淑景舎を後にした文子は、その足で陰陽寮へ向かった。
後宮の騒ぎが収まらぬ以上、今朝の志乃は外廷へ出られない。
典侍として、淑景舎の混乱を収める側へ回っている。
つまり、ここから先は一人だ。
緋袴の裾には、淑景舎の庭を踏み締めた白砂が散っていた。
それを払う気にはなれなかった。
汚されたのは衣ではなく、夜燈と結んだ糸だ。
手首の奥で熱を持つ、あの見えない結び目だ。
鬼神を捕らえた夜のことを、文子はまだ誰にも明かしていない。
夜燈がどのように手首へ触れたか。
名を呼んだ時、どれほど近く夜が濃くなったか。
契るという言葉が、どれほど危うく文子の内側を揺らしたか。
そのすべてを、下らない宮廷陰謀の道具として扱われた。
怒りは、熱ではなくなっていた。
歩くほどに冷え、鋭くなっていく。
あの紙人形を作った者を突き止める。
文子の局へ手を入れ、赤土と苧環を盗み、淑景舎の嫁雛の脇へ置いた者を逃がさない。
外郭門を抜けて寮舎へ入ると、例によって男たちが顔を上げた。
「おや。今度は後宮の呪詛騒ぎか」
「帝妃付きの占い師殿は、大層お忙しい」
どっと笑いが落ちる。
文子は止まらなかった。
笑わせておけばいい。
紬路も言っていた咒いの根を断つために来たのだ。
今必要なのは記録と、証拠と、陰陽寮が持つ呪法の知識だ。
「陰陽允さま」
文子は直属の上役の机の前に立った。
寮舎の内に、筆の止まる気配が広がる。
先ほどまで聞こえていた紙をめくる音も、墨を摺る音も、都合よく薄くなった。
「淑景舎の庭に、御子を封ずるなどと書かれた人形が置かれました。赤土と苧環が使われています。陰陽寮に保管されている禁厭秘帖をお願いします」
「禁厭秘帖、だと?」
陰陽允が眉を上げた。
陰陽寮において暦、天文、卜占に携わる官人たちを実務の面から束ねる、上席の文官である。
「お願い、と言いながら、まるで命じに来たようだな」
「ええ。気持ちは命じる心算で参りました」
寮舎の内から、筆音が消えた。
紙を繰る音も、墨を含ませる気配も、ぴたりと止まっている。
邪魅だの怪異だのを追う陰陽師とはいえ、普段の務めは記録と上申書に埋もれる。
けれど、机に縛られていても、彼らは魑魅魍魎の匂いを嗅ぎ分ける者たちだった。
目の前に転がり込んだ面白そうな成り行きを、見逃す筈がない。
文子は背筋を伸ばした。
怯んではならない。
ここで一歩でも退けば、また使い勝手のいい場所へ戻される。
必要な時のみ陰陽師と呼ばれ、疑われた時のみ女として裁かれる。
力があれば恐れられ、なければ嗤われる。どちらに転んでも、文子自身の言葉としては扱われない。
そんな場所へは、もう戻らない。
寮舎の内は、水を打ったように鎮まっていた。
誰も筆を取らない。誰も咳払いをしない。
紙の端を押さえた指まで、文子の一挙手を待つように止まっている。
ならば、聞かせてやる。
「これはもはや後宮の戯れではございません。皇統に関わる事案です」
言い切った瞬間、空気の質が変わった。
女の差し出口ではない。
後宮の揉め事でもない。
陰陽寮が知らぬ振りで押し返せる類いの穢れでは、もはやない。
後宮の騒ぎが収まらぬ以上、今朝の志乃は外廷へ出られない。
典侍として、淑景舎の混乱を収める側へ回っている。
つまり、ここから先は一人だ。
緋袴の裾には、淑景舎の庭を踏み締めた白砂が散っていた。
それを払う気にはなれなかった。
汚されたのは衣ではなく、夜燈と結んだ糸だ。
手首の奥で熱を持つ、あの見えない結び目だ。
鬼神を捕らえた夜のことを、文子はまだ誰にも明かしていない。
夜燈がどのように手首へ触れたか。
名を呼んだ時、どれほど近く夜が濃くなったか。
契るという言葉が、どれほど危うく文子の内側を揺らしたか。
そのすべてを、下らない宮廷陰謀の道具として扱われた。
怒りは、熱ではなくなっていた。
歩くほどに冷え、鋭くなっていく。
あの紙人形を作った者を突き止める。
文子の局へ手を入れ、赤土と苧環を盗み、淑景舎の嫁雛の脇へ置いた者を逃がさない。
外郭門を抜けて寮舎へ入ると、例によって男たちが顔を上げた。
「おや。今度は後宮の呪詛騒ぎか」
「帝妃付きの占い師殿は、大層お忙しい」
どっと笑いが落ちる。
文子は止まらなかった。
笑わせておけばいい。
紬路も言っていた咒いの根を断つために来たのだ。
今必要なのは記録と、証拠と、陰陽寮が持つ呪法の知識だ。
「陰陽允さま」
文子は直属の上役の机の前に立った。
寮舎の内に、筆の止まる気配が広がる。
先ほどまで聞こえていた紙をめくる音も、墨を摺る音も、都合よく薄くなった。
「淑景舎の庭に、御子を封ずるなどと書かれた人形が置かれました。赤土と苧環が使われています。陰陽寮に保管されている禁厭秘帖をお願いします」
「禁厭秘帖、だと?」
陰陽允が眉を上げた。
陰陽寮において暦、天文、卜占に携わる官人たちを実務の面から束ねる、上席の文官である。
「お願い、と言いながら、まるで命じに来たようだな」
「ええ。気持ちは命じる心算で参りました」
寮舎の内から、筆音が消えた。
紙を繰る音も、墨を含ませる気配も、ぴたりと止まっている。
邪魅だの怪異だのを追う陰陽師とはいえ、普段の務めは記録と上申書に埋もれる。
けれど、机に縛られていても、彼らは魑魅魍魎の匂いを嗅ぎ分ける者たちだった。
目の前に転がり込んだ面白そうな成り行きを、見逃す筈がない。
文子は背筋を伸ばした。
怯んではならない。
ここで一歩でも退けば、また使い勝手のいい場所へ戻される。
必要な時のみ陰陽師と呼ばれ、疑われた時のみ女として裁かれる。
力があれば恐れられ、なければ嗤われる。どちらに転んでも、文子自身の言葉としては扱われない。
そんな場所へは、もう戻らない。
寮舎の内は、水を打ったように鎮まっていた。
誰も筆を取らない。誰も咳払いをしない。
紙の端を押さえた指まで、文子の一挙手を待つように止まっている。
ならば、聞かせてやる。
「これはもはや後宮の戯れではございません。皇統に関わる事案です」
言い切った瞬間、空気の質が変わった。
女の差し出口ではない。
後宮の揉め事でもない。
陰陽寮が知らぬ振りで押し返せる類いの穢れでは、もはやない。



