文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 黒い産着の袖が、桐壺の喉元へ触れる。

 その、寸前のところだった。

 背の式紋が、目を覚ました。

 破れた白衣の隙間から、赤い苧環(おだまき)の紋が光を放つ。

 女房たちの悲鳴が重なった。
 桐壺の喉を締めようとした産着が、赤い光に焼かれるように退いたからだ。
 そして何より、文子(あやこ)の背に刻まれていたものが、ただの守り符ではないと悟ったのだ。

 肩甲骨の間に、赤い輪。
 その内へ組まれた古い符。
 さらに奥で、鬼神の真名が脈を打っている。

「式紋……」

 誰かが(つぶや)いた。

「背に、鬼神を……」

 文子(あやこ)が白い肌に背負っているもの。
 それは、ただ鬼神を従えた刻印ではなかった。

 女の肌に、男の名が宿っている。

 しかも、人の男ではない。
 神域に片足を掛けた、鬼神の名だ。

 誰も、すぐには言葉にしなかった。
 けれど女たちは、文子(あやこ)より先にその意味を悟っていく。

 あれでは、もう他家へは。
 あれでは、もう帝へは。
 あれでは、もう誰の姫にも。

 赤く脈打つ式紋は、守りの印であると同時に、婚姻よりも深い(いまし)めだった。

 声にならない衝撃が、飛香舎へ波紋のように広がった。

 文子(あやこ)は桐壺の前に立ったまま、息を整えた。

 背が熱い。
 裂けた衣から夜気が入り、傷口なのか式紋なのか判らぬ場所が()けている。

 だが、紋は文子(あやこ)にとって(きず)ではなく、自ら選び、夜燈(やと)が応えた証だ。

 文子(あやこ)は桐壺を背に(かば)ったまま、扇を握り直す。

 黒い袖が、再びうねりを見せ始めた。

夜燈(やと)

 短く、名を呼ぶ。

 重い波動が(とどろ)くのを自分でも感じた。

「我が使鬼(しき)、来なさい」
 
 空気が裂けた。

 灯りの火が一斉に傾き、御簾(みす)が内側から膨らむ。

 文子(あやこ)の背で()けていた式紋が、赤い筋から光を吐く。

 その光を割って、夜燈(やと)が現れた。

 後宮の女たちが一様に息を()んだ。

 次の瞬間、文子(あやこ)の隣に長身の男が立っていた。

 中務宮(なかつかさのみや)夜燈(やと)

 左右に分かれた角を(いただ)いた男だ。

「呼んだな、我が主」
「おのれ、文子(あやこ)ォ……!! お前、鬼神の宮と(ちぎ)ったのね!」

 物の()となって(なお)も、そこには女の痛みがあった。

 選ばれなかった怒り。
 機会さえ奪われた恨み。
 自分の居場所を失った悲しみ。

 それらが濡れた髪となり、黒い衣となり、撫子(なでしこ)の姿をしたものを形作っている。

「何を喰う」

 夜燈(やと)が口を開け、鋭い犬歯を見せながら問う。

 撫子(なでしこ)に似た物の()か。
 それとも、この場に満ちた女たちの願いそのものか。

 文子(あやこ)は一瞬、逡巡する。

 物の()を丸ごと喰わせれば早いとは思うが、それでは夜燈(やと)の荒魂に餌を与えすぎる。

 文子(あやこ)は産着を見た。

 白い布そのものではなく、畳の上へ薄く広がった黒い水。
 祈りに紛れ、女たちの妬みと焦りを吸い上げた(のろ)い。

 夜燈(やと)を鬼へ近付け過ぎないように。
 喰わせるなら、あれだ。

「三帝妃の(ねた)みを喰らって」

 文子(あやこ)は命じた。

 夜燈(やと)が笑った。

 その姿が、次の瞬間、闇へ近付く。
 人の形を保ったまま、御簾(みす)の内の黒い水気へ手を伸ばした。

 撫子(なでしこ)が悲鳴のように身をよじる。
 だが、夜燈(やと)の手は撫子(なでしこ)の喉ではなく、その背後へ絡みついた黒い産着を(つか)んで、水気を引き()がした。

 黒い水が飛び散り、灯りが一つ、また一つと消えた。
 弘徽殿の肩から伸びる妬みが喰われる。
 藤壺の袖に絡む焦りが喰われる。
 梅壺の背に巣食う怒りが喰われる。

 夜燈(やと)荒魂(あらたま)が膨らむ様子はなかった。
 喰らうほどに、むしろ輪郭が澄んでいく。

 その産着に、飛香舎の灯とは違う、淡い光の輪が立った。
 古い神域とされる山で見るような、清められた朝陽のような光だった。

「今だ、文子」

 夜燈(やと)に促され、文子(あやこ)は符を放つ。

急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)……!」

 符が麻の葉文様の産着の袖へ貼りついた。

 布を裂くためではない。
 布に染みたものを、布から剥がすためだ。

 白い袖の上で、黒い水気が泡立った。
 産着そのものは白いまま、そこに絡みついていた(のろ)いだけが符へ吸い寄せられていく。

 赤黒い染みが、ぬらりと浮き上がった。

「それだ」

 夜燈(やと)の手が伸びる。

 産着には触れない。
 符に集まった黒い咒のみを(つか)み取り、ひと息に喰らった。

 黒い水音が消えた。
 産着の袖から湿りが引いていく。

 そして、撫子(なでしこ)の形をした怪異が崩れた。

 花のように整っていた面差しが、水面を踏み荒らされたように歪む。
 長い髪がほどけ、濡れた糸となって宙へ散った。
 衣の袖は産着へ戻ろうとするようにのたうち、黒い水を滴らせながら床を叩く。

「いや……いやよ……!」

 撫子(なでしこ)が桐壺の方へ手を伸ばした。

 その指は、もう人の指ではない。
 産着の袖めいた布と、濡れた髪と、女たちの妬みが絡まり合ったもの。

 文子(あやこ)は扇を振り下ろした。

退()きなさい」

 符が()ける。
 麻の葉文様の産着から、最後の黒い筋が()がれた。

 撫子(なでしこ)の目だけが、最後まで文子(あやこ)を見ていた。

「どうして……あなたばかり……」

 その言葉ごと、撫子(なでしこ)の異形は黒い水へ潰れた。