文子姫の式神婚 〜嫌われ役令嬢は鬼神の執着から逃げられない〜

 日が暮れると、文子(あやこ)は昭陽北舎《しょうようほくしゃ》へ戻った。

 戻る、と言うのもおかしな話だ。
 ここは本来、文子(あやこ)の住まいではない。

 今は東宮(とうぐう)妃となった紬路(つつじ)とは、志乃と同じく女学校からの友人だった。
 文子(あやこ)が左遷されて後宮勤めの間のみ、その縁で昭陽北舎の一角を借りている。
 肝心の紬路(つつじ)は、夜ともなれば(ほとん)東宮(とうぐう)御座所(おましどころ)にいる。

 そのため昭陽北舎には空いた部屋があり、文子(あやこ)が帳面や暦を広げるには都合がよかった。
 後宮付きの占い師などという役目を押し付けられてから、文子(あやこ)は親元の里亭(りてい)へ帰れなくなっていた。

 帝妃の夢見。物忌み。夜半の方違え。
 不吉な灯。猫の鳴き声。空見した不審な陰。
 誰かの寝所の前に落ちた、誰のものとも知れぬ扇。

 後宮の姫たちは、夜になるほど陰陽道を求める。
 そして、困った時だけ文子(あやこ)を呼ぶ。

 昼は陰陽寮で軽んじられ、夜は後宮に縛られる。
 どちらへ行っても、文子(あやこ)の居場所は借り物だった。

 昭陽北舎の貸与された局には、几帳と文机(ふづくえ)、それから文子(あやこ)が持ち込んだ暦、星図、占状の控えが積まれている。
 華族の娘が使うには質素すぎるが、後宮付きの女陰陽師が寝起きするには、これでも過分な方だった。

 文子(あやこ)は白衣の襟を緩め、緋袴の裾を整えて、文机の前に座った。
 灯台の火が、紙の上に細く揺れている。

 梅壺の件は、占状としてはすぐ片付いた。
 北を犯すため、東の温明殿へ方違え。
 物の怪の疑いは薄く、灯影、衣影、または夢見の乱れ。
 大仰(おおぎょう)に書かず、しかし女御の面子を潰しすぎぬよう、逃げ道は残す。

 こんな仕事は陰陽道に関わるものではない。
 後宮の言い訳を、方術の皮で包んだ何かだ。

 文子(あやこ)は筆を置いて目を閉じた。
 疲れているのに、眠りはすぐには来なかった。
 近頃、夜にまんじりともしない時間が怖くなっている。

 見るなら浅い夢ではなく、何も映さない真っ黒がいい。
 そう願ってしまうからだ。

 初めの頃、夢はただ、黒い気配だった。

 御簾(みす)の向こう。
 灯の届かぬ(ひさし)の奥。
 几帳の影。
 閉じたはずの襖の隙間。
 誰かがこちらを見ている。

 名も、形もない。
 けれど、見られていることのみは判る。
 その程度の夢だった。

 近頃は明らかに近付いて来ている。
 昨夜などは(つね)よりも、その(くら)い闇の手を傍に感じた。
 几帳の陰から忍び寄るように、畳の上を音もなく()い、文子(あやこ)の足首へ掛けられた。

 冷たいのに、逃げがたい。
 水ではない。
 風でもない。
 もっと古く、もっと深いもの。

 鬼神。
 そう思った瞬間、夢の中の文子(あやこ)は動けなくなった。

 名を呼ばれたわけではない。
 けれど、呼ばれている気がしている。
 文子(あやこ)文子(あやこ)姫と。
 音にならぬまま、胸のどこかを()でられるように。

 然るべき手順で(はら)い、退けねばならぬ類の夢だろうかと考えたこともある。
 夢見そのものの才は持たぬにせよ、夢に残る(かげ)りを(あらた)めるのは、己の領分だ。

 だが、あれが鬼神であるならば、話は別だった。

 むやみに(はら)い退けてしまえば、それまでだ。
 次に同じものが夢路を辿って来るとは限らない。
 まして文子(あやこ)は、式神を持たぬ女陰陽師である。

 陰陽寮の男たちは笑った。
 女と(ちぎ)る鬼神があるものか、と。

 ならば、夢の奥から文子を呼ぶあの気配を、ただの悪夢として捨ててよいはずがない。
 (はら)うべきか。
 捕らえるべきか。
 あるいは、(ちぎ)るべきか。

 答えを出せぬまま、夜ごと闇は近付いて来る。

 それでも、毎朝目覚める文子(あやこ)の胸に残るのは恐怖ではなかった。
 腹の底が煮えるほどの、強い怒りだった。

 女と(ちぎ)る鬼神があるものか。
 その言葉を、文子(あやこ)は何度も浴びせられてきた。

 では、後宮へ押し込められてから夜ごと夢路を辿り、こちらを呼び、眠りの奥へ手を伸ばしてくるものは何なのか。

 あれが鬼神でないなら、何なのだ。
 あれが鬼神でありながら契約できぬものなら、文子は何のためにここまで耐えてきたのか。

 (はら)うのではなく、退けるのでもない。
 捕らえ、真名(まな)を問い、(ちぎ)る。
 そのために、今夜こそ糸を垂らすのだ。

 文子(あやこ)は眠る前に、文机(ふづくえ)抽斗(ひきだし)を開けた。
 恰度(ちょうど)昨日、行き合った紬路(つつじ)に愚痴を(こぼ)したばかりだった。
 聞くなり笑って、紬路(つつじ)はある品を置いていった。
 抽斗(ひきだし)の奥へ指を入れ、それを取り出す。

 料紙(りょうし)に包まれた赤土。
 それから、細く巻かれた苧環(おだまき)
 紬路(つつじ)が商いの見本として取り寄せたものだろう。

 相変わらず、気さくで付き合いの良い姫だった。
 東宮(とうぐう)()となった今も、文子(あやこ)の愚痴を笑って聞き、その場で役に立ちそうな品を置いていく。

 ――三輪山の式神婚の話を知っているでしょう。
 ――夜ごと通う男の正体を知るため、麻糸を衣に留め、糸を辿った姫の話よ。
 ――であれば、その鬼神にだって同じことをすればいいのよ。

 赤土は、鬼神の足跡の形を床に留めるため。
 苧環(おだまき)は、夢の中の相手へ結ぶため。
 文子(あやこ)が逃げ腰なのを見て取ると、紬路(つつじ)は涼しい顔で畳み掛けた。

 ――式神契約をしてくれる鬼神がないと言われたのでしょう。
 ――ならば、赤い糸で捕まえればよろしいのです。
 ――鬼神も殿方も、待っているのみでは来ませんもの。

 男を捕まえるだの、まったく東宮(とうぐう)妃とは思えぬ物言いだった。

 だが、殿方など冗談ではない。
 陰陽寮で浴びせられてきた数々の(あざけ)りを思い出す。
 今の文子(あやこ)にとって、男とは嫌悪を(もよお)す相手でしかなかった。

 それでも鬼神なら、ともかくまだ話は判る。
 式神契約したくて(たま)らないのだから。

 文子(あやこ)自身、心のどこかでは望んでいたのだ。
 待つのではなく、こちらから手を伸ばすことを。
 あの夢の主を、捕らえ、(あらた)めることを。

 文子(あやこ)は赤土を小皿に移し、寝所の四隅へ置いた。
 灯台の火を少し落とす。深い眠りに沈みやすいよう、衣を軽くする。

 苧環(おだまき)の糸先を、左の手首へ結ぶ。
 もう一方の端は、枕の下へ隠した。

 夢の中で相手に触れられたなら、この糸を結ぶ。
 たとえ夢であっても、鬼神がこちらへ通う道筋があるなら、赤く染まった糸でその道を辿れるはずだ。

 莫迦(ばか)げている。
 そう思いながら、文子(あやこ)は横になった。

 だが、男たちに(わら)われているままよりはよい。
 後宮の姫たちに便利な札として扱われるよりはよい。

 先の洞見が()えなくなったのなら、自分の手で糸を垂らすしかない。