文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 産着の()(はら)った翌夜。
 昼の騒ぎが(ようや)く後宮の奥へ沈んだ時分。

 御簾(みす)の向こうでは、女房たちが蕭条(しょうじょう)たる夜具の波に包まれるように眠っている。

 文子(あやこ)の背に刻まれた式紋は、昼過ぎからずっと熱を持っていた。

 ()けるように、呼んでいる。

 いや、違う、耐えているのだ。
 文子が背を焼かれるように感じている、その奥で。
 夜燈(やと)はどこかで、己の荒魂(あらたま)を抑えようとしている。

 夜半、文子(あやこ)は見えぬ苧環(おだまき)の結びつきに引かれるようにして、後宮の奥庭へ出た。

 常寧殿(じょうねいでん)の東庭に、小さな御池がある。

 広い池ではない。
 麗景殿へ続く渡殿(わたどの)の陰に隠れるように、遣水(やりみず)が一所で深まり、月を映すほどの水面を作っている。

 幼い宮たちが、乳母の目を盗んで水面を(のぞ)き込み、袖を引かれて叱られている姿が目に浮かぶようだった。

 かつて、まだ鬼神ではなく、真名(まな)で呼ばれていたころの夜燈(やと)も、母宮に手を引かれ、この池に映る月を見たという。

 常に(やす)からんと名付けられた殿舎の庭で、今宵、その名に背くものが独り荒ぶっていた。

 御池のほとり。
 反橋の向こう。
 水面に落ちた月は、墨を流したように(ゆが)み、砕け、一所(ひとところ)へ留まれずに揺れている。

 その岸に、夜燈(やと)が立っていた。

 皇子(みこ)として後宮に生まれ育ち、親王(しんのう)宣下を受け、やがて臣下へ下った宮。
 皇統の内に留まっていれば、帝の血を引く尊き宮として(あお)がれたはずの男。

 けれど今、そこにいるのはそうした人の世の栄えではない。

 人の和魂(にきたま)へ踏み留まろうとする、文子(あやこ)の式神だ。
 それでいて、一度(ひとたび)手綱が切れれば、たちまち荒魂(あらたま)へ呑まれ果てる鬼神でもあった。

 人の形は、まだ保っている。
 だが、月の下に立つその姿は、もはや人のみのものではない。

 額には黒い角が伸び、指先は爪へ変じかけ、衣の裾から垂れる影は濡れたまま池の水へ溶け落ちていた。
 その影は水面へ触れるたび、月を更に砕き、池の底から別の闇を引きずり上げるように見える。

 そして何より、目だった。

 奥に灯る金の光。
 それはぬくもりのある灯ではない。
 焼き切るための灯だった。

 人の(ことわり)も、神仙を(おそ)れる心も、式としての(つな)がりさえも、ひと息に焼き尽くしてしまいそうな危うい光。

 文子(あやこ)は息を()んだ。

 あれは、自分の知る夜燈(やと)でありながら、もう半ば、別のものだった。
 近付けば裂かれるかもしれぬ。
 名を呼べば、戻るより先に喰われるやもしれぬ。

 それでも、逃げずにここで耐えている姿。
 誰も傷付けぬよう、殊に文子(あやこ)から遠ざかっている。
 月下で独り、己の内から這い上がる荒ぶるものを押し戻している姿の痛ましさが、胸の奥を強く打った。

「近付くな」

 夜燈(やと)が警告する。
 だが、文子(あやこ)は足を止めなかった。

「引き裂いてしまうやもしれぬ」

 文子(あやこ)の足裏が冷える。
 それほどまでに、荒魂(あらたま)が近いのか。

「傷を付けるやもしれぬ」

 夜燈(やと)の荒ぶる金の目が揺れた。
 けれど、それでも、文子(あやこ)の心を(とら)えて離さぬものがある。

「わたくしは、どうすれば……」
「だが、行かないでくれ……」

 それは懇願だった。
 短く発せられた、命でも脅しでもないもの。

 皇子として生まれた誇り高い皇統の男が、文子(あやこ)一人に、行くなと請願していた。

「矛盾しておいでです」
「ああ……」
「何かできることは?」
「俺を縛ってくれ」

 御池の水面が、夜燈(やと)の背後で黒く波立った。

「そなたが去れば、俺は今度こそ鬼になる」

 文子(あやこ)の背の式紋が灼けた。

「戻れと命じられるのは、そなただけだ」

 黒い影が足元から伸び、水面へ落ちる。
 水の上で月が砕け、その中で鬼神の影が更に大きく膨れ上がる。

「私のせいね」
「違う」
「私が命じたわ」
「断じて、違う!」

 夜燈の目の金が、一際(ひときわ)強く燃えた。

「俺を鬼にするのも、式へ戻すのもそなただ。――我が主よ」

 背の式紋が、痛いほど()けた。

 文子(あやこ)はいつの間にか見えるようになっていた苧環(おだまき)の糸を取り出した。
 夢の中で幾度も夜燈(やと)(もと)辿(たど)った、細い細い道標(みちしるべ)

 その糸を(ほど)き、反橋の上へ一歩踏み出す。
 月の砕けた水面を越え、夜燈の方へ糸を掛けた。

 糸が張る。

 文子の息と、夜燈の荒魂とが、細い一筋で繋がった。

 途端、(ひざ)が落ちかけた。

 熱い。
 重い。
 夜燈(やと)の内側に渦巻く黒いものが、苧環(おだまき)の糸を伝って文子(あやこ)へ押し寄せる。

 水底。
 嫉妬。
 渇き。
 喰らいたいという衝動。

 その奥に、文子(あやこ)の名があった。

 夜燈(やと)文子(あやこ)を喰いたいのではない。
 文子(あやこ)を傷つける牙を向けぬよう、己の荒魂(あらたま)を押し殺している。

「愚かな人――」
「……」
「私は、あなたを鬼に()とすために(ちぎ)ったのではありません」

 夜燈(やと)の影が揺れる。
 御池の水面が黒く盛り上がり、産着の袖に似たものが幾つも水中から伸びた。

 文子(あやこ)は落ちかかる髪を払いのけ、両手で九字を切った。

帝台(ていたい)文王(ぶんおう)三台(さんだい)

 黒い袖が反橋の欄干(らんかん)に絡みつく。
 木が(きし)む。
 水面に映る月が、幾つにも裂ける。

 文子(あやこ)は退かなかった。

玉女(ぎょくにょ)……!」

 最後の(あざ)を切った瞬間、苧環(おだまき)の糸が赤く燃えた。

 夜燈(やと)の肩が大きく揺れる。
 黒い角に走っていた筋が、一つ、また一つと月光に浮かび上がった。

「戻りなさい」

 文子(あやこ)は糸を引いた。
 それは式神(しきがみ)への命であり、祈りだった。

 けれど、それだけでは足りない。

 鬼神を鎮めるためでも、式を従えるためでもない。
 皇統の血を持つ宮だからでも、己の力を証す式神だからでもない。

 この人が、己を傷付けぬために独りで耐えている男だから。
 荒ぶる魂の底で、なお文子(あやこ)を守ろうとしている人だから。

 文子(あやこ)は、式名ではない、その名を呼ぶことにする。
 主としてではなく。
 女として。

尚暉(なおてる)さま」

 名が、御池の上へ落ちた。

 鬼神ではなく。
 宮でもなく。
 荒ぶるものでもなく。

 かつて母宮に手を引かれ、この池に映る月を見た子。
 兄弟宮たちと同じように名を呼ばれ、輝く光を帯びていた(はず)皇子(みこ)

 その真名を、文子(あやこ)は呼んだ。