文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

「あなたたちは、ここに残って」
文子(あやこ)!」

 志乃(しの)が一歩踏み出す。
 文子(あやこ)は、すぐに首を横に振った。

「後宮の騒ぎを(しず)めていて。(じき)に物の()が現れて、大騒ぎになるわ」
「でも」
「あなたたちの異能は、物の()向きじゃない」

 言い切るしかなかった。
 それに、あれは文子(あやこ)を呼んでいる。

 後宮の奥で、名を聞かずとも判るほど濃い気配が立ち始めていた。
 産屋の水底から這い上がる、濡れた髪のような(まじな)い。

 女の恨み。
 母の怨み。
 生まれる前に奪われたものたちの、赤黒い執着。

「それを言うなら、文子(あやこ)だって」
「式神契約、したのよ」

 飛び出しかけた志乃(しの)を、紬路(つつじ)が横から制した。

「桐壺さまをお願い」
「ええ」

 短く答え、文子(あやこ)は昭陽北舎を出た。

 廊を渡るたび、背の式紋が熱を持つ。
 夜気が衣の裾を揺らし、灯の消えた殿舎の影が、どこも水底のように沈んで見えた。

 飛香舎へ近付くにつれ、妙な明るさが見えてきた。
 夜の殿舎に、あれほどの数の灯りは要るものではない。

 御簾(みす)の内から漏れる光が、廊の板敷(いたじき)に白く滲んでいた。

 近付くに連れ、香の匂いが濃くなっていく。
 清めの香とはもはや言えないほどに願いを()きしめすぎて、息苦しくなった匂いだった。

 御簾(みす)の向こうには、三方の折敷(おしき)の上にずらりと並んだ――
 犬張子(いぬはりこ)
 這子(ほうこ)
 産着。
 守り袋。

 そして、――赤土に(まみ)れた桐壺の嫁雛。

 子を願い迎える品ばかりだったが、すでに禍々しいほどの執念となっていた。

 真ん中に、桐壺(きりつぼ)が座らされている。

 薄く笑みの形を作ろうとしていた。
 けれど唇は、うまく持ち上がっていない。
 腹の前で重ねた両手だけが、衣をきつく掴んでいた。

 その周りに、三つの影があった。

 弘徽殿。
 藤壺。
 梅壺。

 三人とも、顔だけはいつも通りだった。
 いつも通り、文子(あやこ)を見下すための目をしている。

 けれど、どこかが可怪(おか)しい。

 装束の裾が、床に落ちた墨のように重い。
 髪の先から、水を吸った布の匂いが立つ。
 背にまとわりついているものは、ただの恨みでも嫉みでもなかった。

 もっと古い。
 もっと底が深い。

 後宮の奥に沈んだまま、名もなく積もってきた女たちの念だった。

「あらァ、文子(あやこ)姫ではないの」

 最初に気付いたのは、弘徽殿だった。
 笑みは唇に貼りついている。
 けれど、目の奥までは届いていない。

「何よ、御子(みこ)祈りまで邪魔する気?」

 こちらに背を向けていた梅壺が振り返った。
 不躾で、ぞんざいで、人を上から踏みつけるような物言い。

 ここで止まってはならない。
 怯めば、あの水底に全員引かれる。

 藤壺が、産着の方へ目を落とした。

 白い布が、ぬらりと湿っている。
 水など、どこにもない(はず)だった。

 それなのに、産着の端から黒い雫が落ちた。
 ぽたり、と板敷に染みを作る。

「ええ、有体に申し上げますと、その通りですわ」

 文子(あやこ)は袖の内から素早く扇を引いた。

「これでは物の()へ餌を撒いているのと同じですもの」

 場の空気が、刺立った。

 御簾(みす)の内に満ちていた香の匂いが、一層濃く香る。

「妬みと焦りを焚きしめて、桐壺さまのご意思をねじ伏せようとなさっているのですもの」
「なんと、無礼な……!」

 藤壺が低く言った。

 いつもは感情を荒らさぬ女の面に、硬い怒りが浮かんでいる。
 言い当てられた者だけが見せる、薄い痛みがそこにあった。

「願いが濃くなり過ぎれば、(のろ)いへ傾きます」

 文子(あやこ)は一歩踏み込んだ。
 足の裏に、冷えた夜の板敷の硬さが返ってくる。

「桐壺さまを真ん中からお下げなさい」
「なぜ、あなたなんかに命じられなければならないの」

 梅壺の目が燃えていた。
 燃え立つほどに、底にある焦りの黒さが透けて見える。

「帝妃でもないくせに。鬼神の宮に選ばれたからと、後宮に口を出すの?」

 それは順序が逆だった。

 文子(あやこ)は、夜燈(やと)に選ばれた女として、この場に立っているのではない。
 後宮の陰陽師として職務に服し、物の()の発生を止めるために来た。

 けれど梅壺たちには、それが見えていない。

 帝妃であるか。
 そうでないか。

 女を量る秤が、それしかないのだ。

 だから文子(あやこ)の言葉も、忠告ではなく出過ぎた口出しに聞こえる。
 桐壺更衣を救おうとしているのではなく、帝妃たちの領分へ差し出がましく踏み込んでいるようにしか映らない。

 浅ましい、と思った。

 任を負う者と、寵を競う者。
 その区別さえつかぬほど、後宮の目は狭く(にご)っている。

 弘徽殿も藤壺も、梅壺の言葉を止めなかった。
 (あなど)りは、梅壺一人のものではない。

 帝の寵を得ても、皇子を得られぬ焦り。
 上座にあっても、次の世を(つか)めぬ怖れ。
 帝妃ですらない文子(あやこ)が、鬼神の宮に選ばれたことへの(ねた)み。

 妃に()るべく育てられた者たちが、互いを削り合って積もらせたもの。
 それらが今、香の煙とともに御簾(みす)の内へ沈んでいた。

 その沈んだものが、ふいに底で(うごめ)いた。

 背の式紋が、()けるほど熱を持つ。
 呼応(こおう)しているのだろう。

 もう猶予はない。

「桐壺さま、こちらへ」

 文子(あやこ)が手を差し出した瞬間だった。

 三人の身体から、黒い水気が立ち上がった。

 始めは、影が揺れたのだと思った。
 灯りが多すぎるせいで、御簾(みす)の内に影が乱れているのだと。

 だが違う。

 弘徽殿の肩から、黒い(もや)(にじ)んだ。
 藤壺の袖口から、濡れた糸のようなものが垂れた。
 梅壺の背後から、産着の袖めいた黒い布がほどけていく。

 三人が同時に息を呑んだ。
 身体は金縛りに()い、動かなくなった様子で、目だけが互いから立ち上がるものを追っていた。

「な、何……」

 桐壺が声を震わせた。
 そして、遅れて悲鳴をあげた。
 後宮のそこかしこから駆け寄る足音がしてきた。

 黒い水気は三人の上で絡まり合い、やがて一人の女の形を取った。

 長い髪。
 濡れた衣。
 花のように整った面差し。
 だが、その目は水底のように暗い。

 文子(あやこ)は、その面差しに見覚えがあった。
 次の瞬間、思わず叫んでいた。

「……撫子(なでしこ)!!」

 女学校の記憶が、嫌でも(よみがえ)る。

 誰もが囲んでいた。
 誰もが()めそやした。
 誰もが、その一言に引き()られた。

 撫子(なでしこ)は、そういう娘だった。

 美しく、気位高く、後宮の女に()るべく育てられた。

 選ばれることを、人生の第一義としていた。
 選ばれぬ者を侮り、憐れむことで、己の価値を確かめる娘だった。

 華族女学校には、必ずそのような娘がいる。
 家の名と血筋と美貌を背負わされ、誰かに選ばれることこそ己の道だと、疑いもなく信じ込まされた娘が。

 けれど、目の前の撫子(なでしこ)は人ではない。
 もう、あの頃の華やかな令嬢ではない。

 後宮に積もった女たちの妬みを吸い。
 御子(みこ)を願う祈りの底で腐った怨念を纏い。
 生まれぬ御子(みこ)のために濡らされた産着を依代(よりしろ)にして。

 撫子の形をしている。
 撫子の声で笑っている。
 けれど、それは撫子であって、撫子ではなかった。

 妃に()るべく育てられ、選ばれることだけを価値とされた女たちの影。

 物の()へと変じた、後宮の女たちの恨みだった。