昼過ぎ、文子は外郭門を通り、大内裏の西の端にある陰陽寮へ入った。
後宮の華やぎから離れるほど、空気は乾いていく。
真摯な暦や星図に関する書物といったものが壁に貼られている。
香や衣擦れの代わりに、近付いて来る古い紙と墨の匂いに文子は気を引き締める。
寮舎の内へ入れば、空気は後宮の高貴な姫たちのそれとはまるで違う。
こちらにはこちらで、女の嫉妬よりさらに性質の悪いものがある。
男たちが笑いを噛み殺し、沈黙のうちに結託している気配だ。
机の向こうで、同僚の一人が顔も上げずに言った。
「お戻りか。帝妃付きの占い師殿」
続いて方々から、くすくすと笑いが落ちる。
「やれやれ。陰陽師が女御さまの御機嫌伺い、とは」
「方違えの算は合ったのかね」
「まさか、涙に釣られて占形を曲げたのではあるまいな」
「否々、女同士のことは女陰陽師どのにお任せするのが一番だろう。……恋占いに物忌み、夢見の吉凶。実に似つかわしい」
文子は返事をしなかった。
返せば、向こうは喜ぶ。
怒れば、やはり女には務まらぬと言う。
黙れば、気位ばかり高いと笑う。
どこへ立っても、すでに足元へ罠が敷かれている。
才ある者は、性別ではなく実力で扱われるべきではないだろうか。
陰陽道も方術も、後宮の言い訳に使うための飾りではない。
女陰陽師などと殊に呼ばれる前に、文子はただ正式な陰陽師として扱われたかった。
「卜占の道具をお返しします」
文子は包みを机へ置きながら、なるべく感情を見せず平坦に言った。
後宮へ向かう前、念のため借り受けたものだ。
持って行ったところで、梅壺の愁訴には大仰に過ぎた。
あれは怪異などではなく、寵をもう一晩引き延ばすための一芝居だったのだろうと、文子は結論付けていた。
「後ほど占状を書き起こし、陰陽允さまへご報告いたします」
「ほう。女御さまの泣き言にも、立派な占状が要るのか。ははは」
隣席の陰陽助は筆を止めもせず、独り言のように笑った。
独り言であれば、聞き咎める方が狭量ということになる。
そういう逃げ道まで、きちんと用意された嘲りだ。
しかし、女御の泣き言などと一笑に付すとは、それにしても陰陽師のすることではない。
怪異は嘲った隙間から入り込む。
恐れ過ぎてもならぬが、侮ってもならない。
それに思い至らない者が、よくも陰陽寮の机に座っていられるものだ、と文子は思った。
けれど、ただ聞こえなかった振りをしてやり過ごす。
食い付けば、この陰陽寮の男どもは喜ぶ。
怒れば、やはり女には陰陽師など務まらぬと言い出すに決まっている。
「物の怪とも付かぬものを目撃されたとか。念のため、亀甲と卜竹、それから星盤をお借りしたいのですが」
「……困ったな」
陰陽助が顔を上げた。
困った顔ではなく、待っていた言葉を聞いた顔だった。
「今日は大きな占事が入っていてな。主上の御前へ上げる御占だ。余分な什器はないと聞いたが」
「一組も?」
「帝妃の御機嫌取りに貸す道具はない、という意味じゃないですかね」
別の男が、わざとらしく音を立てて筆を置いた。
それから墨のついた筆先を硯の縁でゆっくり整え、こちらの方を見もせずに笑う。
いずれも、その重大な占事とは無関係な下っ端のくせに、と文子は心の中で毒付いた。
「夢見だの恋占いだの、後宮の姫君相手には卜占で十分でしょう」
「女と契る鬼神があるものか」
「女の尻に敷かれ、唯々諾々と従う式神など、お笑い種だ」
誰かが肩を揺らして嗤う。
占状帳をめくる音の向こうで、くつくつとした声が漏れ聞こえて来た。
「初の女陰陽師、でしたっけ」
「中務宮もお優しい方だ。巫女遊びのためにお取立てになるとは」
「近頃は市井の唱門師だの声聞師だの、血筋さえも問わず拾い上げなさるからなあ」
下賤な者であったり。
女であったり、と、そう言いたいらしい。
胸の内側が、じりと焼けた。
式神契約をしてくれる鬼神があるものか。
何度も言われてきた言葉だった。
文子が陰陽寮へ入ってから、男たちは事あるごとにそれを口にした。
女の身で陰陽寮へ入ったところで、鬼神が認める筈もない。
式神を持たぬ陰陽師など、筆のない書家、弓のない武人と同じだ、と。
修験を積んだ高位の霊力者であれば、什器を用いずとも指先一つで九字を切る。
式神を持たぬのであれば、そのように占いも祓いも済ませてみせよ。
そういった突き放しを感じる。
任官された当初、文子は気負って直衣を纏っていた。
男たちと同じ場に立つのだと、肩に力を入れていた。
それが、まず気に障ったのだろう。
女の身体を無理に男の衣へ押し込めたようだと、陰で笑われた。
直衣の袖を揺らして歩くだけで、誰かが咳払いに紛れて笑った。
同じ衣を纏えば同じ場所に立てると思ったのか、と。
今は白衣に緋袴の巫女装束へ改めている。
そうすればそうしたで、また笑われた。
それなら初めから巫女にでもなればよかったものを、と。
おや、とうに処女を失くした身でいらしたか。
ならば神前に仕えるには、差し障りがありましょうね――
などと、根も葉もない囁きまで添えられた。
だが、諦めたわけではない。
文子は唇を引き結んだ。
ここで食い下がれば什器を笠に、こちらを痛ぶって愉しむ男たちの思う壺だ。
もしくは、競争意識でもあるのだろうか。
そう考えた方が精神衛生上、ずっといい。
「では、結構です」
あっさり引くと、男たちの目が僅かにつまらなさそうに動いた。
「後宮の小さな騒ぎで、大きな占事に用いる什器を奪う訳には参りません。――そう申し渡されたと、占状にも明記しておきますわ」
男たちの笑みが、そこで少し固まった。
よもや、自分たちの名まで記載されやしまいか、と。
文子は帳面を抱え直した。
くだらない保身など考えるくらいなら、初めから絡んでこなければいいじゃない。
貸さぬなら、それでよい。私のせいじゃないもの。
ただし、貸さなかった事実まで消せると思わない方が身の為よ。
確かに後宮付きの役目を果たすのに、当座さほど困ってはいなかった。
物忌みも方違えも、後宮の姫たちが欲しがるのは、真実よりも体裁だ。
夜に星の位置と暦、方角の吉凶、それから夢見の古い例を紐解けば、ひとまず形は整う事案ばかりだ。
それに、文子には初めから観えぬものがある。
自分の未来に関わるものは、一切観えない。
今の文子には後宮で起こることの多くが霧に沈んでいた。
自分が渦中にいる以上、見通せるものは限られていたのだ。
だから、今回の左遷の先で何が待つのかも判らなかった。
他人の運勢なら、兆しの端を拾えることがある。
夢に残った翳り、方角に生じた歪み、物の怪が通ったあとの冷え。
そうしたものなら、時折指先へ引っかかる。
けれど、自分の行く先だけは違う。
どれほど目を凝らしても、そこだけが深い霧の奥へ沈む。
早いところ、知己の華族の姫が多く住まう、あの面倒な七殿五舎から解き放ってほしい。
そう思うほどに、後宮は文子の洞見の異能を鈍らせる。
文子は一礼だけして、男たちに背を向けた。
自分の机へ戻ると、袖を整え、硯の横に新しい料紙を置く。
筆先を墨に含ませ、余分な雫を硯の縁で払い、陸で穂先を整える。
それから躊躇いなく一行目を書きつけた。
――梅壺女御、帝の御寝所にて黒き影を見たりとの訴えあり。
笑いたければ笑えばいい。
記録に残るのは、笑い声ではなく文字の方だ。
什器を貸さぬなら、それでもよい。
見たいものは、目の前に山ほどある。
女御の嘘。
後宮の噂。
陰陽の名を都合よく使う者たち。
今は観えぬ未来を追うより、目の前の事実を検める方が早い。
後宮の華やぎから離れるほど、空気は乾いていく。
真摯な暦や星図に関する書物といったものが壁に貼られている。
香や衣擦れの代わりに、近付いて来る古い紙と墨の匂いに文子は気を引き締める。
寮舎の内へ入れば、空気は後宮の高貴な姫たちのそれとはまるで違う。
こちらにはこちらで、女の嫉妬よりさらに性質の悪いものがある。
男たちが笑いを噛み殺し、沈黙のうちに結託している気配だ。
机の向こうで、同僚の一人が顔も上げずに言った。
「お戻りか。帝妃付きの占い師殿」
続いて方々から、くすくすと笑いが落ちる。
「やれやれ。陰陽師が女御さまの御機嫌伺い、とは」
「方違えの算は合ったのかね」
「まさか、涙に釣られて占形を曲げたのではあるまいな」
「否々、女同士のことは女陰陽師どのにお任せするのが一番だろう。……恋占いに物忌み、夢見の吉凶。実に似つかわしい」
文子は返事をしなかった。
返せば、向こうは喜ぶ。
怒れば、やはり女には務まらぬと言う。
黙れば、気位ばかり高いと笑う。
どこへ立っても、すでに足元へ罠が敷かれている。
才ある者は、性別ではなく実力で扱われるべきではないだろうか。
陰陽道も方術も、後宮の言い訳に使うための飾りではない。
女陰陽師などと殊に呼ばれる前に、文子はただ正式な陰陽師として扱われたかった。
「卜占の道具をお返しします」
文子は包みを机へ置きながら、なるべく感情を見せず平坦に言った。
後宮へ向かう前、念のため借り受けたものだ。
持って行ったところで、梅壺の愁訴には大仰に過ぎた。
あれは怪異などではなく、寵をもう一晩引き延ばすための一芝居だったのだろうと、文子は結論付けていた。
「後ほど占状を書き起こし、陰陽允さまへご報告いたします」
「ほう。女御さまの泣き言にも、立派な占状が要るのか。ははは」
隣席の陰陽助は筆を止めもせず、独り言のように笑った。
独り言であれば、聞き咎める方が狭量ということになる。
そういう逃げ道まで、きちんと用意された嘲りだ。
しかし、女御の泣き言などと一笑に付すとは、それにしても陰陽師のすることではない。
怪異は嘲った隙間から入り込む。
恐れ過ぎてもならぬが、侮ってもならない。
それに思い至らない者が、よくも陰陽寮の机に座っていられるものだ、と文子は思った。
けれど、ただ聞こえなかった振りをしてやり過ごす。
食い付けば、この陰陽寮の男どもは喜ぶ。
怒れば、やはり女には陰陽師など務まらぬと言い出すに決まっている。
「物の怪とも付かぬものを目撃されたとか。念のため、亀甲と卜竹、それから星盤をお借りしたいのですが」
「……困ったな」
陰陽助が顔を上げた。
困った顔ではなく、待っていた言葉を聞いた顔だった。
「今日は大きな占事が入っていてな。主上の御前へ上げる御占だ。余分な什器はないと聞いたが」
「一組も?」
「帝妃の御機嫌取りに貸す道具はない、という意味じゃないですかね」
別の男が、わざとらしく音を立てて筆を置いた。
それから墨のついた筆先を硯の縁でゆっくり整え、こちらの方を見もせずに笑う。
いずれも、その重大な占事とは無関係な下っ端のくせに、と文子は心の中で毒付いた。
「夢見だの恋占いだの、後宮の姫君相手には卜占で十分でしょう」
「女と契る鬼神があるものか」
「女の尻に敷かれ、唯々諾々と従う式神など、お笑い種だ」
誰かが肩を揺らして嗤う。
占状帳をめくる音の向こうで、くつくつとした声が漏れ聞こえて来た。
「初の女陰陽師、でしたっけ」
「中務宮もお優しい方だ。巫女遊びのためにお取立てになるとは」
「近頃は市井の唱門師だの声聞師だの、血筋さえも問わず拾い上げなさるからなあ」
下賤な者であったり。
女であったり、と、そう言いたいらしい。
胸の内側が、じりと焼けた。
式神契約をしてくれる鬼神があるものか。
何度も言われてきた言葉だった。
文子が陰陽寮へ入ってから、男たちは事あるごとにそれを口にした。
女の身で陰陽寮へ入ったところで、鬼神が認める筈もない。
式神を持たぬ陰陽師など、筆のない書家、弓のない武人と同じだ、と。
修験を積んだ高位の霊力者であれば、什器を用いずとも指先一つで九字を切る。
式神を持たぬのであれば、そのように占いも祓いも済ませてみせよ。
そういった突き放しを感じる。
任官された当初、文子は気負って直衣を纏っていた。
男たちと同じ場に立つのだと、肩に力を入れていた。
それが、まず気に障ったのだろう。
女の身体を無理に男の衣へ押し込めたようだと、陰で笑われた。
直衣の袖を揺らして歩くだけで、誰かが咳払いに紛れて笑った。
同じ衣を纏えば同じ場所に立てると思ったのか、と。
今は白衣に緋袴の巫女装束へ改めている。
そうすればそうしたで、また笑われた。
それなら初めから巫女にでもなればよかったものを、と。
おや、とうに処女を失くした身でいらしたか。
ならば神前に仕えるには、差し障りがありましょうね――
などと、根も葉もない囁きまで添えられた。
だが、諦めたわけではない。
文子は唇を引き結んだ。
ここで食い下がれば什器を笠に、こちらを痛ぶって愉しむ男たちの思う壺だ。
もしくは、競争意識でもあるのだろうか。
そう考えた方が精神衛生上、ずっといい。
「では、結構です」
あっさり引くと、男たちの目が僅かにつまらなさそうに動いた。
「後宮の小さな騒ぎで、大きな占事に用いる什器を奪う訳には参りません。――そう申し渡されたと、占状にも明記しておきますわ」
男たちの笑みが、そこで少し固まった。
よもや、自分たちの名まで記載されやしまいか、と。
文子は帳面を抱え直した。
くだらない保身など考えるくらいなら、初めから絡んでこなければいいじゃない。
貸さぬなら、それでよい。私のせいじゃないもの。
ただし、貸さなかった事実まで消せると思わない方が身の為よ。
確かに後宮付きの役目を果たすのに、当座さほど困ってはいなかった。
物忌みも方違えも、後宮の姫たちが欲しがるのは、真実よりも体裁だ。
夜に星の位置と暦、方角の吉凶、それから夢見の古い例を紐解けば、ひとまず形は整う事案ばかりだ。
それに、文子には初めから観えぬものがある。
自分の未来に関わるものは、一切観えない。
今の文子には後宮で起こることの多くが霧に沈んでいた。
自分が渦中にいる以上、見通せるものは限られていたのだ。
だから、今回の左遷の先で何が待つのかも判らなかった。
他人の運勢なら、兆しの端を拾えることがある。
夢に残った翳り、方角に生じた歪み、物の怪が通ったあとの冷え。
そうしたものなら、時折指先へ引っかかる。
けれど、自分の行く先だけは違う。
どれほど目を凝らしても、そこだけが深い霧の奥へ沈む。
早いところ、知己の華族の姫が多く住まう、あの面倒な七殿五舎から解き放ってほしい。
そう思うほどに、後宮は文子の洞見の異能を鈍らせる。
文子は一礼だけして、男たちに背を向けた。
自分の机へ戻ると、袖を整え、硯の横に新しい料紙を置く。
筆先を墨に含ませ、余分な雫を硯の縁で払い、陸で穂先を整える。
それから躊躇いなく一行目を書きつけた。
――梅壺女御、帝の御寝所にて黒き影を見たりとの訴えあり。
笑いたければ笑えばいい。
記録に残るのは、笑い声ではなく文字の方だ。
什器を貸さぬなら、それでもよい。
見たいものは、目の前に山ほどある。
女御の嘘。
後宮の噂。
陰陽の名を都合よく使う者たち。
今は観えぬ未来を追うより、目の前の事実を検める方が早い。



