が触れた気がした。
「この写しです」
文子は目を覆われたまま言った。
「結界を編む文様に似せています。けれど、線が逆です。用いれば、結びが解ける」
「焼くか」
「いけません」
「罠だぞ」
「罠だからこそ、焼いてはなりません。誰が、何を恐れてこれを紛れ込ませたのか、手掛かりまで消えてしまいます」
夜燈が短く息を吐いた。
「面倒な女だ」
「相手の思惑を逆手に取るのが、悪女ですから」
「罠まで丁寧に拾う気か」
「拾います。悪意を紛れ込ませた者がいるなら、わたくしには通じない、むしろ身許を知らせる手掛かりになると、思い知らせてやらねば」
夜燈の手が、ほんの少しだけ緩んだ。
それでも、文子の目は覆われたままだった。
指の隙間から灯の色さえ見えない。
「後宮を統制する我が主も、俺の前では大人しく可愛い女になるんだからな、全く」
守られている。
そう感じてしまうことが、少しだけ悔しくて、少しだけ甘かった。
「可愛い女だ」
その言葉に、文子の胸が小さく高鳴った。
夜燈は文子の肩越しに手を伸ばし、写しの端を押さえた。
紙の上の線が、彼の気配に触れて一瞬ひるみ、消え去った。
その途端、文子の目の奥を刺していた痛みが薄れる。
何が起きたのか確かめたくて、文子は覆われた掌の下で、ほんの僅かに目蓋を持ち上げかけた。
「薄目を開けるな」
「それでは成り行きが見られません」
「俺が見る」
夜燈の指が、写しの右下を押さえた。
夜燈の手が紙の上を辿るところを、文子は見ていない。
けれど、手の動きを想像してしまう。
目を覆う手の温度や、肩越しに伸びる腕の重み。
身じろぐたびに、袖が微かに触れ合う近さ。
耳の近くに落ちる息。
一つ一つが、今ここに彼がいることを教えていた。
怖いけれど、大丈夫だと思ってしまう。
それが、たまらなく心許なかった。
「文子」
「はい」
「今夜は真っ先に、俺を呼んでくれたな」
「……呼んでおりません」
けれど、不思議だった。
あの御池の夜を見てしまった。
物の怪を喰らえば、夜燈の荒魂がまた目を覚ますかもしれない。
それでも怖いと思った瞬間、きっと自分は、またこの名を探してしまう、と解ってしまった。
「心が呼んだ」
「……そういうことを、勝手に読まないでください」
「読まずとも判る。お前は怖いと思い、俺を呼んだ」
否定したかった。
けれど、できなかった。
「俺を畏れぬ女など、幾らでもいた。……更に皇統の血を濃くしようと迫る姫宮もいる」
文子の胸が、ちくりと痛んだ。
姫宮。
その一語だけで、心のどこかが翳る。
文子は優秀だ、才女だと褒められてきた。
けれど、血筋だけはどうにもならない。
生まれながらに帝の血を濃く持つ姫宮には、どれほど術を積んでも届かない。
「……どうして、そのようなお話を」
思ったよりも硬い声が出た。
夜燈の手が、文子の目を覆ったまま、ぴたりと止まる。
「なんだ。お前、妬いたのか」
「妬いてなどおりません」
「では、なぜ声が尖る」
「尖ってなど、おりません」
喉の奥で笑うような気配がした。
見えないのに、今どんな顔をしているのか、何となく判ってしまう。
そのことが悔しくて、耳が熱くなった気がする。
「そうか。ならば、こちらを向け」
「目を覆っているのは、あなたです」
「悪い」
少し間を置いて。
「……嬉しくてな」
嬉しい。
たったそれだけの言葉なのに、心へ落ちた波紋が静かに広がっていく。
姫宮に嫉妬したことも。
血筋の違いを思い知らされたことも。
その一言で、自分の気持ちの在り処を知らされた気がした。
文子は唇を結んだ。
「だが、畏れながら戻れと言う女は、お前だけだ」
先ほどまでの揶揄う気配が消える。
「鬼として見ぬふりをする女も、鬼の力を欲しがる女も、幾らでもいた」
覆っていた掌が、ふいに外された。
薄闇に慣れた目へ、燈台の明かりが戻る。
けれど、急にひらけた視界は、却って心許なかった。
「お前は違う」
肩越しに伸びる腕の重み。
耳の近くをかすめる息。
「鬼の怖さにも、宮の権威にも、何にも敗けず、俺を呼ぶ」
御池の夜が脳裏を過った。
荒魂に呑まれかけながら、それでも文子を傷つけまいと、独りで耐えていた姿。
あれほど恐ろしかったのに。
怖いと思った、その瞬間に。
真っ先に探してしまうのは、この人なのだ。
「だから、俺はお前の声に戻る」
文子は、ゆっくりと振り返った。
思っていたよりも、ずっと近い距離に夜燈がいた。
身を屈めたその顔が、文子の眸を凝と覗き込む。
逃がすまいとするものではない。
ただ、誤魔化させまいとするような静かな眼差しだった。
その眼差しを前にして、文子はようやく悟った。
怖いと思いながらも、この人の名を探してしまうように。
この人もまた、自分の呼ぶ声を拠り所にしていたのだと。
「いつでも、……真名で、呼んで欲しい」
それは鬼神の願いではなかった。
皇統の誇り高き宮の命でもない。
後宮の奥で、誰にも真名を預けられずにいた男が、ただ一人へ差し出した、ひどく不器用な懇願だった。
文子は咄嗟に気配を探していた。
怖いと思った心の奥で、真っ先に浮かんだのは、その名だった。
助けを呼ぶより早く。
術を組み立てるより早く。
「……夜燈」
小さく呟いてから、文子ははっと唇を噛んだ。
式神だからではない。
ただ、傍にいてほしいと思ってしまった。
そのことが妙に恥ずかしくて、文子は何事もなかったように写しへ視線を戻した。
すると、背後から手が伸びた。
「それ以上、見るな」
その声は叱責ではなかった。
耳元に近く、文子を驚かせぬよう抑えられている。
大きな手が、そっと文子の目を覆う。
熱があった。
指の節。
掌の重み。
こめかみへ触れる、確かな体温。
視界を奪われているのに、不思議と怖くはない。
見せたくないものから庇うように。
怯えるものへ「もう見なくてよい」と教えるように。
その手つきは、とても優しかった。
夢でもなく、ただの気配でもない。
生身の男の手だ。
「……夜燈」
「遅かったか」
「いいえ」
目を覆われたまま、文子は息を吸った。
薄く目蓋を閉じれば、闇の向こうにあるのは掌の熱ばかりだ。
その熱に触れられている自分が、はっきりと安堵していることを悟った。
「手を退かしても、見るんじゃないぞ。眼から離せ。……面倒だな」
「命令が矛盾しています」
「黙って俺の手の内にいろ」
文子の頬が熱くなった。
夜燈は、文子の背後に立っている。
近い。
髪に、彼の息が触れた気がした。
「この写しです」
文子は目を覆われたまま言った。
「結界を編む文様に似せています。けれど、線が逆です。用いれば、結びが解ける」
「焼くか」
「いけません」
「罠だぞ」
「罠だからこそ、焼いてはなりません。誰が、何を恐れてこれを紛れ込ませたのか、手掛かりまで消えてしまいます」
夜燈が短く息を吐いた。
「面倒な女だ」
「相手の思惑を逆手に取るのが、悪女ですから」
「罠まで丁寧に拾う気か」
「拾います。悪意を紛れ込ませた者がいるなら、わたくしには通じない、むしろ身許を知らせる手掛かりになると、思い知らせてやらねば」
夜燈の手が、ほんの少しだけ緩んだ。
それでも、文子の目は覆われたままだった。
指の隙間から灯の色さえ見えない。
「後宮を統制する我が主も、俺の前では大人しく可愛い女になるんだからな、全く」
守られている。
そう感じてしまうことが、少しだけ悔しくて、少しだけ甘かった。
「可愛い女だ」
その言葉に、文子の胸が小さく高鳴った。
夜燈は文子の肩越しに手を伸ばし、写しの端を押さえた。
紙の上の線が、彼の気配に触れて一瞬ひるみ、消え去った。
その途端、文子の目の奥を刺していた痛みが薄れる。
何が起きたのか確かめたくて、文子は覆われた掌の下で、ほんの僅かに目蓋を持ち上げかけた。
「薄目を開けるな」
「それでは成り行きが見られません」
「俺が見る」
夜燈の指が、写しの右下を押さえた。
夜燈の手が紙の上を辿るところを、文子は見ていない。
けれど、手の動きを想像してしまう。
目を覆う手の温度や、肩越しに伸びる腕の重み。
身じろぐたびに、袖が微かに触れ合う近さ。
耳の近くに落ちる息。
一つ一つが、今ここに彼がいることを教えていた。
怖いけれど、大丈夫だと思ってしまう。
それが、たまらなく心許なかった。
「文子」
「はい」
「今夜は真っ先に、俺を呼んでくれたな」
「……呼んでおりません」
けれど、不思議だった。
あの御池の夜を見てしまった。
物の怪を喰らえば、夜燈の荒魂がまた目を覚ますかもしれない。
それでも怖いと思った瞬間、きっと自分は、またこの名を探してしまう、と解ってしまった。
「心が呼んだ」
「……そういうことを、勝手に読まないでください」
「読まずとも判る。お前は怖いと思い、俺を呼んだ」
否定したかった。
けれど、できなかった。
「俺を畏れぬ女など、幾らでもいた。……更に皇統の血を濃くしようと迫る姫宮もいる」
文子の胸が、ちくりと痛んだ。
姫宮。
その一語だけで、心のどこかが翳る。
文子は優秀だ、才女だと褒められてきた。
けれど、血筋だけはどうにもならない。
生まれながらに帝の血を濃く持つ姫宮には、どれほど術を積んでも届かない。
「……どうして、そのようなお話を」
思ったよりも硬い声が出た。
夜燈の手が、文子の目を覆ったまま、ぴたりと止まる。
「なんだ。お前、妬いたのか」
「妬いてなどおりません」
「では、なぜ声が尖る」
「尖ってなど、おりません」
喉の奥で笑うような気配がした。
見えないのに、今どんな顔をしているのか、何となく判ってしまう。
そのことが悔しくて、耳が熱くなった気がする。
「そうか。ならば、こちらを向け」
「目を覆っているのは、あなたです」
「悪い」
少し間を置いて。
「……嬉しくてな」
嬉しい。
たったそれだけの言葉なのに、心へ落ちた波紋が静かに広がっていく。
姫宮に嫉妬したことも。
血筋の違いを思い知らされたことも。
その一言で、自分の気持ちの在り処を知らされた気がした。
文子は唇を結んだ。
「だが、畏れながら戻れと言う女は、お前だけだ」
先ほどまでの揶揄う気配が消える。
「鬼として見ぬふりをする女も、鬼の力を欲しがる女も、幾らでもいた」
覆っていた掌が、ふいに外された。
薄闇に慣れた目へ、燈台の明かりが戻る。
けれど、急にひらけた視界は、却って心許なかった。
「お前は違う」
肩越しに伸びる腕の重み。
耳の近くをかすめる息。
「鬼の怖さにも、宮の権威にも、何にも敗けず、俺を呼ぶ」
御池の夜が脳裏を過った。
荒魂に呑まれかけながら、それでも文子を傷つけまいと、独りで耐えていた姿。
あれほど恐ろしかったのに。
怖いと思った、その瞬間に。
真っ先に探してしまうのは、この人なのだ。
「だから、俺はお前の声に戻る」
文子は、ゆっくりと振り返った。
思っていたよりも、ずっと近い距離に夜燈がいた。
身を屈めたその顔が、文子の眸を凝と覗き込む。
逃がすまいとするものではない。
ただ、誤魔化させまいとするような静かな眼差しだった。
その眼差しを前にして、文子はようやく悟った。
怖いと思いながらも、この人の名を探してしまうように。
この人もまた、自分の呼ぶ声を拠り所にしていたのだと。
「いつでも、……真名で、呼んで欲しい」
それは鬼神の願いではなかった。
皇統の誇り高き宮の命でもない。
後宮の奥で、誰にも真名を預けられずにいた男が、ただ一人へ差し出した、ひどく不器用な懇願だった。



