文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 ふいに寮舎の入口に、誰かが立った。

 先に気付いたのは、男たちの沈黙だった。
 先ほどまで文子を見定めていた視線が、一斉に背後へ流れる。

「その通りだ」

 背後から言葉が落ちた。

 文子(あやこ)は振り返らなかった。
 もう振り返らずとも判った。

 左の手首が熱を持つ。
 昼であるのに、見えない苧環(おだまき)の結び目が脈の奥で燃えた。

 寮舎の入口に、中務宮(なかつかさのみや)夜燈(やと)が立っていた。

 夜の御簾(みす)の内に忍んで来る男としてではない。
 昼の外廷で執務を執る宮として。人の形をした鬼神として。
 文子(あやこ)の糸を、呪いではないと知っている唯一の男として。

 逃げ場のない現実の重みを帯びて、そこに厳然と立っていた。

「後宮に置かれた呪詛の雛だ。陰陽寮が(あらた)めずに済ませる道理はない」
中務宮(なかつかさのみや)さま」

 陰陽允(おんみょうのじょう)が立ち上がり、深く(こうべ)を垂れた。
 先ほどまでの(あざけ)りが、嘘のように消えている。

 その変わり身の素早さに、文子(あやこ)は内心で毒づいた。

 (から)め手を取らぬ男たちは、やはり後宮の姫たちよりも判りやすい。
 文子(あやこ)の言葉は聞かずとも、中務宮(なかつかさのみや)の一言には即座に(ひざ)を折る。

 夜燈(やと)文子(あやこ)(かば)うように(さえぎ)るのではなく、隣へ来た。

 それが、却って文子(あやこ)の喉を熱くした。

 守られる女として後ろへ下げられたのではない。
 夜燈(やと)は、文子(あやこ)が言葉を続けるための場所を空けたのだ。

「これより文子(あやこ)を、我が許嫁(いいなずけ)として扱え」

 一瞬、言葉の意味が文子(あやこ)の内へ届かなかった。

 許嫁(いいなずけ)

 その二字が遅れて身の奥へ落ちる。
 陰陽寮の男たちも、寮舎の下働きも、そこに居合わせた者たちも、皆こちらを見ていた。

 否定しなければならない。
 今すぐに。

 そう思ったのに、唇が動かない。
 夜燈(やと)は、まるで初めからそう決まっていたかのように、文子(あやこ)へ手を差し出した。

「さあ、姫」

 触れてはいない。
 けれど、その位置だけで、文子(あやこ)への(あなど)りを(さえぎ)る壁になる。

 文子(あやこ)の赤い糸を、呪いの縄に貶めさせないために。
 文子(あやこ)の立場を、後宮の噂に食い荒らさせないために。
 そして何より、文子(あやこ)が自分の意志で命じる女であると、この場に知らしめるために。

「姫は、何をお求めになられるか」

 文子(あやこ)は息を整えた。

 姫。
 たった一文字が、この男の口にかかると、ひどく甘いものになる。
 侮りでも、(たわむ)れでもない。飾り立てて籠に入れる呼び名でもない。
 大切なものを両の手で掲げ上げるように、この男は文子(あやこ)を姫と呼ぶ。

 陰陽寮にあって姫などと呼ばれることさえ、なぜかこの男になら許せる気がした。

 甘えてはならない。

 鬼神に救われる許嫁では終わらない。
 この男を、己の式として御す。

 文子(あやこ)は、胸の内で自分を叱りつけた。

 こうも心を揺らしてくる男に(すが)るためではない。
 危うい鬼神へ主として手を伸ばし、この男を闇に()とさないために。

 これは願いごとではない。
 直談判だ。

禁厭秘帖(きんえんひちょう)の閲覧権限を。……それから、わたくしの局に押し入った者がいたかどうか、占事(せんじ)を要求します。急ぎ、(のろ)いを(はら)わせてください」

 そのとき奥で、(しゃく)の端がかつんと板張りの床を打った。
 制止というより、(とが)める音だった。

「だが、あれは誰にも(はら)えぬのだ。あまりに強大での」

 口を挟んだのは、陰陽寮の年嵩(としかさ)の官人だった。
 文子(あやこ)の願いを退(しりぞ)けたいのではない。

御子(みこ)を封じる(じゅ)と、その稚拙な紙人形はおそらく別物じゃの」
「……よかろう。秘帖(ひちょう)占事(せんじ)の用意を持て」

 短い許しだった。
 文子(あやこ)は一瞬だけ目を(みは)った。

「……よろしいのですか」
「俺に命じる権は、お前にある」

 夜燈(やと)は、文子(あやこ)のみに届く近さで告げた。

 腹の奥が熱くなる。
 淑景舎の白砂で感じた怒りとは、違う熱だった。

 男の威を借りて、女の仕事を通す。
 それは、文子(あやこ)が誰より嫌ってきた形の(はず)だった。

 けれど、これは違う。

 夜燈(やと)文子(あやこ)を鎖にしない。
 宮筋の威で縛るのではなく、その威ごと文子(あやこ)(てのひら)へ預けてくる。

 使え、と言っているのだ。
 鬼神である自分さえも。

 ならば、これは男の庇護ではない。
 文子(あやこ)が結び、文子(あやこ)が担い、文子(あやこ)が行使する権だ。

 夜燈(やと)を縛るのは、陰陽寮(おんみょうりょう)でも、皇統でも、後宮でもない。
 文子(あやこ)であれと、彼は自ら差し出した。

 ならば受け取る。
 女としてではなく、式主として。

 文子(あやこ)は扇を握り直した。

 存在の近さに揺れている場合ではない。

 渡された()を、己の(すべ)として使わねばならない。
 そうしなければ、後宮がまた悪意を育て、物の()()まれていく。

 鬼神の名も、宮筋の重みも、この場を裁くための一手に変える。

「では、そうさせていただきます」

 夜燈(やと)の目が、愉しげに細くなった。

 命じられることを喜ぶ目ではない。
 従う形を取りながら、さらに深いところで文子(あやこ)を絡め取ろうとする目だった。

「そうしろ。我が主」

 主、と呼ばれた。

 文子(あやこ)の名ではない。
 甘い睦言でもない。
 それなのに、その一語は(てのひら)に落ちた火種のように重かった。

 御する(はず)の男が、こちらを主と呼ぶ。
 その度に、文子(あやこ)の方が夜燈(やと)の闇へ、深く引き寄せられていく。