三人の帝妃が淑景舎を下がった後も、桐壺は身じろぎ一つしなかった。
御簾の外では、相変わらず里下がりの支度が続いている。
行李を捧げ持った雑色が行き交い、女房たちの衣擦れが廊を渡り、遠くでは志乃が誰かを叱っている。
淑景舎の内だけが、別の時の中に置かれたようだった。
弘徽殿の古い立雛。
藤壺の雛道具。
梅壺の婚礼調度。
三つの家から差し出された雛と調度が、桐壺の前に並んでいる。
それは詫びの品でありながら、詫びのみではなかった。
妬みに沈みかけた女たちが、去り際に差し出した、それぞれの家の記憶。
桐壺は心を奪われたように、目を離せずに居る様子だ。
指先が、弘徽殿の立雛の袖へ近付く。
触れる寸前で止まり、今度は藤壺の几帳の縁を見つめる。
梅壺の貝桶へ目を移し、紅の糸の結び目を追う。
何度見ても、同じところへ戻ってくる。
文様はそれぞれ違う。
使われている色も、家の好みも、持ち主の気性も違う。
けれど、その奥に同じ理がある。
桐壺はそれを、飽きもせず眺めていた。
「……後宮の女たちが忘れていても、雛が覚えている」
先ほど紬路が口にした言葉を、繰り返している。
紬路は、その横顔を見ていた。
先ほどまで、帝妃たちを迎えるために張りつめていた表情は薄れている。
代わりに、桐壺の中で何かが開かれていく様を、見届けようとしていた。
文子もまた、膝の上で指を重ねたまま、雛を見ていた。
これは、ただの雛祭り人形の蒐集趣味ではない。
後宮に残る雛。
里へ戻る帝妃たちの家に伝わる雛。
公卿の家に眠る古い雛道具。
院御所に伝わった布裂れ。
嫁入りの際に箱へ納められ、母から娘へ渡され、祝われ、祈られ、長く守られてきたもの。
そこに、失われた有職文様が残されている。
――そして、もし結界の古い理に触れるのが文様であるなら。
――内裏を守るための手掛かりは、陰陽寮の古文書のみではなかったことになる。
文子の脳裡に、昨夜の御池の光景が過った。
物の怪は、すでに内裏へ入り込んでいた。
七殿五舎の奥深く、帝妃たちの嫉みと噂を餌にし、あれほどはっきりと形を成していた。
それも、ただの影ではなかった。
撫子の形をしていた。
撫子の記憶をたどるように語り、撫子の痛みをなぞるように人を刺した。
本当に撫子本人が取り込まれていたのか。
それとも、残された記憶と噂を物の怪が纏っただけなのか。
そこまでは判然としなかった。
けれど一つだけ、確かなことがある。
物の怪は、力を増すほど形を持つ。
形を持つほど、人の世に食い込む。
言葉を操れるほどになれば、もはや漂い渡るだけの穢れではない。
誰かの名を借り、誰かの姿を借り、誰かの記憶さえ器にして、こちらへ手を伸ばしてくる。
式も、同様だ。
名を与え、形を与え、役目を与える。
そうして初めて、ただの気配は式となり、主の命に従うものとなる。
ならば、逆もあるのではないか。
人が長い年月をかけて祈りを籠め、祝いを重ね、同じ文様を守り続けたなら。
その形もまた、咒いになりうる。
蝶は蝶として。
立涌は立涌として。
浮線綾は浮線綾として。
嫁ぐ娘を守れ。
家の血を絶やすな。
新しい場所で幸せであれ。
災いを遠ざけよ。
言葉にならなかった祈りが、糸の向きに、裂れの重なりに、几帳の縁に、貝桶の蒔絵に、少しずつ積もっている。
その文様を、雛は覚えている。
女たちが忘れても。
家が衰えても。
文官が書き残さなくても。
陰陽寮の古文書から抜け落ちても。
春ごとに飾られ、手を合わせられ、箱へ戻されてきた雛の衣には、失われた結界の形が残っているのかもしれない。
内裏を守るための手掛かりは、陰陽寮の古文書のみではなかった。
国を守る理に触れる発見だ。
文子は、息を整えた。
「桐壺さま」
桐壺が顔を上げる。
目元にはまだ涙の跡があった。
けれど、先ほどまでの痛みとは違うものが宿っている。
何か熱意を傾けられるものを見つけた者の目だった。
「差し出がましいことを申し上げます」
「文子さまが?」
桐壺は少し驚いたように瞬いた。
とすると、桐壺は文子の振る舞いをこれまでそのようには感じていないらしい。
「はい」
文子は、いったん紬路を見た。
東宮妃の前で、帝の更衣に提案する。
それは、ただの世間話では済まされない。
後宮の内の動きとなり、いずれ宮中全体の沙汰にも関わるかもしれない。
けれど紬路は、何も言わなかった。
扇を膝に置き、ただ促すように、にこりと笑った。
文子は扇を取り出し、改めて桐壺へ向き直った。
「方々の在所から雛を、集めてみてはいかがでしょう」
「在所から……雛を?」
「はい。旧家や公卿家、古くより姫君を嫁がせてきた家々へ文を出し、伝来の雛と雛道具を献上していただくのです。難しいようであれば、文様だけでも描き写していただく」
言ってから、文子は自分でも随分と大きく出たと思った。
けれど口にした途端、その事業の形が段々と見えて来た。
「雛そのものを都へ集める必要は全くございません。……そうね、やはりまずは写しだけ。裂れの文様を写し、由緒を聞き取り、どの家からどの家へ渡ったものかを記す。できれば栄えある宮仕えの古い女房装束の襲色目まで」
桐壺の目が、みるみる大きくなる。
「それを……わたくしが?」
「多くは、お雛様に残されていると思われます」
そこで、文子は扇を取り出して開いた。
「尤も、陰陽寮の殿方はきっとお笑いになるでしょうね。雛だの、裂れだの、女の慰みが国を守る筈もない、と」
桐壺の指が、膝の上で小さく握られた。
その仕草だけで、文子には充分だった。
桐壺もまた、何度も言われて来たのだろう。
いい年をした姫が、雛遊びなど。
帝の寵を競うべき身で、古い人形や小さな調度に心を奪われるなど。
そのようなものを集めて、一体何になるのか、と。
おそらく女房や使用人などにも嗤われて来たのだ。
ただ、好きであることを、役に立たぬと笑われる。
大切にしてきたものを、女の慰みと片付けられる。
その痛みに似たものは、文子にも経験があった。
「ですから、先にわたくしたち後宮の女で成果を出してしまいましょう。記録と写しを揃え、咒いの理を突きつけるのです」
「……文子さま」
「ええ。悪女で結構」
文子は、扇を開いた。
ぱちり、と乾いた音が、淑景舎の静けさに落ちる。
桐壺の顔には、長く箱の底に仕舞われていたものに、急に陽が差したような明るさがある。
「殿方が大切にして来た古文書だけが、国を守る術ではないわ。女たちが箱に納め、春ごとに飾り、嫁ぐ娘へ渡し、祈りを重ねて来たものにも、きっと祈りが宿ります」
並んだ雛を、改めて見渡す。
「陰陽師は咒いを読みます。文官は記録を読みます。けれど家ごとに伝わる祝いの形、女たちが何を大切にしてきたか、その想いまでは読み切れません。それでは術は成功しないのよ」
文子は、桐壺へ視線を戻した。
「そうしたことを読み、わたくしに伝えられるのは、桐壺さまだけです」
桐壺の睫毛が揺れた。
「わたくしが……」
「はい。桐壺さまにしかできないことでございます」
文子は、はっきりと言った。
「その先の文様の研究は、わたくしと中務省の陰陽寮の――いずれ信用できる者だけを選んで、お手伝いします」
そこで、文子は少しだけ口の端を上げた。
「お味方は、少しずつでもわたくしが広げて作りますわ」
その言い方は、少し不遜だったかもしれない。
陰陽寮勤めの者を人選するなど、女の分際で、と。
だが、嗤わせておけばいい。
誰も触れていなかったものを新しく検める。
誰も価値を認めなかった物へ、名と役目を与える。
嫌われ役が要るのなら、引き受ける。
それが悪女の役目だというなら、喜んでその名を被り、国の護りへと貢献を尽くすのだ。
「わたくしは……好きだっただけです」
桐壺は、細い声で言った。
好きだっただけ。
その一言の中に、嗤われながらも、捨てられずに抱えて来た年月が滲んでいた。
「好きでなければ、蒐集する情熱を続けることができません」
文子は、静かに返した。
「長く続くものは、何かが好きで、大切で、捨てられなくて。……次の代へ渡したいと思うほどに残るものです。その雛には、そうした想いが込められています」
桐壺の指が顫えた。
自分の中で眠っていた何かに気付いたのだった。
「桐壺さまでしたら、きっとできます」
文子は言い切ると、紬路が、そこで扇を伏せた。
「面白いわ」
「……! 紬路さま」
「全国の雛を検め、有職文様の写しを集める。由緒をまとめ、御用裂との関わりを探る。……失われた結界の文様がそこに潜むなら、後宮のみならず、国を護る事業になります」
紬路の目に、いつもの高貴な光が戻っていた。
ただし、それは誰かを圧倒するためのものではない。
国を挙げる一大事業を見つけた姫の目だった。
「結界、ですって!?」
桐壺は目を丸くした。
けれど驚きは、すぐに別の熱へ変わっていく。
膝の上で重ねていた指が、ゆっくりと解けた。
「わたくしたち三人は、ただお慕い申し上げる方の愛の多寡を競い、皇子をお産み申し上げる順番や後ろ盾を競うのではありません」
紬路が厳かに言う。
その言葉に、文子は手にしていた扇を少し傾けた。
白い骨の陰で、唇がゆるやかに弧を描く。
「ええ。それではあまりに小さいわ。女には、もっと色々なことができてよ」
選ばれる夜を待つだけの後宮。
寵の深さを数え、皇子の有無で女の値打ちを量るだけの場所。
その狭さを、今からひっくり返す。
「誰がより多く愛されたかではなく、誰がより深く、この国と主上をお支えできるか」
文子は、扇の先で並んだ雛を静かに示した。
「御代を守る事業で、自然と格が決まるわけですもの。受けて立ちましてよ」
そこで、扇を膝へ伏せる。
ぱさり、と絹の上に落ちた音は小さい。
けれど、それは後宮の争いの土俵を塗り替える音だった。
「里下がりした、あの女たちにも手伝わせましょうよ。どうせこれから一生、暇を託つ身よ」
「……文子!」
「ふふっ、そんな顔しないでよ、紬路!どうせ結界の破れには、誰も無関係では居られないのよ」
そして、徐にまた扇を広げて微笑む。
これは桐壺をその気にさせるための芝居だという意味を込めて、紬路に片目を瞑ってみせた。
「後宮の争いとしては、随分性質が悪くて――、実に美しいじゃないの」
後は、散々煮え湯を飲ませてくれた志乃に、元帝妃たちとの連絡経路を仕事の一環として加えてやる――意趣返しをするだけだ。
御簾の外では、相変わらず里下がりの支度が続いている。
行李を捧げ持った雑色が行き交い、女房たちの衣擦れが廊を渡り、遠くでは志乃が誰かを叱っている。
淑景舎の内だけが、別の時の中に置かれたようだった。
弘徽殿の古い立雛。
藤壺の雛道具。
梅壺の婚礼調度。
三つの家から差し出された雛と調度が、桐壺の前に並んでいる。
それは詫びの品でありながら、詫びのみではなかった。
妬みに沈みかけた女たちが、去り際に差し出した、それぞれの家の記憶。
桐壺は心を奪われたように、目を離せずに居る様子だ。
指先が、弘徽殿の立雛の袖へ近付く。
触れる寸前で止まり、今度は藤壺の几帳の縁を見つめる。
梅壺の貝桶へ目を移し、紅の糸の結び目を追う。
何度見ても、同じところへ戻ってくる。
文様はそれぞれ違う。
使われている色も、家の好みも、持ち主の気性も違う。
けれど、その奥に同じ理がある。
桐壺はそれを、飽きもせず眺めていた。
「……後宮の女たちが忘れていても、雛が覚えている」
先ほど紬路が口にした言葉を、繰り返している。
紬路は、その横顔を見ていた。
先ほどまで、帝妃たちを迎えるために張りつめていた表情は薄れている。
代わりに、桐壺の中で何かが開かれていく様を、見届けようとしていた。
文子もまた、膝の上で指を重ねたまま、雛を見ていた。
これは、ただの雛祭り人形の蒐集趣味ではない。
後宮に残る雛。
里へ戻る帝妃たちの家に伝わる雛。
公卿の家に眠る古い雛道具。
院御所に伝わった布裂れ。
嫁入りの際に箱へ納められ、母から娘へ渡され、祝われ、祈られ、長く守られてきたもの。
そこに、失われた有職文様が残されている。
――そして、もし結界の古い理に触れるのが文様であるなら。
――内裏を守るための手掛かりは、陰陽寮の古文書のみではなかったことになる。
文子の脳裡に、昨夜の御池の光景が過った。
物の怪は、すでに内裏へ入り込んでいた。
七殿五舎の奥深く、帝妃たちの嫉みと噂を餌にし、あれほどはっきりと形を成していた。
それも、ただの影ではなかった。
撫子の形をしていた。
撫子の記憶をたどるように語り、撫子の痛みをなぞるように人を刺した。
本当に撫子本人が取り込まれていたのか。
それとも、残された記憶と噂を物の怪が纏っただけなのか。
そこまでは判然としなかった。
けれど一つだけ、確かなことがある。
物の怪は、力を増すほど形を持つ。
形を持つほど、人の世に食い込む。
言葉を操れるほどになれば、もはや漂い渡るだけの穢れではない。
誰かの名を借り、誰かの姿を借り、誰かの記憶さえ器にして、こちらへ手を伸ばしてくる。
式も、同様だ。
名を与え、形を与え、役目を与える。
そうして初めて、ただの気配は式となり、主の命に従うものとなる。
ならば、逆もあるのではないか。
人が長い年月をかけて祈りを籠め、祝いを重ね、同じ文様を守り続けたなら。
その形もまた、咒いになりうる。
蝶は蝶として。
立涌は立涌として。
浮線綾は浮線綾として。
嫁ぐ娘を守れ。
家の血を絶やすな。
新しい場所で幸せであれ。
災いを遠ざけよ。
言葉にならなかった祈りが、糸の向きに、裂れの重なりに、几帳の縁に、貝桶の蒔絵に、少しずつ積もっている。
その文様を、雛は覚えている。
女たちが忘れても。
家が衰えても。
文官が書き残さなくても。
陰陽寮の古文書から抜け落ちても。
春ごとに飾られ、手を合わせられ、箱へ戻されてきた雛の衣には、失われた結界の形が残っているのかもしれない。
内裏を守るための手掛かりは、陰陽寮の古文書のみではなかった。
国を守る理に触れる発見だ。
文子は、息を整えた。
「桐壺さま」
桐壺が顔を上げる。
目元にはまだ涙の跡があった。
けれど、先ほどまでの痛みとは違うものが宿っている。
何か熱意を傾けられるものを見つけた者の目だった。
「差し出がましいことを申し上げます」
「文子さまが?」
桐壺は少し驚いたように瞬いた。
とすると、桐壺は文子の振る舞いをこれまでそのようには感じていないらしい。
「はい」
文子は、いったん紬路を見た。
東宮妃の前で、帝の更衣に提案する。
それは、ただの世間話では済まされない。
後宮の内の動きとなり、いずれ宮中全体の沙汰にも関わるかもしれない。
けれど紬路は、何も言わなかった。
扇を膝に置き、ただ促すように、にこりと笑った。
文子は扇を取り出し、改めて桐壺へ向き直った。
「方々の在所から雛を、集めてみてはいかがでしょう」
「在所から……雛を?」
「はい。旧家や公卿家、古くより姫君を嫁がせてきた家々へ文を出し、伝来の雛と雛道具を献上していただくのです。難しいようであれば、文様だけでも描き写していただく」
言ってから、文子は自分でも随分と大きく出たと思った。
けれど口にした途端、その事業の形が段々と見えて来た。
「雛そのものを都へ集める必要は全くございません。……そうね、やはりまずは写しだけ。裂れの文様を写し、由緒を聞き取り、どの家からどの家へ渡ったものかを記す。できれば栄えある宮仕えの古い女房装束の襲色目まで」
桐壺の目が、みるみる大きくなる。
「それを……わたくしが?」
「多くは、お雛様に残されていると思われます」
そこで、文子は扇を取り出して開いた。
「尤も、陰陽寮の殿方はきっとお笑いになるでしょうね。雛だの、裂れだの、女の慰みが国を守る筈もない、と」
桐壺の指が、膝の上で小さく握られた。
その仕草だけで、文子には充分だった。
桐壺もまた、何度も言われて来たのだろう。
いい年をした姫が、雛遊びなど。
帝の寵を競うべき身で、古い人形や小さな調度に心を奪われるなど。
そのようなものを集めて、一体何になるのか、と。
おそらく女房や使用人などにも嗤われて来たのだ。
ただ、好きであることを、役に立たぬと笑われる。
大切にしてきたものを、女の慰みと片付けられる。
その痛みに似たものは、文子にも経験があった。
「ですから、先にわたくしたち後宮の女で成果を出してしまいましょう。記録と写しを揃え、咒いの理を突きつけるのです」
「……文子さま」
「ええ。悪女で結構」
文子は、扇を開いた。
ぱちり、と乾いた音が、淑景舎の静けさに落ちる。
桐壺の顔には、長く箱の底に仕舞われていたものに、急に陽が差したような明るさがある。
「殿方が大切にして来た古文書だけが、国を守る術ではないわ。女たちが箱に納め、春ごとに飾り、嫁ぐ娘へ渡し、祈りを重ねて来たものにも、きっと祈りが宿ります」
並んだ雛を、改めて見渡す。
「陰陽師は咒いを読みます。文官は記録を読みます。けれど家ごとに伝わる祝いの形、女たちが何を大切にしてきたか、その想いまでは読み切れません。それでは術は成功しないのよ」
文子は、桐壺へ視線を戻した。
「そうしたことを読み、わたくしに伝えられるのは、桐壺さまだけです」
桐壺の睫毛が揺れた。
「わたくしが……」
「はい。桐壺さまにしかできないことでございます」
文子は、はっきりと言った。
「その先の文様の研究は、わたくしと中務省の陰陽寮の――いずれ信用できる者だけを選んで、お手伝いします」
そこで、文子は少しだけ口の端を上げた。
「お味方は、少しずつでもわたくしが広げて作りますわ」
その言い方は、少し不遜だったかもしれない。
陰陽寮勤めの者を人選するなど、女の分際で、と。
だが、嗤わせておけばいい。
誰も触れていなかったものを新しく検める。
誰も価値を認めなかった物へ、名と役目を与える。
嫌われ役が要るのなら、引き受ける。
それが悪女の役目だというなら、喜んでその名を被り、国の護りへと貢献を尽くすのだ。
「わたくしは……好きだっただけです」
桐壺は、細い声で言った。
好きだっただけ。
その一言の中に、嗤われながらも、捨てられずに抱えて来た年月が滲んでいた。
「好きでなければ、蒐集する情熱を続けることができません」
文子は、静かに返した。
「長く続くものは、何かが好きで、大切で、捨てられなくて。……次の代へ渡したいと思うほどに残るものです。その雛には、そうした想いが込められています」
桐壺の指が顫えた。
自分の中で眠っていた何かに気付いたのだった。
「桐壺さまでしたら、きっとできます」
文子は言い切ると、紬路が、そこで扇を伏せた。
「面白いわ」
「……! 紬路さま」
「全国の雛を検め、有職文様の写しを集める。由緒をまとめ、御用裂との関わりを探る。……失われた結界の文様がそこに潜むなら、後宮のみならず、国を護る事業になります」
紬路の目に、いつもの高貴な光が戻っていた。
ただし、それは誰かを圧倒するためのものではない。
国を挙げる一大事業を見つけた姫の目だった。
「結界、ですって!?」
桐壺は目を丸くした。
けれど驚きは、すぐに別の熱へ変わっていく。
膝の上で重ねていた指が、ゆっくりと解けた。
「わたくしたち三人は、ただお慕い申し上げる方の愛の多寡を競い、皇子をお産み申し上げる順番や後ろ盾を競うのではありません」
紬路が厳かに言う。
その言葉に、文子は手にしていた扇を少し傾けた。
白い骨の陰で、唇がゆるやかに弧を描く。
「ええ。それではあまりに小さいわ。女には、もっと色々なことができてよ」
選ばれる夜を待つだけの後宮。
寵の深さを数え、皇子の有無で女の値打ちを量るだけの場所。
その狭さを、今からひっくり返す。
「誰がより多く愛されたかではなく、誰がより深く、この国と主上をお支えできるか」
文子は、扇の先で並んだ雛を静かに示した。
「御代を守る事業で、自然と格が決まるわけですもの。受けて立ちましてよ」
そこで、扇を膝へ伏せる。
ぱさり、と絹の上に落ちた音は小さい。
けれど、それは後宮の争いの土俵を塗り替える音だった。
「里下がりした、あの女たちにも手伝わせましょうよ。どうせこれから一生、暇を託つ身よ」
「……文子!」
「ふふっ、そんな顔しないでよ、紬路!どうせ結界の破れには、誰も無関係では居られないのよ」
そして、徐にまた扇を広げて微笑む。
これは桐壺をその気にさせるための芝居だという意味を込めて、紬路に片目を瞑ってみせた。
「後宮の争いとしては、随分性質が悪くて――、実に美しいじゃないの」
後は、散々煮え湯を飲ませてくれた志乃に、元帝妃たちとの連絡経路を仕事の一環として加えてやる――意趣返しをするだけだ。



