禁厭秘帖と同時に、淑景舎から黒塗りの盆が届いた。
志乃が運ばせるように手配したのだろう。
盆の上には、例の雛人形と紙人形が載せられていた。
秘帖は、黒い函に収められていた。
手に取る前から古い湿り気を帯びている。
表紙には、何度も掛け直された封の跡が残っていた。
禁じられた厭術。失われた咒い。
今では占形の結果のみ、記録にのみ残されたもの。
そうしたものが、この中に眠っていると思われた。
一方の雛は白く、ひどく小さく見えた。
幼形だから当然ではある。
けれど紙は硬く、折り目の一つ一つが刃のように立っていた。
首元に食い込む赤い糸。
足元へ擦りつけられた赤土。
胸に記された墨は、まだ乾ききっていない。
作られてから、そう時は経っていないのだ。
――御子、封
その赤文字を見た瞬間、陰陽寮の官人たちの間に騒めきが立った。
先ほどまで朝の倦怠に弛んでいた寮舎の空気が、たちまち本来の重さを取り戻していく。
これは陰陽寮の足の引き合いではない。
常ならば後宮の内で処される、姫たちの諍いでもない。
皇統へ触れる咒い、あるいはそれを装ったもの。
――いずれにせよ、ただの悪戯では済まされなかった。
陰陽寮に仕える者ならば、好悪も、嘲りも、保身も、今は脇へ置かねばならない。
効験ある咒いが皇統へ届く前に、兆しを見定め、根を断つ。
それこそが、今この場の全員がただちに果たすべき務めだった。
「どれ、拙に見せてみよ」
笏を手にした老官人が言った。
文子は言われたままに、盆を捧げ持った。
雛人形と紙人形とを載せた黒塗りの盆は軽かった。
その軽さが、かえって気味悪いくらいに。
文子が老官人の前へ進むと、夜燈もまた、ごく自然に動いた。
半歩後ろに、近すぎず、離れもしない。
手を貸すためではない。
文子が捧げ持つ盆と、その上に載せられた呪詛の雛を、誰にも粗略に扱わせぬための位置だった。
老官人の目が、一度だけ夜燈へ流れた。
「これは……赤土……」
陰陽寮の官人たちは、一様に息を呑んだ。
土は中央。
五行の巡りを受け止め、変じ、他の四つへ渡す要である。
この国で、五行の核たる土を扱える血筋は限られていた。
否。
限られている、などという話ではない。
土の理を正しく動かせるのは、今や土御門の一門をおいて他にない。
「五行の核を操る異能者など……」
誰かが、掠れた息で呟いた。
言葉の先は、誰も継がない。
けれど、継がずとも足りた。
赤土。
土御門。
文子。
その三つが、寮舎の空気の中で結ばれていく。
夜燈と老官人が、短く目を交わした。
「――やはりな。これは文子に罪を着せるため、仕立てられた紙人形にすぎぬ。咒いとしての効力はない」
夜燈は、半歩前へ出た。
この場で裁かれるべきは、文子ではない。
罪人に仕立て、その才を貶め、鬼神との契りまでも辱めた者だ。
夜燈が立つ場所は、もう定まっていた。
責める者たちの前、疑いの目から、この女陰陽師を隔てる場所。
――我が主には、指一本触れさせぬ、と。
周囲では、すでに占事の支度が進められていた。
亀甲が炙られ、卜竹が並べられる。
古い星盤の上には淑景舎から持ち込まれた雛と、見つかった刻限が書き添えられていた。
老官人は、盆の上の雛から目を離さぬまま、片手で卜竹を払った。
乾いた音が、寮舎の内に散る。
一本。
また一本。
竹の走りを見ていた若い官人が、息を詰めた。
「占形が立ちました」
老官人が、笏の先で卜竹の並びを押さえる。
「坎」
水だ。
北。
冬。
隠れたもの。
深く沈むもの。
そこまではよかった。
だが、次に転がった竹の一本が、明らかに右へ逸れた。
可怪しなことだった。
水は五行では北である。
それなのに、占形は一本、右へ寄っている。
文子は息を止めた。
方角としての右ではない。
――現世における右。
朝廷において、右を名乗る家。
「では、土と水、どちらがどちらなのです?」
「水が、土を汚そうとした、ということですか?」
困惑が寮舎を満たす中、誰かがぽつりと零した。
「……右大臣家」
断じた訣ではない。
けれど、その名が落ちた瞬間、誰もが同じ方角を見た。
土御門の赤土。
水の理を抱く、右大臣家。
二つが並んだ時、ただの紙人形は、後宮の小競り合いでは済まなくなる。
皇統をめぐる家と家の争いへ、姿を変えていく。
夜燈が、低く口を開いた。
「だが、これは水の結界を持つ右大臣家の異能ではない。……外法師を飼っているならともかく」
「土、水、いずれにしても、外法師による禁厭……その見立てで相違あるまい」
笏を手にした老官人が、夜燈の言葉を受けた。
齢と職責に刻まれた深い皺が、その面に幾筋も沈んでいる
外法師。
陰陽寮に属さず、官の許しも受けず、金と怨みによって咒いを扱う者。
世の裏に潜み、正しき祭祀の形を歪め、禁じられた術で人の心と身を損なう者たち。
老官人の笏が、黒塗りの盆の脇を指した。
「禁厭秘帖で、即刻、水を検めよ」
志乃が運ばせるように手配したのだろう。
盆の上には、例の雛人形と紙人形が載せられていた。
秘帖は、黒い函に収められていた。
手に取る前から古い湿り気を帯びている。
表紙には、何度も掛け直された封の跡が残っていた。
禁じられた厭術。失われた咒い。
今では占形の結果のみ、記録にのみ残されたもの。
そうしたものが、この中に眠っていると思われた。
一方の雛は白く、ひどく小さく見えた。
幼形だから当然ではある。
けれど紙は硬く、折り目の一つ一つが刃のように立っていた。
首元に食い込む赤い糸。
足元へ擦りつけられた赤土。
胸に記された墨は、まだ乾ききっていない。
作られてから、そう時は経っていないのだ。
――御子、封
その赤文字を見た瞬間、陰陽寮の官人たちの間に騒めきが立った。
先ほどまで朝の倦怠に弛んでいた寮舎の空気が、たちまち本来の重さを取り戻していく。
これは陰陽寮の足の引き合いではない。
常ならば後宮の内で処される、姫たちの諍いでもない。
皇統へ触れる咒い、あるいはそれを装ったもの。
――いずれにせよ、ただの悪戯では済まされなかった。
陰陽寮に仕える者ならば、好悪も、嘲りも、保身も、今は脇へ置かねばならない。
効験ある咒いが皇統へ届く前に、兆しを見定め、根を断つ。
それこそが、今この場の全員がただちに果たすべき務めだった。
「どれ、拙に見せてみよ」
笏を手にした老官人が言った。
文子は言われたままに、盆を捧げ持った。
雛人形と紙人形とを載せた黒塗りの盆は軽かった。
その軽さが、かえって気味悪いくらいに。
文子が老官人の前へ進むと、夜燈もまた、ごく自然に動いた。
半歩後ろに、近すぎず、離れもしない。
手を貸すためではない。
文子が捧げ持つ盆と、その上に載せられた呪詛の雛を、誰にも粗略に扱わせぬための位置だった。
老官人の目が、一度だけ夜燈へ流れた。
「これは……赤土……」
陰陽寮の官人たちは、一様に息を呑んだ。
土は中央。
五行の巡りを受け止め、変じ、他の四つへ渡す要である。
この国で、五行の核たる土を扱える血筋は限られていた。
否。
限られている、などという話ではない。
土の理を正しく動かせるのは、今や土御門の一門をおいて他にない。
「五行の核を操る異能者など……」
誰かが、掠れた息で呟いた。
言葉の先は、誰も継がない。
けれど、継がずとも足りた。
赤土。
土御門。
文子。
その三つが、寮舎の空気の中で結ばれていく。
夜燈と老官人が、短く目を交わした。
「――やはりな。これは文子に罪を着せるため、仕立てられた紙人形にすぎぬ。咒いとしての効力はない」
夜燈は、半歩前へ出た。
この場で裁かれるべきは、文子ではない。
罪人に仕立て、その才を貶め、鬼神との契りまでも辱めた者だ。
夜燈が立つ場所は、もう定まっていた。
責める者たちの前、疑いの目から、この女陰陽師を隔てる場所。
――我が主には、指一本触れさせぬ、と。
周囲では、すでに占事の支度が進められていた。
亀甲が炙られ、卜竹が並べられる。
古い星盤の上には淑景舎から持ち込まれた雛と、見つかった刻限が書き添えられていた。
老官人は、盆の上の雛から目を離さぬまま、片手で卜竹を払った。
乾いた音が、寮舎の内に散る。
一本。
また一本。
竹の走りを見ていた若い官人が、息を詰めた。
「占形が立ちました」
老官人が、笏の先で卜竹の並びを押さえる。
「坎」
水だ。
北。
冬。
隠れたもの。
深く沈むもの。
そこまではよかった。
だが、次に転がった竹の一本が、明らかに右へ逸れた。
可怪しなことだった。
水は五行では北である。
それなのに、占形は一本、右へ寄っている。
文子は息を止めた。
方角としての右ではない。
――現世における右。
朝廷において、右を名乗る家。
「では、土と水、どちらがどちらなのです?」
「水が、土を汚そうとした、ということですか?」
困惑が寮舎を満たす中、誰かがぽつりと零した。
「……右大臣家」
断じた訣ではない。
けれど、その名が落ちた瞬間、誰もが同じ方角を見た。
土御門の赤土。
水の理を抱く、右大臣家。
二つが並んだ時、ただの紙人形は、後宮の小競り合いでは済まなくなる。
皇統をめぐる家と家の争いへ、姿を変えていく。
夜燈が、低く口を開いた。
「だが、これは水の結界を持つ右大臣家の異能ではない。……外法師を飼っているならともかく」
「土、水、いずれにしても、外法師による禁厭……その見立てで相違あるまい」
笏を手にした老官人が、夜燈の言葉を受けた。
齢と職責に刻まれた深い皺が、その面に幾筋も沈んでいる
外法師。
陰陽寮に属さず、官の許しも受けず、金と怨みによって咒いを扱う者。
世の裏に潜み、正しき祭祀の形を歪め、禁じられた術で人の心と身を損なう者たち。
老官人の笏が、黒塗りの盆の脇を指した。
「禁厭秘帖で、即刻、水を検めよ」



