その夜、文子は文机の前に座り、心覚えを書き付けた備忘録を見返していた。
土を水底へ沈める禁厭が、かつて存在したという記録のみ。
禁厭秘帖に残されていた痕跡は、それだけだった。
御子を封じ、皇統の芽を絶つ、種絶の咒い。
その仕法は、とうに失われている。
今なお用いられているなら、陰陽寮の正道ではない。
古い呪術を扱う外法師の暗躍を疑うほかなかった。
こんな時に限って、洞見が開かぬことが歯痒い。
思い返せば、夜燈に魅入られたのは、文子が後宮に入ってからのことである。
夜ごと通って来る鬼神を捕らえた筈の赤い糸。
それはいつの間にか文子自身をも絡め取り、ついには背へ式紋を刻むに至った。
後宮へ入ったことで、夜燈を得た。
その代わり、先を見通す洞見は、肝心なところで閉ざされている。
思えば、それも道理なのだろう。
文子は、自らが深く関わる未来ほど、霧に閉ざされて見えなくなる。
国を揺るがす災いは、巡り巡って我が身にも及ぶ。
最早これは、背に刻まれた式紋と同じく、文子の行く末へ喰い込んだ出来事なのだ。
これまで後宮で拾った噂と兆しを、一つ一つ並べ直そうとした時、几帳の向こうがばたばたと揺れた。
「文子!!」
志乃が転がるように、文子の局へ上がり込んで来た。
典侍としての身装は整っているのに、顔色がいつもの志乃ではなかった。
「ねえ、やめさせてー!」
「何を?」
「なんだか、四帝妃で妖しい集会を開いちゃってるのよ!」
妖しい集会とは如何に。
文子は備忘録を置いた。
志乃の言うことは時に大げさで、時に半分ほど正しい。
厄介なのは、後者の場合だった。
「どの殿舎で?」
「飛香舎よ。夜なのに、御簾の内を灯明だらけにして、白木の三方をずらりと並べて、犬張子だの這子だの、産着だの、守り袋だの……もう、御子さま祈願の品ばっかり」
「飛香舎に四帝妃、揃い踏みしているの?」
軽く返したものの、文子の指先は備忘録の端を押さえたまま止まっていた。
「弘徽殿、藤壺、梅壺、それから桐壺さまだけど」
「桐壺さま呼ばれているのではなく、囲まれているのではなくて?」
何しろ、後宮全体の焦りが、一つの部屋に押し込められているのだ。
否、紬路だけは別だと思いたい。
だが、あの友人の胸中は、容易に察せるものではない。
紬路は昔から、痛みを痛みのまま表へ出さない娘だった。
華族に生まれた娘の嗜みとして、美しく整え、堪えてしまう。
「そう、それ!」
志乃は大きく頷いた。
自分でも何が怖いのか言葉にできないまま、代わりに文子に言い当ててもらえたという顔をしている。
紬路と違って、志乃には屈託も表裏もない。
だからこそ、その怯えは余計に本物らしく見えた。
「これで御子さまが、御子さまがって……ううん、皇子――儲けの君さまのことかも? とにかく桐壺は笑おうとしてるのに、全然笑えてないの。なのに他の三帝妃は皆、願っているというより、何かに憑かれているみたいな顔で……」
文子は反射的に立ち上がった。
だが、歩を進めようとした足は、すぐに止まる。
今の文子が飛香舎へ踏み込めば、それはただの制止では済まされない。
軽々に動けば、今の後宮の均衡に、思わぬ綻びを生じさせかねなかった。
「わたくしに、どうしろと」
「だから、止めさせて」
鬼神の宮たる夜燈を、式神として結んだ女陰陽師。
中務宮の許嫁として扱えと、陰陽寮で宣言された華族の姫。
その文子が、帝妃たちの祈願を妨げたと見做される。
どう見えるかなど、考えるまでもない。
「……厭よ」
そう突っぱねると、志乃が目を丸くした。
「厭、って……」
「考えてみて? 今、わたくしが飛香舎へ乗り込めば、どう見えると思うの」
「でも、あれでは桐壺が可哀想」
「可哀想でも、おいそれとすぐ動ける立場ではなくなったの」
ほんの数日前なら、後宮の端に置かれた帝妃付きの占い師だった。
都合よく呼ばれ、都合よく遠ざけられる。
腹立たしくはあっても、まだ身は軽かった。
今は違う。
文子が動けば、夜燈が動いたようにも見える。
始めはただ、陰陽師として立ちたかっただけだ。
男たちを見返し、鬼神を式にし、陰陽寮に認めさせる。
そのために式神と契約したかった。
その果てに、女としてまで求められるなど、考えたこともなかった。
それだけでも手一杯であるのに、いつの間にか立つ場所そのものが変わってしまった。
鬼神を式にすること。
やがて式神にまで神格を高めること。
中務宮夜燈と契ること。
それはもう、一人の陰陽師が己の才を認めさせる話では済まない。
鬼神の宮と結ばれるなら、皇統へ手を伸ばしたも同じ。
そう警戒する者が、後宮にも陰陽寮にも現れ始めた。
そんな筈がない、と文子の内側は反発する。
けれど後宮も、陰陽寮も、外廷の男たちも、そうは見ない。
女陰陽師が鬼神の宮を得た。
式神術の勝利は、痛くもない腹を探られ、野心へと変えられた。
契りは政となり、名は噂となり。
文子の足元には、望んだ覚えのない道が敷かれ始めている。
「だけど、やっぱり」
志乃は、なおも譲らなかった。
意地を張るように、袖を握り締めている。
「あの儀式、物の怪が出ると思うわ!」
ええい、どうだ。
これなら文子も動くでしょう。意地でも動かしてみせる。
そんな最後の札を差し出すような言い方だった。
暫く、二人とも言葉を継がなかった。
その強情な一言は、几帳の奥にまで届いたらしい。
押し黙っていた布の向こうで、誰かが身じろぎ、衣擦れの音がした。
文子はそちらへ目を向ける。
灯りの届きにくい几帳の陰から、薄い衣の裾が先に現れた。
次いで、紬路が姿を見せる。
眠る支度には早い。
だが、昭陽舎のお召しへ上がる装いでもない。
ずっと耳を澄ませていた者の顔をしていた。
「志乃の言う通りよ」
紬路はそう言って、二人の前へ進み出た。
後宮の火種を、これ以上見過ごせなくなった様子だった。
土を水底へ沈める禁厭が、かつて存在したという記録のみ。
禁厭秘帖に残されていた痕跡は、それだけだった。
御子を封じ、皇統の芽を絶つ、種絶の咒い。
その仕法は、とうに失われている。
今なお用いられているなら、陰陽寮の正道ではない。
古い呪術を扱う外法師の暗躍を疑うほかなかった。
こんな時に限って、洞見が開かぬことが歯痒い。
思い返せば、夜燈に魅入られたのは、文子が後宮に入ってからのことである。
夜ごと通って来る鬼神を捕らえた筈の赤い糸。
それはいつの間にか文子自身をも絡め取り、ついには背へ式紋を刻むに至った。
後宮へ入ったことで、夜燈を得た。
その代わり、先を見通す洞見は、肝心なところで閉ざされている。
思えば、それも道理なのだろう。
文子は、自らが深く関わる未来ほど、霧に閉ざされて見えなくなる。
国を揺るがす災いは、巡り巡って我が身にも及ぶ。
最早これは、背に刻まれた式紋と同じく、文子の行く末へ喰い込んだ出来事なのだ。
これまで後宮で拾った噂と兆しを、一つ一つ並べ直そうとした時、几帳の向こうがばたばたと揺れた。
「文子!!」
志乃が転がるように、文子の局へ上がり込んで来た。
典侍としての身装は整っているのに、顔色がいつもの志乃ではなかった。
「ねえ、やめさせてー!」
「何を?」
「なんだか、四帝妃で妖しい集会を開いちゃってるのよ!」
妖しい集会とは如何に。
文子は備忘録を置いた。
志乃の言うことは時に大げさで、時に半分ほど正しい。
厄介なのは、後者の場合だった。
「どの殿舎で?」
「飛香舎よ。夜なのに、御簾の内を灯明だらけにして、白木の三方をずらりと並べて、犬張子だの這子だの、産着だの、守り袋だの……もう、御子さま祈願の品ばっかり」
「飛香舎に四帝妃、揃い踏みしているの?」
軽く返したものの、文子の指先は備忘録の端を押さえたまま止まっていた。
「弘徽殿、藤壺、梅壺、それから桐壺さまだけど」
「桐壺さま呼ばれているのではなく、囲まれているのではなくて?」
何しろ、後宮全体の焦りが、一つの部屋に押し込められているのだ。
否、紬路だけは別だと思いたい。
だが、あの友人の胸中は、容易に察せるものではない。
紬路は昔から、痛みを痛みのまま表へ出さない娘だった。
華族に生まれた娘の嗜みとして、美しく整え、堪えてしまう。
「そう、それ!」
志乃は大きく頷いた。
自分でも何が怖いのか言葉にできないまま、代わりに文子に言い当ててもらえたという顔をしている。
紬路と違って、志乃には屈託も表裏もない。
だからこそ、その怯えは余計に本物らしく見えた。
「これで御子さまが、御子さまがって……ううん、皇子――儲けの君さまのことかも? とにかく桐壺は笑おうとしてるのに、全然笑えてないの。なのに他の三帝妃は皆、願っているというより、何かに憑かれているみたいな顔で……」
文子は反射的に立ち上がった。
だが、歩を進めようとした足は、すぐに止まる。
今の文子が飛香舎へ踏み込めば、それはただの制止では済まされない。
軽々に動けば、今の後宮の均衡に、思わぬ綻びを生じさせかねなかった。
「わたくしに、どうしろと」
「だから、止めさせて」
鬼神の宮たる夜燈を、式神として結んだ女陰陽師。
中務宮の許嫁として扱えと、陰陽寮で宣言された華族の姫。
その文子が、帝妃たちの祈願を妨げたと見做される。
どう見えるかなど、考えるまでもない。
「……厭よ」
そう突っぱねると、志乃が目を丸くした。
「厭、って……」
「考えてみて? 今、わたくしが飛香舎へ乗り込めば、どう見えると思うの」
「でも、あれでは桐壺が可哀想」
「可哀想でも、おいそれとすぐ動ける立場ではなくなったの」
ほんの数日前なら、後宮の端に置かれた帝妃付きの占い師だった。
都合よく呼ばれ、都合よく遠ざけられる。
腹立たしくはあっても、まだ身は軽かった。
今は違う。
文子が動けば、夜燈が動いたようにも見える。
始めはただ、陰陽師として立ちたかっただけだ。
男たちを見返し、鬼神を式にし、陰陽寮に認めさせる。
そのために式神と契約したかった。
その果てに、女としてまで求められるなど、考えたこともなかった。
それだけでも手一杯であるのに、いつの間にか立つ場所そのものが変わってしまった。
鬼神を式にすること。
やがて式神にまで神格を高めること。
中務宮夜燈と契ること。
それはもう、一人の陰陽師が己の才を認めさせる話では済まない。
鬼神の宮と結ばれるなら、皇統へ手を伸ばしたも同じ。
そう警戒する者が、後宮にも陰陽寮にも現れ始めた。
そんな筈がない、と文子の内側は反発する。
けれど後宮も、陰陽寮も、外廷の男たちも、そうは見ない。
女陰陽師が鬼神の宮を得た。
式神術の勝利は、痛くもない腹を探られ、野心へと変えられた。
契りは政となり、名は噂となり。
文子の足元には、望んだ覚えのない道が敷かれ始めている。
「だけど、やっぱり」
志乃は、なおも譲らなかった。
意地を張るように、袖を握り締めている。
「あの儀式、物の怪が出ると思うわ!」
ええい、どうだ。
これなら文子も動くでしょう。意地でも動かしてみせる。
そんな最後の札を差し出すような言い方だった。
暫く、二人とも言葉を継がなかった。
その強情な一言は、几帳の奥にまで届いたらしい。
押し黙っていた布の向こうで、誰かが身じろぎ、衣擦れの音がした。
文子はそちらへ目を向ける。
灯りの届きにくい几帳の陰から、薄い衣の裾が先に現れた。
次いで、紬路が姿を見せる。
眠る支度には早い。
だが、昭陽舎のお召しへ上がる装いでもない。
ずっと耳を澄ませていた者の顔をしていた。
「志乃の言う通りよ」
紬路はそう言って、二人の前へ進み出た。
後宮の火種を、これ以上見過ごせなくなった様子だった。



