「久しいわね、文子さん」
撫子の顔に、笑みが浮かんだ。
それは頬を持ち上げ、唇を歪めるだけの動きだった。
目だけは瞬きもせず、深い水底のように文子を映している。
「あなた……典侍として内裏に上がったのではなかったの」
「ええ、上がったわ」
撫子は、濡れた袖をゆるりと広げた。
水を吸んだはずの衣は重みを見せず、まるで水そのものが人の形を借りているようだった。
「志乃さんの前にだわ。わたくしこそ、誰よりも先に内裏へ上がったの。……なのに、帝はわたくしを見なかった。東宮もよ。誰も、わたくしに機会を与えなかった」
三帝妃は、自分たちの妬みから立ち上がったものに絡め取られ、動けない。
その脇で、桐壺だけが小さく顫えていた。
「わたくしは、選ばれる筈だったの。誰よりも相応しい、と。皆、そう言っていたもの」
撫子の顔が、すうっと文子の目の前まで寄った。
「ねえ……どうして?」
ぴちゃり、と水音がした。
白木の三方から、産着がずるりと落ちる。
白かった布は水死体の肌のように黒ずみ、畳へ張りついた。
ひとりでに袖が持ち上がる。
這うように。
探るように。
「わたくしは、機会さえ与えられなかったのに」
ぴちゃり。
「帝に情を掛けられることも」
ぴちゃり。
「東宮妃に選ばれることも」
ぴちゃり。
「顧みられることさえ、なかったのに」
それはもう、撫子ひとりの声ではなかった。
望まれなかった女。
産めなかった女。
忘れられた女。
幾重もの湿った囁きが、昏い闇から滲み出している。
「ねえ、文子。あなたは、入内もしていないのに、宮様に選ばれたのでしょう?」
灯火が大きく揺らいだ。
その影もまた、あり得ぬほどに膨れ上がる。
濡れた髪のようなもの。
幾枚もの袖のようなもの。
その物の怪は、最早撫子だけの姿ではなかった。
「でも、側室が現れるかもしれないわねえ」
くすくす、と声が重なった。
選ばれても、奪われる。
愛されても、比べられる。
子を産んでも、次を望まれる。
「ねえ文子。あなたもこちらへおいでなさいな」
こんな台詞は本物の撫子であれば言う筈もない。
これは撫子ではない、と文子は確信した。
「女に生まれた時点で、もう誰かの物語の悪役なのですもの」
誘われているのではない。
引き摺り込まれようとしている。
妬め。
恨め。
奪われる前に、奪え。
物の怪は、どんな女の中にもある小さな翳りを嗅ぎ当てていた。
「さあ――その帝に選ばれた女を、渡しなさい!」
灯火が青白く跳ねた。
撫子だったものの腹の奥で、濡れた産着が幾枚も重なり、胎の形を作っては崩れる。
産むための胎ではない。
産ませぬための胎だ。
「誰にも産ませはしない。誰にも皇子など抱かせない。誰も、選ばれた女にはさせない。――喰らってやるわ!」
畳に落ちた産着が、一斉に桐壺へ這い出した。
文子は懐から符を抜いた。
だが、符を投げるより早く、背の式紋が熱を噴いた。
――呼べ。
夜燈の気配が、背から告げている。
ここで呼べば、隠していたものが露見する。
文子もまた、皇位に近い宮に選ばれた姫なのだ、と。
そう考えるより早く、黒い産着の袖が桐壺へ伸びた。
犬張子も這子も押し退け、細い喉を探す蛇のように膝へ迫る。
「桐壺さま!」
文子は符を握ったまま飛び出した。
守らねばならない。
この純真な姫を。
黒い袖が跳ねた。
避ける余裕はなかった。
桐壺の前へ身を入れた瞬間、濡れた布が背へ打ちつけられる。
びり、と白衣が裂けた。
痛みより先に、冷たさが走った。
次いで、焼けるような熱が肩甲骨の間で開く。
撫子の顔に、笑みが浮かんだ。
それは頬を持ち上げ、唇を歪めるだけの動きだった。
目だけは瞬きもせず、深い水底のように文子を映している。
「あなた……典侍として内裏に上がったのではなかったの」
「ええ、上がったわ」
撫子は、濡れた袖をゆるりと広げた。
水を吸んだはずの衣は重みを見せず、まるで水そのものが人の形を借りているようだった。
「志乃さんの前にだわ。わたくしこそ、誰よりも先に内裏へ上がったの。……なのに、帝はわたくしを見なかった。東宮もよ。誰も、わたくしに機会を与えなかった」
三帝妃は、自分たちの妬みから立ち上がったものに絡め取られ、動けない。
その脇で、桐壺だけが小さく顫えていた。
「わたくしは、選ばれる筈だったの。誰よりも相応しい、と。皆、そう言っていたもの」
撫子の顔が、すうっと文子の目の前まで寄った。
「ねえ……どうして?」
ぴちゃり、と水音がした。
白木の三方から、産着がずるりと落ちる。
白かった布は水死体の肌のように黒ずみ、畳へ張りついた。
ひとりでに袖が持ち上がる。
這うように。
探るように。
「わたくしは、機会さえ与えられなかったのに」
ぴちゃり。
「帝に情を掛けられることも」
ぴちゃり。
「東宮妃に選ばれることも」
ぴちゃり。
「顧みられることさえ、なかったのに」
それはもう、撫子ひとりの声ではなかった。
望まれなかった女。
産めなかった女。
忘れられた女。
幾重もの湿った囁きが、昏い闇から滲み出している。
「ねえ、文子。あなたは、入内もしていないのに、宮様に選ばれたのでしょう?」
灯火が大きく揺らいだ。
その影もまた、あり得ぬほどに膨れ上がる。
濡れた髪のようなもの。
幾枚もの袖のようなもの。
その物の怪は、最早撫子だけの姿ではなかった。
「でも、側室が現れるかもしれないわねえ」
くすくす、と声が重なった。
選ばれても、奪われる。
愛されても、比べられる。
子を産んでも、次を望まれる。
「ねえ文子。あなたもこちらへおいでなさいな」
こんな台詞は本物の撫子であれば言う筈もない。
これは撫子ではない、と文子は確信した。
「女に生まれた時点で、もう誰かの物語の悪役なのですもの」
誘われているのではない。
引き摺り込まれようとしている。
妬め。
恨め。
奪われる前に、奪え。
物の怪は、どんな女の中にもある小さな翳りを嗅ぎ当てていた。
「さあ――その帝に選ばれた女を、渡しなさい!」
灯火が青白く跳ねた。
撫子だったものの腹の奥で、濡れた産着が幾枚も重なり、胎の形を作っては崩れる。
産むための胎ではない。
産ませぬための胎だ。
「誰にも産ませはしない。誰にも皇子など抱かせない。誰も、選ばれた女にはさせない。――喰らってやるわ!」
畳に落ちた産着が、一斉に桐壺へ這い出した。
文子は懐から符を抜いた。
だが、符を投げるより早く、背の式紋が熱を噴いた。
――呼べ。
夜燈の気配が、背から告げている。
ここで呼べば、隠していたものが露見する。
文子もまた、皇位に近い宮に選ばれた姫なのだ、と。
そう考えるより早く、黒い産着の袖が桐壺へ伸びた。
犬張子も這子も押し退け、細い喉を探す蛇のように膝へ迫る。
「桐壺さま!」
文子は符を握ったまま飛び出した。
守らねばならない。
この純真な姫を。
黒い袖が跳ねた。
避ける余裕はなかった。
桐壺の前へ身を入れた瞬間、濡れた布が背へ打ちつけられる。
びり、と白衣が裂けた。
痛みより先に、冷たさが走った。
次いで、焼けるような熱が肩甲骨の間で開く。



