水面が止まった。
波立っていた黒い水が、ひと息に鎮まる。
反橋に絡みついていた袖めいた影が、力を失って水へ落ちた。
砕けていた月の輪郭が、ゆっくりと一つに戻っていく。
池の底から引きずり上げられていた闇が、糸を解かれるように沈んだ。
濡れた影が夜燈の裾から離れ、水面へ溶けず、彼の足元へ戻っていく。
落莫とした夜燈の金の目が、大きく揺れた。
焼き尽くす劫火の光が、文子の名を見つけて揺らぐ。
荒ぶる魂の奥で、一瞬、人の眼差しが戻った。
夜燈が苦しげに息を吐いた。
その息が白く、如月の月下へたなびいていく。
文子は九字を切ったばかりの手で、袖の内から扇を取り出した。
まだ、近付いてよいとは思えない。
だが、離れていては戻せない。
一歩、夜燈へ近付いた。
夜燈の肩が揺れる。
拒むように。
それでいて、待つように。
「来るな」
言葉とは裏腹に、彼はもう退かなかった。
文子はもう一歩近付き、片膝をついた夜燈の前に屈んだ。
濡れた影が足元で揺れる。
爪へ変じかけていた指が、空を掴むように強く曲がった。
それでも夜燈は、文子へ腕を伸ばそうとはしない。
己の爪で傷付けまいとしているのだ。
「尚、さま……」
垂れ込めた黒髪越しに、夜燈の目が揺れた。
「わたくしを傷付けまいと、しているのね」
文子は震える指を伸ばした。
夜燈の艶やかな黒髪へ触れる。
月光を含んだ髪は、まだ水の気を帯びているように冷たい。
けれど、その奥にある熱は消えていない。
文子はその髪を撫で下ろし、乱れた一房を耳の後ろへ流した。
「……文子」
「動かないで」
命じると、夜燈は動かなかった。
文子はその頭を引き寄せた。
肩口へ、鬼の額が触れる。
角は文子の肩を避けるように上へ逸れていた。
怖くない筈がない。
けれど、腕を緩めれば、夜燈はまた独りで荒魂の底へ沈もうとする。
それは看過することができない。
文子は片腕で夜燈の頭を抱き、もう一方の手で扇を開いた。
薄い骨が月の光を受ける。
扇面に描かれた花が、夜気の中で淡く浮かび上がった。
常寧殿前の廊から、こちらを窺う女房があるかもしれない。
だが、これは人に見せるための演目ではなく、二人だけの密か事だ。
神にも。
鬼にも。
帝にも。
後宮の誰にも奪わせない、二人だけで結んだ苧環の絆。
文子は扇を、二人の口元へ差し上げた。
扇の内側に、二人きりの夜が落ちる。
夜燈の荒い息が、文子の衣越しにも判る熱を持っている。
その熱は、文子の指先まで痺れ渡るように広がった。
触れたのは息のみの筈なのに、文子の唇にまで熱が移る。
「あなたは、わたくしの式神」
「……ああ」
「なら、わたくしの息を受けなさい」
喰らうための口ではない。
呪うための口でもない。
帰るための息を、文子は夜燈へ渡す。
扇の陰で、牙の覗く唇へ口づけようとする。
鋭い牙が、文子の下唇に触れかけた。
その寸前で、夜燈が身を強張らせた。
傷付けまいとする意思が、荒魂の奥から這い上がる。
その焔が、文子の息に触れて、少しずつ形を失っていく。
夜燈の角に走っていた黒い筋が、月光にほどける。
爪が指へ戻り、御池から夜燈へと伸びていた黒い袖が、音もなく水へ沈む。
扇の内で、夜燈の息が甘く変わった。
喰らおうとする獣の熱ではなく、求めている熱だ。
文子のもとへ戻り、文子と一体になろうとする、人の息だった。
やがて、互いの息を吸い尽くそうとしていた接吻は、ゆっくりと離れた。
まだ額は寄せ合ったまま、扇の陰で視線が絡み合っている。
金の瞳が、黒曜石の宝石眼の煌めきを持つものへ戻っている。
やがて文子が扇を少し下げると、月の光が夜燈の口元へ落ちた。
鬼の牙も、もうなかった。
文子の名を呼ぶための、人の唇がそこにあった。
顔を離しても、夜燈は文子を抱きしめて離さなかった。
爪の戻った指が、文子の袖を掴む。
力強くはあるが、引き裂くための力ではない。
離したくないと訴えるような力だった。
そうして、また月の光の下、額を寄せ合っていく。
波立っていた黒い水が、ひと息に鎮まる。
反橋に絡みついていた袖めいた影が、力を失って水へ落ちた。
砕けていた月の輪郭が、ゆっくりと一つに戻っていく。
池の底から引きずり上げられていた闇が、糸を解かれるように沈んだ。
濡れた影が夜燈の裾から離れ、水面へ溶けず、彼の足元へ戻っていく。
落莫とした夜燈の金の目が、大きく揺れた。
焼き尽くす劫火の光が、文子の名を見つけて揺らぐ。
荒ぶる魂の奥で、一瞬、人の眼差しが戻った。
夜燈が苦しげに息を吐いた。
その息が白く、如月の月下へたなびいていく。
文子は九字を切ったばかりの手で、袖の内から扇を取り出した。
まだ、近付いてよいとは思えない。
だが、離れていては戻せない。
一歩、夜燈へ近付いた。
夜燈の肩が揺れる。
拒むように。
それでいて、待つように。
「来るな」
言葉とは裏腹に、彼はもう退かなかった。
文子はもう一歩近付き、片膝をついた夜燈の前に屈んだ。
濡れた影が足元で揺れる。
爪へ変じかけていた指が、空を掴むように強く曲がった。
それでも夜燈は、文子へ腕を伸ばそうとはしない。
己の爪で傷付けまいとしているのだ。
「尚、さま……」
垂れ込めた黒髪越しに、夜燈の目が揺れた。
「わたくしを傷付けまいと、しているのね」
文子は震える指を伸ばした。
夜燈の艶やかな黒髪へ触れる。
月光を含んだ髪は、まだ水の気を帯びているように冷たい。
けれど、その奥にある熱は消えていない。
文子はその髪を撫で下ろし、乱れた一房を耳の後ろへ流した。
「……文子」
「動かないで」
命じると、夜燈は動かなかった。
文子はその頭を引き寄せた。
肩口へ、鬼の額が触れる。
角は文子の肩を避けるように上へ逸れていた。
怖くない筈がない。
けれど、腕を緩めれば、夜燈はまた独りで荒魂の底へ沈もうとする。
それは看過することができない。
文子は片腕で夜燈の頭を抱き、もう一方の手で扇を開いた。
薄い骨が月の光を受ける。
扇面に描かれた花が、夜気の中で淡く浮かび上がった。
常寧殿前の廊から、こちらを窺う女房があるかもしれない。
だが、これは人に見せるための演目ではなく、二人だけの密か事だ。
神にも。
鬼にも。
帝にも。
後宮の誰にも奪わせない、二人だけで結んだ苧環の絆。
文子は扇を、二人の口元へ差し上げた。
扇の内側に、二人きりの夜が落ちる。
夜燈の荒い息が、文子の衣越しにも判る熱を持っている。
その熱は、文子の指先まで痺れ渡るように広がった。
触れたのは息のみの筈なのに、文子の唇にまで熱が移る。
「あなたは、わたくしの式神」
「……ああ」
「なら、わたくしの息を受けなさい」
喰らうための口ではない。
呪うための口でもない。
帰るための息を、文子は夜燈へ渡す。
扇の陰で、牙の覗く唇へ口づけようとする。
鋭い牙が、文子の下唇に触れかけた。
その寸前で、夜燈が身を強張らせた。
傷付けまいとする意思が、荒魂の奥から這い上がる。
その焔が、文子の息に触れて、少しずつ形を失っていく。
夜燈の角に走っていた黒い筋が、月光にほどける。
爪が指へ戻り、御池から夜燈へと伸びていた黒い袖が、音もなく水へ沈む。
扇の内で、夜燈の息が甘く変わった。
喰らおうとする獣の熱ではなく、求めている熱だ。
文子のもとへ戻り、文子と一体になろうとする、人の息だった。
やがて、互いの息を吸い尽くそうとしていた接吻は、ゆっくりと離れた。
まだ額は寄せ合ったまま、扇の陰で視線が絡み合っている。
金の瞳が、黒曜石の宝石眼の煌めきを持つものへ戻っている。
やがて文子が扇を少し下げると、月の光が夜燈の口元へ落ちた。
鬼の牙も、もうなかった。
文子の名を呼ぶための、人の唇がそこにあった。
顔を離しても、夜燈は文子を抱きしめて離さなかった。
爪の戻った指が、文子の袖を掴む。
力強くはあるが、引き裂くための力ではない。
離したくないと訴えるような力だった。
そうして、また月の光の下、額を寄せ合っていく。



