文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 その夜、文子(あやこ)は初めて、自ら望んで夜燈(やと)を待っていた。

 灯は落とした。
 けれど、身には白衣と緋袴を整えている。

 眠るためではない。
 この夜に何が来ても、女としてではなく、陰陽師として対するためだった。

 左手首には、何も見えない。
 けれど赤土の苧環(おだまき)から伸びる糸の先が、夜の奥で張っているのが判る。

 来る。
 そう思った次の瞬間、御簾(みす)の端が揺れた。

「眠っておらぬのか」
「眠れるとお思いですか」

 夜燈(やと)は答えず、文子(あやこ)の左手首へ目を落とした。
 鬼神である夜燈(やと)の眼には、今も赤い糸が見えるのだろうか。
 人の形で忍んで来た今宵は、文子(あやこ)の目には糸が見えない。

けれど二人の間には、まだ糸がある。
そう思うだけで、胸のどこかが熱を持つ。
名を付けるには、まだ早すぎる熱だ。

「今宵、刻む」

 その一言で、文子(あやこ)の喉が詰まった。

 待ち望んでいた言葉だった。
 それなのに、いざ突きつけられると、左手首の見えぬ糸が肌の奥で熱を持つ。

 (ちぎ)る。
 この鬼神を、己の式として。

 式札へ墨を置くのとは何から何まで違う。
 いざ己の身に式を刻むとなると、いかに文子(あやこ)であっても覚悟が要る。
 文子(あやこ)の肌へ、骨へ、魂へ、夜燈(やと)を通す儀式だ。

「式神契約を、ですか」
「……お前が望むなら。お前が喰わせるもののみ、俺は喰う」

 望まぬ(はず)がない。

 ここまで来て、退く道などない。
 退く気も、もうなかった。

 すでに文子(あやこ)も自ら、この鬼神を選んでいるのだ。
 強いられた契りでもなく、己の手で、夜燈(やと)と結ぶ。

「背へ刻む」
「……なぜ、背なのです」
「お前が俺を背負う場所だからだ」

 文子(あやこ)(ひざ)の上で拳を握った。
 目を伏せ、緋袴の紐へ手を掛けて思い直した。

 脱ぐ必要はない。
 緋袴の紐には触れなかった。
 これは夜の(たわむ)れではなく、式を陰陽師の身に刻む儀である。
 そう言い聞かせても、白衣の合わせへ指を入れた瞬間、息が浅くなる。

 胸元を片手で押さえながら、襟を抜く。
 白衣を肩から滑らせると、布は肘のあたりで留まった。

「……見ているお心算(つもり)ですか」
「ああ、見る」

 夜燈(やと)躊躇(ためら)わなかった。
 目を逸らす気など、初めから持ち合わせていない男の答えだった。

「お前は俺の主だ」

 文子(あやこ)の指が、襟元で止まる。
 式神契約のためだ。陰陽師として必要な儀だ。
 そう己へ言い聞かせても、背を晒すという一事が、身体の奥から別の熱を引き()り出してくる。

「だが、女としては俺のものだ。俺の名を刻むのに、目を逸らす道理はない」

 言い返すべきだった。

 誰のものでもない、と。
 女である前に陰陽師だ、と。
 文子(あやこ)なら、そう返せる(はず)だった。

 けれど唇は動かなかった。

 白衣の前身頃を胸元で抱え込むように寄せる。
 そのまま背中側のみを開くと、肩甲骨の間が夜気(やき)に触れた。

 夜燈(やと)は、文子(あやこ)自身が選ぶのを待っている。
 だから文子(あやこ)は、自分の手で最後の()を越えなければならなかった。

 (しば)し考え、覚悟を決めて(しとね)の上に伏した。

「式名の(ほか)に、真名(まな)も覚えているだろうな」

 忘れてなどいない。

 幼き日に無邪気さを取り上げられた。
 鬼神として畏れられ、遠ざけられた。

 そんな痛みを負わされる前に、この後宮で人として呼ばれていた名。
 誰かに慈しまれ、誰かの腕に抱かれ、まだ皇子(みこ)であることさえ知らずに笑っていた(はず)の名。

 それを、文子(あやこ)の背に刻むのだ。
 夜へ()ちる前の、この人の(まこと)まで背負う。

 肩から背が(あら)わになっている。
 (しとね)(うつぶ)せになった上半身の横で、白衣が胸元をかろうじて覆っていた。

 隠しきれない白い丸みが、布の端から少し(こぼ)れている。
 呼吸に合わせて、その(たわ)わな輪郭が揺れる。

 夜燈(やと)に見られている。
 そう思うと、肌そのものまで熱を帯びて来た。

文子(あやこ)

 名を呼ばれ、背筋が震えた。

「力を抜け」
「無理を仰言(おっしゃ)らないで」

 夜燈(やと)の指が、左手首へ触れた。

 そこから糸が引き出される。
 見えぬ(はず)苧環(おだまき)が、熱となって手首から伸びた。
 腕を()い、肩へ渡り、(あら)わな背へ落ちる。
 赤い糸が肌の下へ入っていくような、甘く、恐ろしい感覚だった。

式名を(・・・)

 夜燈(やと)が言った。
 文子(あやこ)(しとね)に額を寄せたまま、息を整えた。

 文子(あやこ)がこの鬼神を呼ぶための名。
 夜に()ち、なお灯りを失わなかったものへ、文子(あやこ)が手を伸ばすための名。

 かつて皇子(みこ)として授けられた真名(まな)ではない。
 中務宮(なかつかさのみや)と呼ばれる職務号でもない。

「……夜燈(やと)さま」

 その瞬間、背に熱が咲いた。

 肩甲骨の間に、赤い輪が浮かぶ。
 苧環(おだまき)の糸が円を描き、その内側に古い符が組み上がっていく。
 肌の上に書かれているのに、墨ではない。
 文子(あやこ)の血の奥から浮かんでくる紋だった。

 そこには夜燈(やと)真名(まな)も組み合わされていた。
 かつてこの後宮で生を受け、人に愛された皇子(みこ)として呼ばれていた頃の名だ。

 耐えられぬ痛みではなかった。
 夜燈(やと)が自分の奥へ確かに結ばれていくことが、ひどく悔しいほどに甘かった。

「これで、俺はお前の式だ。……神格が上がれば」

 夜燈(やと)(てのひら)が、式紋の上へ重なった。

「お前が呼べば、どこからでも戻る」

 文子(あやこ)(しとね)に伏したまま、目を閉じた。

 これで、夜燈(やと)文子(あやこ)の式神となった。
 けれど同時に、文子(あやこ)もまた夜燈(やと)を背負ったのだ。

 やがて熱が引き始める。
 文子(あやこ)は白衣を胸元で掻き寄せて片手で押さえながら、上半身を起こした。
 まだ背には式紋の名残の熱が灯っているのが判った。

「……見過ぎです」
「俺の名が刻まれた身体だ」
「……わたくしの背です」

 怒るほどの力は出なかった。
 儀式の余韻が身体の奥へ沈み、手指にまでだるい熱が残っている。

 その時、夜燈(やと)の表情が変わった。

文子(あやこ)、気を付けろ」
「何ですか」
「あの後、呪いの人形はやはり狂言だったと聞いた」

 文子(あやこ)の指が、白衣を握り締めた。

(しゃく)を手にされた、老官人さまから?」
「ああ。大勢の前で公表する(わけ)にはいかなかった」

 文子(あやこ)は息を()んだ。
 嫌な予感が、背の式紋とは別の熱を生む。

「人形は、弘徽殿、藤壺、梅壺が用意した形跡がある、と」
「なん……ですって」

 思わず身を乗り出しかけ、慌てて胸元の白衣を押さえ直す。
 衣の合わせが乱れ、肩から胸へ夜気(やき)が入り込んだ。
 だが、それどころではない。

「では、三人がわたくしを陥れるために?」
「そうだ」

 夜燈(やと)(うなず)いた。

「三人は、お前に感化された桐壺を揺さぶるために嫁雛を使った。……皇子(みこ)を得ない鬱屈(うっくつ)に、お前の赤土と苧環(おだまき)を盗んで加えたのだ」
「つまり……以前からある祓えぬ(じゅ)に便乗した形で、狂言の人形を置いたということ?」
「――そう見ている」

 文子(あやこ)の背が冷えた。

 弘徽殿、藤壺、梅壺。
 三人の帝妃は文子(あやこ)を嫌い、警戒し、潰したがっている。
 だが、無論、御子(みこ)封じの水底の(まじな)いとは別の猿芝居だ。

「だが、占事(せんじ)には……別の気配もあった。右大臣家、清成のものだ」
「右大臣家のご子息ですね」
「ああ、梅壺の兄が、おそらく外法師(げほうし)を飼っている」

 文子(あやこ)の指先に、力が入った。

 胸元を押さえる白衣に、深い皺が寄る。
 背には、刻まれたばかりの名がまだ馴染んでいない。
 肌の奥に置かれた夜燈(やと)の名が、己の呼吸とは違う律で、そこにある。

 儀の余韻に呑まれる()もなく、怒りが戻ってきた。

 悔しい。
 あの白砂の上で、笑いものにされたことではない。
 文子(あやこ)一人を陥れるために、桐壺のまっすぐな好意まで踏み荒らされたことが、腹の底を焼いた。

 しかもその奥に、右大臣家がいる。

 帝妃たちの嫉妬を火種にして、別の誰かが後宮の水底へ手を差し入れている。
 その構図が(ようや)く見え始めたのに、まだ肝心の形が(つか)めない。

「何のために……?」
「まだ判らない」

 夜燈(やと)の答えは短かった。
 誤魔化しているのではない。
 判らぬものを判らぬままにしておく怖さを、彼も知っている。

 沈黙が、一つ落ちた。

 文子(あやこ)は胸元の衣を押さえたまま、夜燈(やと)を見返した。

 乱れた白衣。
 背に置かれた名。
 まだ身体の奥に残る、儀の名残。

 それでも、もう陥れられるままの側ではない。

「皇統へお返しするために、あなたを結んだのではありません」

 背にある紋は、守られるための印ではなかった。
 文子(あやこ)が選び、夜燈(やと)が応えた(しるし)だ。

 先帝の皇子(みこ)
 一等親王(しんのう)

 その名が持つ栄えを、文子(あやこ)は欲したのではない。
 皇統へ近付くために、この鬼神を選んだのでもない。

 (しか)れども、要らぬと切り捨てられるものでもなかった。

 名だけを遠ざけ、人だけを選ぶことはできない。
 皇統も、孤独も、(おそ)れられてきた年月も、すべて含めて夜燈(やと)なのだ。

 ならば、文子(あやこ)はそのすべてを背へ迎える。

 人でありながら鬼神と(おそ)れられ、宮でありながら監視の目に置かれた。
 血筋を持ちながら、皇統の外へ遠ざけられて来た。

 その痛みを知らぬふりで、神力のみを使役することはできない。
 皇統のためではなく、夜燈(やと)のために、その名を背負う。

 この人を、もう一人で立たせておかぬために。

「今宵より、わたくしは皇統からあなたを奪います」

 言い切ると、背に置かれた真名(まな)が、文子(あやこ)の一部として一層深く馴染んだ気がした。

 文子(あやこ)のものになったのは、鬼神の力のみではない。
 鬼神と呼ばれるまでに削られ、封じられ、遠ざけられてきた一人の男だ。

 この背に刻んだ名ごと、後宮の闇へ踏み込む。

()ずは桐壺さまを守ります。あの方は、わたくしへの好意を汚されたのです」

 夜燈(やと)は、(しば)し答えなかった。

 怒りを揶揄(からか)っているのではない。
 その火を頼もしいものとして受け止めている。
 言葉にせずとも、差し向かう気配の近さでそれが判った。

「気の強い姫だ」
「嫌われ役らしく、(あば)いてみせると申し上げましたもの」

 この重さはもう、文子(あやこ)を沈めるものではない。

 背に刻まれた名は、鎖ではない。
 見えぬ糸の片端だ。

 文子(あやこ)が引けば、夜燈(やと)が応える。
 夜燈(やと)が荒ぶれば、文子(あやこ)が引き戻す。

 どちらか一方が負うのではない。
 二人で張り、二人で後宮を支える糸にする。

 重さは、分け合えば(わず)かに軽くなる。
 運命は、二人で引けば、縛るものではなく進む力になる。

 そうして張られた糸を、互いをより強く惹き寄せるためのものにする。

 乱れた白衣を握り締めたまま、文子(あやこ)は顔を上げた。