文子は、その変化を素早く見て取った。
友人であることは今も変わらないが、もはや同じ立場ではない。
紬路は後宮の内側から、皇統の行く末を見ている。
文子は夜燈を式にした女陰陽師として、皇統のまた別の道に立たされつつあった。
ほんの少し前まで同じ卓を気楽に囲んでいた友人同士が、いつの間にか別々の札を持つことになっていたのだ。
「紬路……」
「今上の皇子がお生まれになれば、夜燈さまを皇嗣に擬する声は弱まる」
紬路は淡々と言った。
感情を押し込めるほど、言葉は却って硬く響いた。
「だから、あの方たちは必死なの。御子を願い、一点突破に掛けているのよ」
紬路の立場から、それを口にする重さは十二分に判っていた。
この友人自身、今まさに、御子を望まれる御方として、その渦の中心へ置かれている。
「だけど、文子。桐壺さまを、物の怪の餌にしていいの?」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
文子の背に、ぞっとする熱が走る。
火に炙られたようなものではなく、肌の内側から焼かれるような熱だった。
その刹那、灯りが遠のいていく。
昭陽北舎の几帳も、文机も。
志乃の青ざめた顔も、紬路の引き結ばれた唇も。
すべてが水の底へ沈むように滲んだ。
ぽたり。
どこかで、水が落ちた。
ここに水などない。
判っているのに、畳の目へ黒い染みが滲んでいく。
白い布が見えた。
産着だった。
けれど、白であった筈のそれは、底のない水を吸ったように黒ずんでいる。
小さすぎるほど小さな産着が、ずるり、と畳を這った。
布だけが動いている。
中に御子はいない。
いないのに、重い。
水を含んだ袖が畳の目に引っかかり、黒い筋を残しながら、ひとところへ向かっていく。
行く先は、一つ。
桐壺更衣のもとだった。
それが桐壺の腹へ届こうとした瞬間、文子は小さく息を呑んだ。
「文子!」
膝が崩れるより早く、志乃が抱き止める。
白衣の袖を握る手は、倒れかかる文子の重みを受け止めようと、痛いほど強かった。
一度、目の前が真っ暗になった。
耳の奥で、何かが遠のく。
それでも腹の底には、先ほど見たものが焼きついている。
桐壺の腹。
そこへ伸びる、黒いもの。
視界が段々に戻った。
昭陽北舎の灯が、目に刺さる。
志乃は文子の肩を抱いたまま、歯の間から絞り出すように訊いた。
「立てる? 無理ならそのままでいい。言って。今、何を見たの」
紬路は、急いで駆け寄って来た女房たちを手で制した。
背の式紋が、まだ熱い。
文子は思わず習慣になっている左手首を押さえた。
赤い苧環の糸は、もう以前のように長く伸びてはいない。
すべて背に刻まれた式紋へ吸い込まれたように、文子の内側へしまわれていた。
手首には輪だけが残されている。
「……来るわ」
自分の言葉が、ひどく遠く聞こえた。
「今夜、飛香舎に物の怪が出る」
志乃の顔から、更に色が失せた。
自ら口にした予想とはいえ、当たって欲しかったのではないのだ。
「観えたのね」
紬路が、息を詰めるように言った。
とうとう観えた。
後宮へ来てから、閉じたままだった洞見が、今になって開いた。
理由は、考えるより早く判った。
先ず縁が、強く繋がれたのだ。
自身へ深く関わる筋は観えないという制約さえも越えて。
志乃が桐壺を見捨てられず、文子のもとへ駆け込んだこと。
紬路が、桐壺更衣を敵ではなく、同じ姫として案じたこと。
御子をめぐる争いで、同じ秤に載せられた女でありながら。
その二つが重なって、見えぬ筋へ指を掛けてしまった。
桐壺更衣へ向かう黒い産着は、もはや幻像ではない。
今夜、形を取るものだった。
また、器があった。
帝の寵を一身に受け、三帝妃の焦りと妬みを浴びせられている桐壺更衣。
あるいは、御子を招くために集められた犬張子や這子。
守りのために置かれたものだからこそ、願いを受け続ければ、ただの飾りではなくなる。
文子の洞見を導くには、十分すぎる依代だった。
そして、徴があった。
文子の背に刻まれた、苧環の式紋。
夜燈と契った証だ。
――縁と、器と、徴とが、揃ったのだ。
観えた未来を、阻止しなければならない。
文子の心から迷いが消えた。
桐壺更衣を物の怪の餌にしてはならない。
友人であることは今も変わらないが、もはや同じ立場ではない。
紬路は後宮の内側から、皇統の行く末を見ている。
文子は夜燈を式にした女陰陽師として、皇統のまた別の道に立たされつつあった。
ほんの少し前まで同じ卓を気楽に囲んでいた友人同士が、いつの間にか別々の札を持つことになっていたのだ。
「紬路……」
「今上の皇子がお生まれになれば、夜燈さまを皇嗣に擬する声は弱まる」
紬路は淡々と言った。
感情を押し込めるほど、言葉は却って硬く響いた。
「だから、あの方たちは必死なの。御子を願い、一点突破に掛けているのよ」
紬路の立場から、それを口にする重さは十二分に判っていた。
この友人自身、今まさに、御子を望まれる御方として、その渦の中心へ置かれている。
「だけど、文子。桐壺さまを、物の怪の餌にしていいの?」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
文子の背に、ぞっとする熱が走る。
火に炙られたようなものではなく、肌の内側から焼かれるような熱だった。
その刹那、灯りが遠のいていく。
昭陽北舎の几帳も、文机も。
志乃の青ざめた顔も、紬路の引き結ばれた唇も。
すべてが水の底へ沈むように滲んだ。
ぽたり。
どこかで、水が落ちた。
ここに水などない。
判っているのに、畳の目へ黒い染みが滲んでいく。
白い布が見えた。
産着だった。
けれど、白であった筈のそれは、底のない水を吸ったように黒ずんでいる。
小さすぎるほど小さな産着が、ずるり、と畳を這った。
布だけが動いている。
中に御子はいない。
いないのに、重い。
水を含んだ袖が畳の目に引っかかり、黒い筋を残しながら、ひとところへ向かっていく。
行く先は、一つ。
桐壺更衣のもとだった。
それが桐壺の腹へ届こうとした瞬間、文子は小さく息を呑んだ。
「文子!」
膝が崩れるより早く、志乃が抱き止める。
白衣の袖を握る手は、倒れかかる文子の重みを受け止めようと、痛いほど強かった。
一度、目の前が真っ暗になった。
耳の奥で、何かが遠のく。
それでも腹の底には、先ほど見たものが焼きついている。
桐壺の腹。
そこへ伸びる、黒いもの。
視界が段々に戻った。
昭陽北舎の灯が、目に刺さる。
志乃は文子の肩を抱いたまま、歯の間から絞り出すように訊いた。
「立てる? 無理ならそのままでいい。言って。今、何を見たの」
紬路は、急いで駆け寄って来た女房たちを手で制した。
背の式紋が、まだ熱い。
文子は思わず習慣になっている左手首を押さえた。
赤い苧環の糸は、もう以前のように長く伸びてはいない。
すべて背に刻まれた式紋へ吸い込まれたように、文子の内側へしまわれていた。
手首には輪だけが残されている。
「……来るわ」
自分の言葉が、ひどく遠く聞こえた。
「今夜、飛香舎に物の怪が出る」
志乃の顔から、更に色が失せた。
自ら口にした予想とはいえ、当たって欲しかったのではないのだ。
「観えたのね」
紬路が、息を詰めるように言った。
とうとう観えた。
後宮へ来てから、閉じたままだった洞見が、今になって開いた。
理由は、考えるより早く判った。
先ず縁が、強く繋がれたのだ。
自身へ深く関わる筋は観えないという制約さえも越えて。
志乃が桐壺を見捨てられず、文子のもとへ駆け込んだこと。
紬路が、桐壺更衣を敵ではなく、同じ姫として案じたこと。
御子をめぐる争いで、同じ秤に載せられた女でありながら。
その二つが重なって、見えぬ筋へ指を掛けてしまった。
桐壺更衣へ向かう黒い産着は、もはや幻像ではない。
今夜、形を取るものだった。
また、器があった。
帝の寵を一身に受け、三帝妃の焦りと妬みを浴びせられている桐壺更衣。
あるいは、御子を招くために集められた犬張子や這子。
守りのために置かれたものだからこそ、願いを受け続ければ、ただの飾りではなくなる。
文子の洞見を導くには、十分すぎる依代だった。
そして、徴があった。
文子の背に刻まれた、苧環の式紋。
夜燈と契った証だ。
――縁と、器と、徴とが、揃ったのだ。
観えた未来を、阻止しなければならない。
文子の心から迷いが消えた。
桐壺更衣を物の怪の餌にしてはならない。



