その時だった。
御簾の外から、慌てた様子の女房の声が差し挟まる。
「弘徽殿さまのお使いにございます」
文子は身を固くした。
上座の桐壺も紬路も背筋を正す。
しかし、入ってきたのは女房ではなかった。
弘徽殿その人だ。
里下がりの装束である。
常より簡素に見えるのに、格は隠せない。
重い身分に慣れた女の立ち居振る舞いだった。
桐壺の女房たちが、一斉に動いた。
立ち上がる者はいない。
けれど、年嵩の女房が膝を半歩ばかり進め、若い女房が嫁雛の箱の方へ身を寄せる。
もう一人は桐壺の背後に回り、衣の裾を整えるふりをしながら、その背を守る覚悟を見せた。
文子も立ち上がりかけたが、紬路が目で制した。
誰も弘徽殿を拒んではいない。
頭は低い。礼も崩さない。
ただ、桐壺を独りにする気はないのだと、その座の形だけで判った。
「里下がりのご挨拶に参りました」
弘徽殿は淑景舎の敷居を跨ぐと、桐壺の前で止まり、座した。
「桐壺さま」
桐壺が、膝の上で手を握る。
「このたびのこと。詫びて済むとは思いません」
弘徽殿の言葉に、飾りはなかった。
「わたくしは、己の嫉みを御せませんでした」
「弘徽殿さま」
「ですから、許しは求めません」
弘徽殿が、後ろへ合図した。
女房たちが、白木の長櫃を運び入れる。
封が解かれると、中から古い雛が現れた。
珍しい立雛だった。
男雛と女雛。
古びてはいるが、衣は今も見事だ。
向かい蝶。立涌。浮線綾。
光の加減で、文様が息をするように浮かぶ。
「わたくしの里に伝わる雛です。古く、祖母の、そのまた前の代より伝わるものと聞いております」
弘徽殿は、桐壺を見た。
「入内されても大切にされていた嫁雛を穢した詫びには遠く及びません。ですが、汚したまま何も差し出さず去ることは宮家の恥でございます。どうぞお納めくださいませ」
桐壺は言葉を失っていた。
文子も、思わず雛に目を奪われた。
その裂は、ただ美しいのではない。
どこかで見たことがある文様だ。
陰陽寮の古い図会。
結界の方位を示す文様。
院御所の帳台に残された写し。
弘徽殿は姫宮である。
皇統に連なる古い家の雛ならば、そこに後宮の女たちが忘れたものが残っていても不思議ではなかった。
そこへ、また女房が告げた。
「藤壺さまが、お見えにございます」
弘徽殿が横へ退く。
藤壺は、弘徽殿より控えめに入ってきた。
その手には自ら小さな唐櫃を抱いている。
「桐壺さま」
藤壺は膝を付き、それを開けて見せた。
「わたくしからも、お詫びを」
唐櫃の中には、雛道具が入っていた。
小さな几帳。蒔絵の付いた貝桶。硯箱。御所車。
どれも手のひらに収まるほどなのに、細工は驚くほど細かい。
「これは、母方より伝わったものです。わたくしには、ただ古いものとしか見えませんでした」
藤壺は桐壺に向かい、そっと目を伏せる。
「けれど、あなたなら、大切にしてくださると思いました」
桐壺の目が潤む。
「そのような大切なものを、わたくしに」
「大切だからです」
藤壺は答えた。
「残すために、お渡ししておきたいのです」
その言葉が終わらぬうちに、廊から荒い足音が近付いた。
梅壺だった。
「遅れましたわ」
御簾の内に入るなり、梅壺は顎を上げた。
泣いた痕がある。目元を隠す気もない。
おそらく今日も弘徽殿か藤壺に叱責されたのだろう。
「先に言っておきます。わたくしは、あなたが好きではありません」
桐壺の女房たちが凍り付く。
文子も思わず半眼になった。
この人は、本当に。
だが、梅壺はそのまま持ってきた挟箱を桐壺の前へ置いた。
「それでも、あなたの嫁雛を傷付けたことは悪かったですわ。……わたくしが提案したの。申し訳ありませんでした」
挟箱が開く。
中には、梅丸文の小さな雛と、婚礼調度を模した品々が入っていた。
紅の糸で結ばれた貝。小さな鏡台。櫛箱。
どれも可憐で、どこか勝ち気な華やぎがある。
「東宮時代から、お添い申し上げた方を、とうとう更衣さまに盗られてしまいましたわ」
梅壺はぷいと顔を背けた。
「でも、わたくし自身の過ちですもの。どうかこれからも、わたくしの代わりに主上をお支え申し上げてください」
桐壺は、暫く三つの贈り物を見ていた。
弘徽殿の古い立雛。
藤壺の雛道具。
梅壺の婚礼調度。
それぞれの家に伝わった、女たちの記憶。
それが今、桐壺の前に並んでいる。
「……有難うございます」
桐壺が、ぽつりと言った。
全員が桐壺を見た。
その顔が、みるみる変わっていく。
悲しみではない。
驚き。喜び。
そして、何かを見つけた者の強さ。
「これ……同じです」
文子は思わず身を乗り出した。
けれど、すぐに袖の内で指を握る。
ここで口を挟むべきではない。
今、桐壺の前にあるのは、三人の帝妃から差し出された詫びの品だ。
それを検め、意味を見いだす役目は、まず受け取った桐壺にある。
だが、言わずには居られなかった。
「同じ?」
問い返したのは、弘徽殿だった。
文子は、立雛の衣、几帳の縁、貝の結び糸へ順に目を凝らしながら答えた。
「弘徽殿さまの立雛の浮線綾。藤壺さまの几帳の縁。梅壺さまの貝の結び糸。文様は違います。でも、割り付けの癖が同じです」
花も、蝶も、波も、それぞれ別の家に伝わった意匠だ。
けれど文様を置く間、余白の取り方、糸を結ぶ向きに、同じ理が潜んでいる。
「御用裂……」
それまで成り行きを見守っていた紬路が、低く呟いた。
弘徽殿が目を見張る。
「紬路姫、御用裂をご覧になったことがございますの?」
「ええ」
紬路が答える。
「雛の衣は、幾重もの祝いと咒いを籠めて、古い装束を写すことがあります。小さな几帳にも、かつての御殿の形が残ります。……たとえ後宮の女たちが忘れていても、雛が覚えています」
文子の背筋に熱が走った。
その失われた有職文様が、結界の古い理に作用するかもしれない――。
嫁入りする女たちを長く守ってきた節供や調度が、ただの飾りである筈がない。
祈りを形にして、願いを文様に宿している。
御簾の外から、慌てた様子の女房の声が差し挟まる。
「弘徽殿さまのお使いにございます」
文子は身を固くした。
上座の桐壺も紬路も背筋を正す。
しかし、入ってきたのは女房ではなかった。
弘徽殿その人だ。
里下がりの装束である。
常より簡素に見えるのに、格は隠せない。
重い身分に慣れた女の立ち居振る舞いだった。
桐壺の女房たちが、一斉に動いた。
立ち上がる者はいない。
けれど、年嵩の女房が膝を半歩ばかり進め、若い女房が嫁雛の箱の方へ身を寄せる。
もう一人は桐壺の背後に回り、衣の裾を整えるふりをしながら、その背を守る覚悟を見せた。
文子も立ち上がりかけたが、紬路が目で制した。
誰も弘徽殿を拒んではいない。
頭は低い。礼も崩さない。
ただ、桐壺を独りにする気はないのだと、その座の形だけで判った。
「里下がりのご挨拶に参りました」
弘徽殿は淑景舎の敷居を跨ぐと、桐壺の前で止まり、座した。
「桐壺さま」
桐壺が、膝の上で手を握る。
「このたびのこと。詫びて済むとは思いません」
弘徽殿の言葉に、飾りはなかった。
「わたくしは、己の嫉みを御せませんでした」
「弘徽殿さま」
「ですから、許しは求めません」
弘徽殿が、後ろへ合図した。
女房たちが、白木の長櫃を運び入れる。
封が解かれると、中から古い雛が現れた。
珍しい立雛だった。
男雛と女雛。
古びてはいるが、衣は今も見事だ。
向かい蝶。立涌。浮線綾。
光の加減で、文様が息をするように浮かぶ。
「わたくしの里に伝わる雛です。古く、祖母の、そのまた前の代より伝わるものと聞いております」
弘徽殿は、桐壺を見た。
「入内されても大切にされていた嫁雛を穢した詫びには遠く及びません。ですが、汚したまま何も差し出さず去ることは宮家の恥でございます。どうぞお納めくださいませ」
桐壺は言葉を失っていた。
文子も、思わず雛に目を奪われた。
その裂は、ただ美しいのではない。
どこかで見たことがある文様だ。
陰陽寮の古い図会。
結界の方位を示す文様。
院御所の帳台に残された写し。
弘徽殿は姫宮である。
皇統に連なる古い家の雛ならば、そこに後宮の女たちが忘れたものが残っていても不思議ではなかった。
そこへ、また女房が告げた。
「藤壺さまが、お見えにございます」
弘徽殿が横へ退く。
藤壺は、弘徽殿より控えめに入ってきた。
その手には自ら小さな唐櫃を抱いている。
「桐壺さま」
藤壺は膝を付き、それを開けて見せた。
「わたくしからも、お詫びを」
唐櫃の中には、雛道具が入っていた。
小さな几帳。蒔絵の付いた貝桶。硯箱。御所車。
どれも手のひらに収まるほどなのに、細工は驚くほど細かい。
「これは、母方より伝わったものです。わたくしには、ただ古いものとしか見えませんでした」
藤壺は桐壺に向かい、そっと目を伏せる。
「けれど、あなたなら、大切にしてくださると思いました」
桐壺の目が潤む。
「そのような大切なものを、わたくしに」
「大切だからです」
藤壺は答えた。
「残すために、お渡ししておきたいのです」
その言葉が終わらぬうちに、廊から荒い足音が近付いた。
梅壺だった。
「遅れましたわ」
御簾の内に入るなり、梅壺は顎を上げた。
泣いた痕がある。目元を隠す気もない。
おそらく今日も弘徽殿か藤壺に叱責されたのだろう。
「先に言っておきます。わたくしは、あなたが好きではありません」
桐壺の女房たちが凍り付く。
文子も思わず半眼になった。
この人は、本当に。
だが、梅壺はそのまま持ってきた挟箱を桐壺の前へ置いた。
「それでも、あなたの嫁雛を傷付けたことは悪かったですわ。……わたくしが提案したの。申し訳ありませんでした」
挟箱が開く。
中には、梅丸文の小さな雛と、婚礼調度を模した品々が入っていた。
紅の糸で結ばれた貝。小さな鏡台。櫛箱。
どれも可憐で、どこか勝ち気な華やぎがある。
「東宮時代から、お添い申し上げた方を、とうとう更衣さまに盗られてしまいましたわ」
梅壺はぷいと顔を背けた。
「でも、わたくし自身の過ちですもの。どうかこれからも、わたくしの代わりに主上をお支え申し上げてください」
桐壺は、暫く三つの贈り物を見ていた。
弘徽殿の古い立雛。
藤壺の雛道具。
梅壺の婚礼調度。
それぞれの家に伝わった、女たちの記憶。
それが今、桐壺の前に並んでいる。
「……有難うございます」
桐壺が、ぽつりと言った。
全員が桐壺を見た。
その顔が、みるみる変わっていく。
悲しみではない。
驚き。喜び。
そして、何かを見つけた者の強さ。
「これ……同じです」
文子は思わず身を乗り出した。
けれど、すぐに袖の内で指を握る。
ここで口を挟むべきではない。
今、桐壺の前にあるのは、三人の帝妃から差し出された詫びの品だ。
それを検め、意味を見いだす役目は、まず受け取った桐壺にある。
だが、言わずには居られなかった。
「同じ?」
問い返したのは、弘徽殿だった。
文子は、立雛の衣、几帳の縁、貝の結び糸へ順に目を凝らしながら答えた。
「弘徽殿さまの立雛の浮線綾。藤壺さまの几帳の縁。梅壺さまの貝の結び糸。文様は違います。でも、割り付けの癖が同じです」
花も、蝶も、波も、それぞれ別の家に伝わった意匠だ。
けれど文様を置く間、余白の取り方、糸を結ぶ向きに、同じ理が潜んでいる。
「御用裂……」
それまで成り行きを見守っていた紬路が、低く呟いた。
弘徽殿が目を見張る。
「紬路姫、御用裂をご覧になったことがございますの?」
「ええ」
紬路が答える。
「雛の衣は、幾重もの祝いと咒いを籠めて、古い装束を写すことがあります。小さな几帳にも、かつての御殿の形が残ります。……たとえ後宮の女たちが忘れていても、雛が覚えています」
文子の背筋に熱が走った。
その失われた有職文様が、結界の古い理に作用するかもしれない――。
嫁入りする女たちを長く守ってきた節供や調度が、ただの飾りである筈がない。
祈りを形にして、願いを文様に宿している。



