――俺には、悪女が似合う。
――誰かに嫌われても、退かぬ女だ。
――俺の主には、それくらいで恰度よい。
ふいに、御簾の内で囁かれた夜燈の言葉が記憶の底から浮かび上がった。
文子がまだ、自分の怒りの置き場さえ知らずにいた頃の夜の話だ。
悪女など、まっぴらだと思った。
後宮の姫たちの憎まれ役など、志乃に押し付けられた厄介事でしかなかった。
けれど夜燈は、そこに文子自身も知らなかった形を見ていた。
嫌われても退かぬ女。
誰かのために膝を折るのではなく、己の意志で線を引く女。
鬼神の荒魂を前にしても、喰わせるものを選ぶと条件を突きつける女。
そのわたくしが、今ここで膝を折ってどうする。
文子は袖の内へ指を入れた。
朝餉の席から慌ただしく出て来たが、扇のみは持っていた。
後宮で姫たちの前に立つ時、あの朝から欠かさぬようになったものだ。
扇は礼であり、盾であり、時に刃になる。
志乃に嫌われ役を押し付けられて以来、嫌でも身に付いた作法だ。
白砂の上で、一息置く。
左の手首が熱を持っている。
夜燈へ続く苧環の糸――
あの人が道標と呼んだものを、誰かが呪いの証へ貶めた。
許せる筈がなかった。
陰陽師の技を、悪意の道具と成り得ると、決めつけられただけでもない。
あの夜の熱も、手首に残る結び目も。
夜燈が文子を選んだことも。
文子が夜燈を捕らえたことも。
切り札の見世物として扱い、薄汚れた咒いの枷と同じ場所へ落としたのだ。
違う。
あれは、文子が夢と現の境で夜燈へ届くために投げた糸だ。
名も、身分も、皇統も知らぬまま、ただ一人の鬼神を選んだ、文子の選択の証だ。
それを踏みにじるなら、文子もまた、再度選ばねばならない。
咎められた、権力を持たない姫として俯くのか。
嫌われても退かぬ女として、白砂の上に立つのか。
答えは、もう出ていた。
ならば、こちらから名乗ってやる。
恋占い師でも、悪役令嬢でも、呪詛師でも、好きに呼べばいい。
ただし、濡れ衣のまま膝を折る女ではない。
夜燈と結んだ糸を、他人の手で鎖に変えさせる女でもない。
「よろしいでしょう」
文子は扇を開いた。
ぱちり、と骨が鳴る。
その音一つで、白砂の上に線が引かれた。
口元を隠すためではない。
余裕があると見せるためだ。
怒りを見せれば、癇癪と言われる。
泣けば、罪を認めたように扱われる。
怯めば、弱いところへ次の刃が来る。
ならば笑えばいい。
怒りを荒らさず、刃の形へ整えて。
文子は扇を口許に嫣然と笑い、殿上の御簾の内を見上げた。
「そこまでわたくしを悪女に仕立てたいのでしたら、お望み通り悪役令嬢らしく、受けて立って差し上げます」
言い切って、文子は一拍置いた。
急がない。
弁明に見せてはならない。
追い詰められて口を開いたのではないと、この白砂の上で示さなければならなかった。
「この人形を折った者。わたくしの赤土を盗んだ者。御子封じの咒いなどとして、桐壺さまの嫁雛へ置いた者。すべて、わたくしが突き止めます。……陰陽師の前で、隠れ果せると思わないことです」
文子はもう一度、盆の上の白い人形を見下ろした。
赤い糸が、白い紙の首元に食い込んでいる。
人形の紙の首を締め、御子を封ずるなどと朱墨の呪詛で穢している。
まるで、文子と夜燈を結ぶ糸まで、同格へ貶められた気がした。
鬼神を縛るための縄。
皇統を封じるための鎖。
女の嫉妬と咒いが絡みついた、汚れた糸。
違う。
あれは、文子が夜燈へ辿り着くために結んだものだ。
夜燈が文子を現世へ呼び戻すために残したものだ。
まだ契りの名も形も定まらぬまま、それでも確かに二人の間に在るものだ。
それを嘲った。
それを、後宮の庭に晒した。
許せない。
これは畏れ多くも御子を封じるなどと、汚れた咒いだけの事件ではない。
文子の糸を、道標から牢獄の鎖へ変えようとする者の事件だ。
「そして、その時には」
文子はゆっくりと微笑んだ。
今この場で、文子を見下ろしている者たちへ。
扇の奥で息を呑み、けれどまだ勝った心算でいる者たちへ。
悪女と呼べば女は俯くと思っている者たちへ。
「わたくしを疑ったこと、皆さまにきちんと謝っていただきますわ」
――誰かに嫌われても、退かぬ女だ。
――俺の主には、それくらいで恰度よい。
ふいに、御簾の内で囁かれた夜燈の言葉が記憶の底から浮かび上がった。
文子がまだ、自分の怒りの置き場さえ知らずにいた頃の夜の話だ。
悪女など、まっぴらだと思った。
後宮の姫たちの憎まれ役など、志乃に押し付けられた厄介事でしかなかった。
けれど夜燈は、そこに文子自身も知らなかった形を見ていた。
嫌われても退かぬ女。
誰かのために膝を折るのではなく、己の意志で線を引く女。
鬼神の荒魂を前にしても、喰わせるものを選ぶと条件を突きつける女。
そのわたくしが、今ここで膝を折ってどうする。
文子は袖の内へ指を入れた。
朝餉の席から慌ただしく出て来たが、扇のみは持っていた。
後宮で姫たちの前に立つ時、あの朝から欠かさぬようになったものだ。
扇は礼であり、盾であり、時に刃になる。
志乃に嫌われ役を押し付けられて以来、嫌でも身に付いた作法だ。
白砂の上で、一息置く。
左の手首が熱を持っている。
夜燈へ続く苧環の糸――
あの人が道標と呼んだものを、誰かが呪いの証へ貶めた。
許せる筈がなかった。
陰陽師の技を、悪意の道具と成り得ると、決めつけられただけでもない。
あの夜の熱も、手首に残る結び目も。
夜燈が文子を選んだことも。
文子が夜燈を捕らえたことも。
切り札の見世物として扱い、薄汚れた咒いの枷と同じ場所へ落としたのだ。
違う。
あれは、文子が夢と現の境で夜燈へ届くために投げた糸だ。
名も、身分も、皇統も知らぬまま、ただ一人の鬼神を選んだ、文子の選択の証だ。
それを踏みにじるなら、文子もまた、再度選ばねばならない。
咎められた、権力を持たない姫として俯くのか。
嫌われても退かぬ女として、白砂の上に立つのか。
答えは、もう出ていた。
ならば、こちらから名乗ってやる。
恋占い師でも、悪役令嬢でも、呪詛師でも、好きに呼べばいい。
ただし、濡れ衣のまま膝を折る女ではない。
夜燈と結んだ糸を、他人の手で鎖に変えさせる女でもない。
「よろしいでしょう」
文子は扇を開いた。
ぱちり、と骨が鳴る。
その音一つで、白砂の上に線が引かれた。
口元を隠すためではない。
余裕があると見せるためだ。
怒りを見せれば、癇癪と言われる。
泣けば、罪を認めたように扱われる。
怯めば、弱いところへ次の刃が来る。
ならば笑えばいい。
怒りを荒らさず、刃の形へ整えて。
文子は扇を口許に嫣然と笑い、殿上の御簾の内を見上げた。
「そこまでわたくしを悪女に仕立てたいのでしたら、お望み通り悪役令嬢らしく、受けて立って差し上げます」
言い切って、文子は一拍置いた。
急がない。
弁明に見せてはならない。
追い詰められて口を開いたのではないと、この白砂の上で示さなければならなかった。
「この人形を折った者。わたくしの赤土を盗んだ者。御子封じの咒いなどとして、桐壺さまの嫁雛へ置いた者。すべて、わたくしが突き止めます。……陰陽師の前で、隠れ果せると思わないことです」
文子はもう一度、盆の上の白い人形を見下ろした。
赤い糸が、白い紙の首元に食い込んでいる。
人形の紙の首を締め、御子を封ずるなどと朱墨の呪詛で穢している。
まるで、文子と夜燈を結ぶ糸まで、同格へ貶められた気がした。
鬼神を縛るための縄。
皇統を封じるための鎖。
女の嫉妬と咒いが絡みついた、汚れた糸。
違う。
あれは、文子が夜燈へ辿り着くために結んだものだ。
夜燈が文子を現世へ呼び戻すために残したものだ。
まだ契りの名も形も定まらぬまま、それでも確かに二人の間に在るものだ。
それを嘲った。
それを、後宮の庭に晒した。
許せない。
これは畏れ多くも御子を封じるなどと、汚れた咒いだけの事件ではない。
文子の糸を、道標から牢獄の鎖へ変えようとする者の事件だ。
「そして、その時には」
文子はゆっくりと微笑んだ。
今この場で、文子を見下ろしている者たちへ。
扇の奥で息を呑み、けれどまだ勝った心算でいる者たちへ。
悪女と呼べば女は俯くと思っている者たちへ。
「わたくしを疑ったこと、皆さまにきちんと謝っていただきますわ」



