その日は、朝から後宮が慌ただしかった。
夜明けの薄い光が廊に差す頃には、もう女房たちの足音が幾重にも重なっていた。
御簾の向こうを、行李を捧げ持った雑色が、あちらへ行き、こちらへ戻る。
それでも人手が足りぬのか、女官も女房も袖をたくし上げ、息を切らして廊を渡っていた。
弘徽殿、藤壺、梅壺。
三人の里下がりは、すでに内々に沙汰が下っている。
表向きの理由は、それぞれに用意されていた。
物の怪に怯え、自ら申し出た精進潔斎。
乱れた心身を鎮めるための、一時の退出。
長の物忌み、そういったものだ。
尤も、後宮に仕える者なら、その言葉の裏くらい判る。
帝妃が三人も同じ日に里へ下がるなど、尋常ではない。
そして、尋常ではないのは、運び出される荷ばかりではなかった。
里下がりともなれば、衣、香、調度、手箱、手文庫、季節の単衣に袿、女房たちの道具まで、後宮の一室を移すほどの支度になる。
そこまでに不審はない。
だが、その半分ほどの量が、逆に奥の淑景舎、つまり桐壺の殿舎へと運び込まれていた。
しかも弘徽殿の里の女房が持つ長櫃も、藤壺方の唐櫃も、梅壺方の小さな挟箱も、みな同じ方角へ進んでいく。
文子は、白い小袖に緋袴をきっぱりと着こなし、忙しない七殿五舎にあっても毅然と立っていた。
咒いを籠めた品を、桐壺の局へ運び込もうとしているのかもしれない。
また桐壺を傷付けるための新たな嫌がらせか、性懲りもない。
そう思い、荷を運ぶ女房たちの顔を観察していたのだ。
だが、その顔に勝ち誇った色はない。
むしろ伏し目がちで、手つきも慎重に運ぶ様子に良からぬものは見えなかった。
「文子」
振り向くと、紬路が立っていた。
今日も珍しく早起きしたようで、隙のない装いだ。
品の良い縮緬が朝の光を受け、女ぶりが匂い立つような姿だ。
その表情にはいつもの張りつめた立場の重さとは、少し違うものが浮かんでいた。
「どちらへ?」
「桐壺さまに、御機嫌伺いに行こうかと」
文子が答えると、紬路は意外なことを言った。
「わたくしも参ります」
志乃は例によって、朝から方々へ走り回っている。
銘々の里亭からの遣いに笑いかけ、運び込まれる荷の中身を検め、諸処へ報告に行く。
漸く戻ってきたかと思えば、今度は向かいの淑景舎に集まった気色ばんだ女官たちを宥めていた。
「もう、なんだってわたくし達が運び役なんぞ」
「更衣さまの前へ、雑色を遣わす訣にはいかないでしょう」
「なら、弘徽殿さまの女房が自分でお運びになればよろしいのに」
「それを言ったら角が立つでしょうに。あちらも里下がりの支度で手一杯よ」
「こちらだって手一杯です」
「はいはい。手一杯でも、手は二本ありまーす。ほらほら、口より先に動かして」
志乃の明るい叱咤が廊の向こう、中庭で飛び交っている。
あの調子では、今日一日戻ってこないかもしれない。
紬路も同じことを思ったのか、扇の端で口元を隠しながら言った。
「参りましょう」
淑景舎では、桐壺が次々と運び込まれる荷に驚き、所在なげにしていた。
文子は紬路より一歩下がって控え目に添う。
「御機嫌いかがかしら」
「……! これは、紬路さま」
桐壺は慌てて身を起こし、上座を譲ろうとした。
帝の更衣であるとはいえ、紬路は東宮唯一の正妃たる女御である。
たとえ自室であろうとも次代の皇后に最も近い姫君を、下座に置くことは許されない。
けれど紬路は扇を伏せ、穏やかに首を振った。
「今日は、桐壺さまをお訪ねしたのです。どうか、そのままで」
「はい」
桐壺が困ったように文子を見た。
文子は、何も言わずに一礼した。
ここでまた口を挟めば、誰かの面目を立て、誰かの面目を潰す話になる。
紬路が自ら下がるというのなら、それが今の正しい形だった。
座が定まると、紬路が切り出した。
「御機嫌を伺いに参りました」
「お気遣い、有難く存じます」
桐壺は年こそ若いが、やはり華族の姫としての受け答えを身につけていた。
「外が騒がしいでしょう」
「ええ。かなり」
「皆さまが、里へ下がられる支度をなさっているのね」
桐壺の視線が、御簾の向こうへ向く。
責めるでもない。勝ち誇るでもない様子だ。
傷付けられそうになった側なのだから、もっと怒ってよいのに。
そう思うのは、文子の勝手だろうか。
「桐壺さま。ご遠慮なさる必要はありません」
桐壺は目を瞬かせて、不思議そうに紬路を見た。
「遠慮、とは」
「あなたは真実、畏れ多くも今上へ一途にお心を寄せながら、嫉妬に呑まれずにいらしたのです」
桐壺の目が、やがて遠くを見るものになった。
「ただ……悲しかったのです」
それは多くの女房に傅かれながら、主上と過ごす一時の外には、窮屈な後宮を孤独に受け止めてきた姫の言葉だった。
夜明けの薄い光が廊に差す頃には、もう女房たちの足音が幾重にも重なっていた。
御簾の向こうを、行李を捧げ持った雑色が、あちらへ行き、こちらへ戻る。
それでも人手が足りぬのか、女官も女房も袖をたくし上げ、息を切らして廊を渡っていた。
弘徽殿、藤壺、梅壺。
三人の里下がりは、すでに内々に沙汰が下っている。
表向きの理由は、それぞれに用意されていた。
物の怪に怯え、自ら申し出た精進潔斎。
乱れた心身を鎮めるための、一時の退出。
長の物忌み、そういったものだ。
尤も、後宮に仕える者なら、その言葉の裏くらい判る。
帝妃が三人も同じ日に里へ下がるなど、尋常ではない。
そして、尋常ではないのは、運び出される荷ばかりではなかった。
里下がりともなれば、衣、香、調度、手箱、手文庫、季節の単衣に袿、女房たちの道具まで、後宮の一室を移すほどの支度になる。
そこまでに不審はない。
だが、その半分ほどの量が、逆に奥の淑景舎、つまり桐壺の殿舎へと運び込まれていた。
しかも弘徽殿の里の女房が持つ長櫃も、藤壺方の唐櫃も、梅壺方の小さな挟箱も、みな同じ方角へ進んでいく。
文子は、白い小袖に緋袴をきっぱりと着こなし、忙しない七殿五舎にあっても毅然と立っていた。
咒いを籠めた品を、桐壺の局へ運び込もうとしているのかもしれない。
また桐壺を傷付けるための新たな嫌がらせか、性懲りもない。
そう思い、荷を運ぶ女房たちの顔を観察していたのだ。
だが、その顔に勝ち誇った色はない。
むしろ伏し目がちで、手つきも慎重に運ぶ様子に良からぬものは見えなかった。
「文子」
振り向くと、紬路が立っていた。
今日も珍しく早起きしたようで、隙のない装いだ。
品の良い縮緬が朝の光を受け、女ぶりが匂い立つような姿だ。
その表情にはいつもの張りつめた立場の重さとは、少し違うものが浮かんでいた。
「どちらへ?」
「桐壺さまに、御機嫌伺いに行こうかと」
文子が答えると、紬路は意外なことを言った。
「わたくしも参ります」
志乃は例によって、朝から方々へ走り回っている。
銘々の里亭からの遣いに笑いかけ、運び込まれる荷の中身を検め、諸処へ報告に行く。
漸く戻ってきたかと思えば、今度は向かいの淑景舎に集まった気色ばんだ女官たちを宥めていた。
「もう、なんだってわたくし達が運び役なんぞ」
「更衣さまの前へ、雑色を遣わす訣にはいかないでしょう」
「なら、弘徽殿さまの女房が自分でお運びになればよろしいのに」
「それを言ったら角が立つでしょうに。あちらも里下がりの支度で手一杯よ」
「こちらだって手一杯です」
「はいはい。手一杯でも、手は二本ありまーす。ほらほら、口より先に動かして」
志乃の明るい叱咤が廊の向こう、中庭で飛び交っている。
あの調子では、今日一日戻ってこないかもしれない。
紬路も同じことを思ったのか、扇の端で口元を隠しながら言った。
「参りましょう」
淑景舎では、桐壺が次々と運び込まれる荷に驚き、所在なげにしていた。
文子は紬路より一歩下がって控え目に添う。
「御機嫌いかがかしら」
「……! これは、紬路さま」
桐壺は慌てて身を起こし、上座を譲ろうとした。
帝の更衣であるとはいえ、紬路は東宮唯一の正妃たる女御である。
たとえ自室であろうとも次代の皇后に最も近い姫君を、下座に置くことは許されない。
けれど紬路は扇を伏せ、穏やかに首を振った。
「今日は、桐壺さまをお訪ねしたのです。どうか、そのままで」
「はい」
桐壺が困ったように文子を見た。
文子は、何も言わずに一礼した。
ここでまた口を挟めば、誰かの面目を立て、誰かの面目を潰す話になる。
紬路が自ら下がるというのなら、それが今の正しい形だった。
座が定まると、紬路が切り出した。
「御機嫌を伺いに参りました」
「お気遣い、有難く存じます」
桐壺は年こそ若いが、やはり華族の姫としての受け答えを身につけていた。
「外が騒がしいでしょう」
「ええ。かなり」
「皆さまが、里へ下がられる支度をなさっているのね」
桐壺の視線が、御簾の向こうへ向く。
責めるでもない。勝ち誇るでもない様子だ。
傷付けられそうになった側なのだから、もっと怒ってよいのに。
そう思うのは、文子の勝手だろうか。
「桐壺さま。ご遠慮なさる必要はありません」
桐壺は目を瞬かせて、不思議そうに紬路を見た。
「遠慮、とは」
「あなたは真実、畏れ多くも今上へ一途にお心を寄せながら、嫉妬に呑まれずにいらしたのです」
桐壺の目が、やがて遠くを見るものになった。
「ただ……悲しかったのです」
それは多くの女房に傅かれながら、主上と過ごす一時の外には、窮屈な後宮を孤独に受け止めてきた姫の言葉だった。



