文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜


「帝のお傍に居たいと願うことが、誰かを苦しめるとは。……わたくしが御子(みこ)を望むことが、誰かを追い詰めるのなら。……わたくしはどうすればよいのかと」

 桐壺は、(まじな)いにより赤土に塗れてしまった嫁雛へ目を落とした。

 幼い頃より、いつか幸せに縁付くようにと、中納言家の者が心を尽くし、年毎に飾り、祝ってきた雛だった。
 桐壺がこの後宮へ入る日にも、母が最後まで箱の紐を(あらた)めてくれた。
 その中でも、この女雛は何より大切にして来たものだった。

「……帝をお慕いする気持ちまで穢れに渡したくはないと、あの夜はそれだけを一心に、あの座の中心で願っていたのです」

 桐壺の言葉に、紬路(つつじ)の唇が少し動いた。

 何か言おうとして、やめたのだろう。
 文子(あやこ)は、その横顔を見た。

「そう、でしたの」

 紬路(つつじ)は扇を伏せた。

 桐壺が守ったものは、物の()(けが)れに喰われずに残った、ただ一人の帝妃の美しい祈りだった。

「であれば、桐壺さま。……あなたも、これからはわたくしと道を同じくなさいませ」
「道を……?」
()して三年、子なきは去れ、などという時代錯誤」

 桐壺が顔を上げた。
 紬路(つつじ)も、まっすぐに桐壺を見ていた。
 そのまなざしは慰めではなく、共に立て、という意思を感じさせるものだった。

「女同士、沈め合う後宮は、これまでにいたしましょう」

 女を裁く言葉は、いつも女の口から出る。
 寵を失った者へ石を投げ、次は自分が石を投げられると知りながら、それでも誰かを下へ押し込める口。

 男たちが作った檻の内側で、女たちが互いの足を掴み合う。
 それを慎みと呼び、掟と呼び、家のため、国のため、血筋のためと飾り立てる。

 けれど、本当は違う。
 誰かを沈めなければ息ができぬほど、女が女であること、(いや)、この後宮そのものが(にご)っているのだ。

「想いの糸が絡んでしまえば、人を縛ります。けれど結べば、形になります。……後宮の女たちが互いを蹴落とすために糸を引くのではなく、何かを結ぶために使うこともできるはずです」
「何か、とは」
「この国です」

 紬路(つつじ)は言い切った。

「帝の寵を競うこと。御子(みこ)をお産み参らせること。ただそれのみが後宮の役目ではない(はず)です」

 それは、紬路(つつじ)らしい言葉だった。

 美しい理想を美しいまま守る姫。
 穢れたものを憎むのではなく、穢れぬ形へ、仕組みごと整えようとしている。
 その美学が今、誰かを押し退けるためではなく、桐壺と並び立つためにられている。

「わたくしたちの中で、誰がいちばんに御子(みこ)をお産み参らせるか。そればかりを競えば、後宮はいつまでも女を沈める池のままです」

 桐壺の握り込む指が、膝の上で強く重なった。

「けれど、たとえ御子(みこ)も授からぬとも、わたくしたちに結べる(えにし)は他にもあります。……祈りを捧げ、装束を(あらた)め、民の安寧を願う。国の民へ、愛し子へ、遍く行き渡らせることはできる(はず)です」

 紬路(つつじ)の言葉は、次第に熱を帯びていった。

「わたくしたちのお慕いする方が日々、心身を削って治めておられる国です。……ならば、わたくしたちもその子たる民草へ、目を向けるべきとは思いませんか」

 文子(あやこ)は、息を()んだ。

 その「わたくしたち」は、まず桐壺へ向けられたものだろう。

 今上(きんじょう)の更衣、桐壺。
 二の宮の許嫁(いいなずけ)となった文子(あやこ)
 三の宮であった、(いま)東宮(とうぐう)の正妃、紬路(つつじ)

 誰の愛する男が、次の御世を担うか。
 誰の産む皇子(みこ)が、いずれこの国の上に立つか。

 本来なら、ここにいる女たちは、同じ糸の端を奪い合う者同士だった。

 桐壺が皇子(みこ)を産めば、その御子(みこ)今上(きんじょう)の血を継ぐ。
 紬路(つつじ)皇子(みこ)を産めば、その御子(みこ)東宮(とうぐう)御子(みこ)として、最も帝位に近くなる。
 そして文子(あやこ)もまた、鬼神の二の宮に嫁ぐ身となった以上、皇統の外にいる女ではなくなっていた。

 選ばれる者、押し退()けられる者。
 産む者、産めぬ者。
 祝われる女、忘れられる女。

 後宮はそうして女を並べ、比べ、沈めてきた。

 けれど紬路(つつじ)は今、その争いの名を変えようとしている。

 誰が寵を受けるかではなく。
 誰がこの国を支えるか、へ。
 大切な御方の治める国を、その妃自身の手でも守るために。

 その糸の端を、紬路(つつじ)は桐壺へ差し出していた。
 そしておそらくは、文子(あやこ)の前にも――。

「愛とは奪い合うものではありません。まして、没落の運命に堕ちた帝妃を蔑み返すものでもありません」

 紬路(つつじ)の言葉は鋭く、これまで長く自分自身の中でも突きつけられて来たものだと知れた。

「そのような愛し方は、下賤で(いつわり)です」

 下賤。
 文子(あやこ)は、その言葉の強さに、思わず紬路(つつじ)を見た。

 紬路(つつじ)は目を伏せなかった。
 美しいものを汚されることを、誰より嫌う姫だった。
 だからこそ嫉みや仕返しまで、愛という名で包むことを許さない。

 愛に優劣があるとすれば、それは報われたかどうかではない。
 どれほど過酷な場所に置かれても、嫉みへ沈まず、形を変え、猶も捧げ尽くせる道を探し出そうとする強さにある。
 紬路(つつじ)は、そのように言っているのだ。

「護ろうとなさっている国ごと、お支え申し上げ、最も美しく最も高尚な愛の形として、捧げるべき(はず)です。……この国は(あまね)く、そのわたくしたちの想う方のものなのですから」

 桐壺は返す言葉もなく、ただ紬路(つつじ)を強い眼で(みつ)めていた。

「桐壺さま」

 紬路(つつじ)は、改めて桐壺へ向き直った。

「あなたは、帝への想いを(けが)れに渡さなかった。その正しく強い想いを用いて、後宮を結び直すためにどうかお力添えいただけないでしょうか」

 桐壺の目に、涙が浮かんでいた。
 けれど、それはあの、帝妃たちに三方からにじり寄られていた夜の涙とは違っていた。

「……わたくしに、できるでしょうか」
「できます」

 紬路(つつじ)は即座に答えた。

「あなたは雛人形を長年大切にしていらした。人形へも情を掛けられる方なら、きっと何か……後宮を結び直すための糸を見つけられる(はず)ですわ」

 桐壺の視線が、赤土に塗れた嫁雛へ落ちた。

 傷付けられたもの。
 けれど、捨てられなかったもの。

 そこにまだ、桐壺の祈りは残っていた。