翌朝の昭陽北舎は、朝から落ち着かなかった。
廊の向こうを女房たちが行き交い、足音が何度も近付いては遠ざかる。
誰も大きな物音は立てていない。
けれど、その頻度が常のものではなかった。
七殿五舎すべてが、昨夜の飛香舎の出来事に沸き立たされている。
文子は文机の前に座り、占状を書いていた。
昨夜、夜燈が喰ったもの。
三帝妃の嫉妬と、御子封じへ傾いた穢れ。
そして、物の怪として現れた撫子。
憶測を交えず、どこまで詳らかに書くべきか。
思い返すたび、背の式紋が熱を持つ。
そこへ、几帳の向こうから慌ただしい衣擦れがした。
「文子、いる?」
振り返ると、目元に疲れを残した志乃が、敷居を跨いで来るところだった。
典侍として飛香舎の騒ぎに対応し、殆ど休んでいないのだろう。
「いるわ。……あなたこそ、倒れるのではなくて?」
「今すぐ、ふかふかの布団に倒れ込みたいわよお」
志乃はそう言いながら、文机の隣に座り込んだ。
いつもの調子に戻そうとしている。
けれど、笑いきれていない。
「弘徽殿、藤壺、梅壺に、里下がりが命じられたわ」
文子は顔を上げた。
「三人とも?」
「三人とも。表向きは、昨夜の怪異に触れてお疲れが出たため、御身を休めるように、ということになっているけれど」
「……後宮から離されたのね」
「そういうこと」
表向きは、そうかもしれない。
だが、それきりではないはずだった。
呪いの人形を三人が置いた件は、陰陽寮の上役も掴んでいる。
志乃は与り知らぬことだが、その報告も上がったのだろうと思われた。
「帝妃が一度に三人、里亭へ下がるなんて、もう大騒ぎよ。……でも、女房たちが報告したのだもの。仕方ないわ」
昨夜、桐壺の悲鳴を聞きつけた者は、あまりにも多かった。
「飛香舎の御簾の内から黒いものが立ち上がったところも、中務宮さまが現れたところも、みんな見ていたのよ」
「ええ、多すぎたわね」
「多すぎたなんてもんじゃない。隠しようがないし、やはり……物の怪に魅入られ憑かれた姫を、主上のお傍に上がらせる訣にはいかないものね」
文子も息を吐いた。
隠せない。
それには、良いこともある。
嫉妬を募らせて物の怪の餌を育てたのは華族の在り方と後宮全体の問題だ。
決して弘徽殿、藤壺、梅壺だけが悪かったのではないと、文子には判っていた。
それを多くの女房が目にした以上、対立を面白がる空気も、暫くは息を潜めるだろう。
けれど同時に、夜燈が文子の式神として現れたことも、正式には隠せなくなっていた。
「桐壺さまはどうしてるの」
文子が問うと、志乃の表情が曇った。
「残されたわ。帝妃として」
「当然でしょうね。あの方は餌にされかけた側だもの」
「ええ。けれど、本人はそう割り切れないでしょうね。なるべく傍にいて、お力になれるようにしている心算なんだけど」
愁傷な心掛けだった。
志乃にはこういうところがある。
だからこそ、人に好かれるのだ。
「帝の寵を受けていたから残されたのか、被害者だから残されたのか。……これでますます皆が噂するわ」
「御子を得ぬ女として、また見られる」
撫子の姿を取った嫉妬の物の怪を退けたとはいえ、肝心の御子封じの咒いは、まだ手付かずのままだ。
陰陽寮の老官人にも、禁厭秘帖にも、種絶えの咒いそのものを破る手立ては、まだ見えていない。
「そう、……そうね」
その時、几帳の奥から別の衣擦れがした。
「その噂は、わたくしもなるべく止めるようにするわ」
朝の衣を整えた紬路が出て来た。
志乃が驚いて振り返る。
「珍しいじゃない。もう紬路が起きてるなんて」
「聞いていたわ。出る機を失って」
志乃の所感を取り合わず、紬路は二人の前に座った。
友人の顔と、東宮妃の顔。
その二つが、同じ面差しの中に同居している。
けれど昨夜、紬路は最後には桐壺を案じて動こうとした。
それを見た今なら、文子にも判る。
あるいは昨夜まで、自分たちまでも嫉妬の物の怪の影響下にあったのかもしれない。
友人でありながら、互いの立場を先に見てしまうほどには。
「桐壺さまを残すことは、後宮としては正しいわ」
紬路は膝の上で指を重ねた。
「真実、帝をお慕い申し上げているご様子ですもの。……けれど、正しいからといって、優しい処遇だった訣ではない」
文子は黙って聞いていた。
「弘徽殿、藤壺、梅壺が里亭へ下がれば、淑景舎だけが残る。今上の寵は、変わらず桐壺さまへ集まるでしょう」
紬路はそこで、一度だけ目を伏せた。
「そうなれば今度は、物の怪を差し向けたのは桐壺さまだと讒言する者もきっと現れる」
「どちらへ転んでも、あの方は責められるのね」
志乃が低く言った。
紬路は頷いた。
「残念ながら、そういうものよね。帝に選ばれても責められる。御子がなくても責められる。物の怪に狙われた挙句、ただ一つ残った席に座っても責められる」
「――女に生まれた時点で、もう誰かの物語の悪役なのですもの」
文子は、つい昨夜の撫子の言葉を口の端に乗せていた。
志乃が息を詰める。
紬路はすぐには答えなかった。
その言葉が、三人の間に落ちる。
重く、湿ったもののように。
やがて紬路が、ゆっくりと文子を見た。
「ええ、そうね。……でもね、文子」
その目に、東宮妃としての硬さとは別のものがあった。
女学校の頃、同じ卓を囲んでいた姫の、ひどく真っ直ぐな眼差しだった。
「わたくしは、このまま東宮との御子が授からなかったとしても、後悔はないのよ」
志乃が、何か言いかけて黙った。
文子もまた、言葉を挟めなかった。
紬路は、膝の上の指を解かなかった。
解かないまま、少しだけ力を込める。
「たとえ皇に掛けられた咒いなどとは無縁の、他の方と結ばれていたなら子を持てたのだ、と言われたとしても」
それは強がりではなかった。
少なくとも、今の文子にはそう見えた。
「だから女にとっては、どれほど心を掛けられる方と結ばれるかが、きっと大切なのだわ」
志乃が視線を落とした。
帝の寵。
東宮妃の座。
御子を得ること。
家を栄えさせること。
後宮では、それらが女の価値のように語られる。
けれど紬路は、その真ん中にいながら、別のものを選んでいる。
「だから文子も、わたくしに遠慮などしなくていいの」
その一言で、文子は背の式紋を意識した。
夜燈に選ばれた。
だが、それのみではない。
文子もまた、夜燈を選び、背に刻んだ。
紬路は、それを知っている。
知った上で、東宮妃としてではなく、友人として言っている。
ならば、桐壺も。
そして、文子自身も。
誰かの物語の悪役としてではなく、自らの心で立つことが大切なのだ。
廊の向こうを女房たちが行き交い、足音が何度も近付いては遠ざかる。
誰も大きな物音は立てていない。
けれど、その頻度が常のものではなかった。
七殿五舎すべてが、昨夜の飛香舎の出来事に沸き立たされている。
文子は文机の前に座り、占状を書いていた。
昨夜、夜燈が喰ったもの。
三帝妃の嫉妬と、御子封じへ傾いた穢れ。
そして、物の怪として現れた撫子。
憶測を交えず、どこまで詳らかに書くべきか。
思い返すたび、背の式紋が熱を持つ。
そこへ、几帳の向こうから慌ただしい衣擦れがした。
「文子、いる?」
振り返ると、目元に疲れを残した志乃が、敷居を跨いで来るところだった。
典侍として飛香舎の騒ぎに対応し、殆ど休んでいないのだろう。
「いるわ。……あなたこそ、倒れるのではなくて?」
「今すぐ、ふかふかの布団に倒れ込みたいわよお」
志乃はそう言いながら、文机の隣に座り込んだ。
いつもの調子に戻そうとしている。
けれど、笑いきれていない。
「弘徽殿、藤壺、梅壺に、里下がりが命じられたわ」
文子は顔を上げた。
「三人とも?」
「三人とも。表向きは、昨夜の怪異に触れてお疲れが出たため、御身を休めるように、ということになっているけれど」
「……後宮から離されたのね」
「そういうこと」
表向きは、そうかもしれない。
だが、それきりではないはずだった。
呪いの人形を三人が置いた件は、陰陽寮の上役も掴んでいる。
志乃は与り知らぬことだが、その報告も上がったのだろうと思われた。
「帝妃が一度に三人、里亭へ下がるなんて、もう大騒ぎよ。……でも、女房たちが報告したのだもの。仕方ないわ」
昨夜、桐壺の悲鳴を聞きつけた者は、あまりにも多かった。
「飛香舎の御簾の内から黒いものが立ち上がったところも、中務宮さまが現れたところも、みんな見ていたのよ」
「ええ、多すぎたわね」
「多すぎたなんてもんじゃない。隠しようがないし、やはり……物の怪に魅入られ憑かれた姫を、主上のお傍に上がらせる訣にはいかないものね」
文子も息を吐いた。
隠せない。
それには、良いこともある。
嫉妬を募らせて物の怪の餌を育てたのは華族の在り方と後宮全体の問題だ。
決して弘徽殿、藤壺、梅壺だけが悪かったのではないと、文子には判っていた。
それを多くの女房が目にした以上、対立を面白がる空気も、暫くは息を潜めるだろう。
けれど同時に、夜燈が文子の式神として現れたことも、正式には隠せなくなっていた。
「桐壺さまはどうしてるの」
文子が問うと、志乃の表情が曇った。
「残されたわ。帝妃として」
「当然でしょうね。あの方は餌にされかけた側だもの」
「ええ。けれど、本人はそう割り切れないでしょうね。なるべく傍にいて、お力になれるようにしている心算なんだけど」
愁傷な心掛けだった。
志乃にはこういうところがある。
だからこそ、人に好かれるのだ。
「帝の寵を受けていたから残されたのか、被害者だから残されたのか。……これでますます皆が噂するわ」
「御子を得ぬ女として、また見られる」
撫子の姿を取った嫉妬の物の怪を退けたとはいえ、肝心の御子封じの咒いは、まだ手付かずのままだ。
陰陽寮の老官人にも、禁厭秘帖にも、種絶えの咒いそのものを破る手立ては、まだ見えていない。
「そう、……そうね」
その時、几帳の奥から別の衣擦れがした。
「その噂は、わたくしもなるべく止めるようにするわ」
朝の衣を整えた紬路が出て来た。
志乃が驚いて振り返る。
「珍しいじゃない。もう紬路が起きてるなんて」
「聞いていたわ。出る機を失って」
志乃の所感を取り合わず、紬路は二人の前に座った。
友人の顔と、東宮妃の顔。
その二つが、同じ面差しの中に同居している。
けれど昨夜、紬路は最後には桐壺を案じて動こうとした。
それを見た今なら、文子にも判る。
あるいは昨夜まで、自分たちまでも嫉妬の物の怪の影響下にあったのかもしれない。
友人でありながら、互いの立場を先に見てしまうほどには。
「桐壺さまを残すことは、後宮としては正しいわ」
紬路は膝の上で指を重ねた。
「真実、帝をお慕い申し上げているご様子ですもの。……けれど、正しいからといって、優しい処遇だった訣ではない」
文子は黙って聞いていた。
「弘徽殿、藤壺、梅壺が里亭へ下がれば、淑景舎だけが残る。今上の寵は、変わらず桐壺さまへ集まるでしょう」
紬路はそこで、一度だけ目を伏せた。
「そうなれば今度は、物の怪を差し向けたのは桐壺さまだと讒言する者もきっと現れる」
「どちらへ転んでも、あの方は責められるのね」
志乃が低く言った。
紬路は頷いた。
「残念ながら、そういうものよね。帝に選ばれても責められる。御子がなくても責められる。物の怪に狙われた挙句、ただ一つ残った席に座っても責められる」
「――女に生まれた時点で、もう誰かの物語の悪役なのですもの」
文子は、つい昨夜の撫子の言葉を口の端に乗せていた。
志乃が息を詰める。
紬路はすぐには答えなかった。
その言葉が、三人の間に落ちる。
重く、湿ったもののように。
やがて紬路が、ゆっくりと文子を見た。
「ええ、そうね。……でもね、文子」
その目に、東宮妃としての硬さとは別のものがあった。
女学校の頃、同じ卓を囲んでいた姫の、ひどく真っ直ぐな眼差しだった。
「わたくしは、このまま東宮との御子が授からなかったとしても、後悔はないのよ」
志乃が、何か言いかけて黙った。
文子もまた、言葉を挟めなかった。
紬路は、膝の上の指を解かなかった。
解かないまま、少しだけ力を込める。
「たとえ皇に掛けられた咒いなどとは無縁の、他の方と結ばれていたなら子を持てたのだ、と言われたとしても」
それは強がりではなかった。
少なくとも、今の文子にはそう見えた。
「だから女にとっては、どれほど心を掛けられる方と結ばれるかが、きっと大切なのだわ」
志乃が視線を落とした。
帝の寵。
東宮妃の座。
御子を得ること。
家を栄えさせること。
後宮では、それらが女の価値のように語られる。
けれど紬路は、その真ん中にいながら、別のものを選んでいる。
「だから文子も、わたくしに遠慮などしなくていいの」
その一言で、文子は背の式紋を意識した。
夜燈に選ばれた。
だが、それのみではない。
文子もまた、夜燈を選び、背に刻んだ。
紬路は、それを知っている。
知った上で、東宮妃としてではなく、友人として言っている。
ならば、桐壺も。
そして、文子自身も。
誰かの物語の悪役としてではなく、自らの心で立つことが大切なのだ。



