文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

「これは、……文子(あやこ)姫!」

 人垣の奥から、梅壺(うめつぼ)が鋭く言い放った。

 女房たちの視線が、一斉に集まる。
 巫女装束の白と緋袴の文子へと。

 庭の白砂に置かれた呪いの人形。
 その首と手足に巻かれた赤い糸。

 色が、(いや)になるほど揃っていた。

 待っていたのだ。

 この雛人形と、赤い糸と、赤土。
 それらを、文子(あやこ)の装束と術へ結び付ける瞬間を。

 梅壺(うめつぼ)御簾(みす)の奥で高く扇を持ち上げた。
 薄い骨の先が、まるで白砂の上の呪物を指すように揺れる。

「陰陽師さまでしたら、(じゅ)の技も容易いことでございましょうね」

 庭に居並ぶ女房たちまで届く、澄んだ調子だった。
 美しい言葉だった。
 だからこそ、白砂へ落ちた墨のように、疑いがじわりと広がっていく。

 文子(あやこ)は答えなかった。

 焦れば、図星。
 笑えば、不遜。
 黙れば、認めたように見える。

 いつも通り、足許には罠ばかりだ。

「このような呪物を作れる者が、後宮に何人いるでしょう」

 梅壺(うめつぼ)の扇が、文子へ向く。
 御簾(みす)の向こうからでも、その目が笑っていないことは判った。

「……呪物を作れることと、行うことは別でございます」

 文子(あやこ)は、声を荒らげなかった。
 荒らげた瞬間、梅壺の望む形になる。

 だから、一音ずつ置いた。
 庭の白砂へ、退かぬための杭を打つように。

 梅壺の扇が、ぱちりと鳴る。

「まあァ。では、作れることはお認めになるのね」

(じゅ)の形を知っている者は、それを(あらた)めるために知っているのです。刀を知る者が、皆、人を斬るわけではございません。……それに、この白い人形からは、どうにも(まじな)いの気配が薄い」
「けれど、あなたは鬼神の宮を赤い糸で結んだのでしょう」

 弘徽殿が、梅壺の言葉を継ぐように言った。

 なぜ、それを知っている。

 文子の胸に(よぎ)った問いへ、御簾の奥から答えが落ちる。

「式神婚の逸話くらい、わたくしも存じておりますわ」

 文子(あやこ)の手首が、袖の下で熱を持った。

 式合わせの白砂の上では、夜燈(やと)の角が見える者と、見えない者がいた。
 ならば、神仙の血が残る宮家の姫である弘徽殿には、苧環(おだまき)の糸が見えていたのか。

 あるいは――。
 局を(あらた)められた。

 そう考えた瞬間、腹の底が冷えた。

 赤土も、苧環(おだまき)も、ただ盗まれたのではない。
 文子(あやこ)が鬼神を捕らえるために何を用いたか、その痕跡を探されたのだ。

 迂闊(うかつ)だった。
 夜の鬼神にばかり気を取られ、昼の後宮に潜む手を見落としていた。

「皇統に近き宮を従え、鬼を封じ、式神として呼んでみせた」

 弘徽殿は、ゆるりと扇を伏せた。

「次は御子(みこ)を封じるお心算(つもり)だったのね」

 普段は争いの矢面に立たぬ藤壺(ふじつぼ)が、そこで口を開いた。

 梅壺(うめつぼ)のように感情を荒立てない。
 弘徽殿(こきでん)のように格で押し切るのでもない。
 ただ、文子(あやこ)が最も否定しにくい形へ、疑いの輪郭を整えて差し出してくる。

 やっていないことを、やっていないと訴えるほど、言葉は弱くなる。
 証を持たぬ否定は、相手の疑いを濃くするだけだ。

 それでも、言わずに居られなかった。

「わたくしは、そのようなことはいたしません」
「――どうしたら信じられるというのです?」

 梅壺が、御簾(みす)の奥で身を乗り出した。

 隣で志乃(しの)が、そっと文子の袖を握る。
 大丈夫か、とでも問いたげな指だった。

「姫宮でも女御でも更衣でもない」

 誰かが言った。

典侍(ないしのすけ)でもない」

 また別の誰かが継いだ。

「後宮の女ですらない」
「妻でもない」
「母でもない」

 扇の陰で、薄く笑う気配がした。

「それなのに」
「なぜ、あなたが皇統の鍵になるの」

 それらは、最早一人の言葉ではなかった。

 御簾(みす)の奥に座す女たち。
 その背後に控える女房たち。
 更にその背後で、長く選ばれ、比べられ、待たされ、焦らされてきた女たちの澱み。

 後宮の底に沈んでいた悪意が、一斉に文子(あやこ)へ向きを変えたのだ。

 帝の寵を得ても、皇子(みこ)を得られぬ姫たち。
 美しさも血筋も教養も捧げながら、なお足りぬと値踏みされる女たち。
 選ばれたはずなのに、次の姫が入内(じゅだい)するたび、昨日の寵さえ疑わねばならぬ者たち。

 その焦りが、妬みが、恥が、文子へ押し寄せる。

 なぜ、お前なのか。
 なぜ、后妃でもないお前が、鬼神の宮を従えるのか。
 なぜ、子を産むでも、帝に召されるでもないお前が、皇統の行く末へ手を届かせるのか。

 問いの形をしているが、答えなど求めていない。
 文子(あやこ)を異物として、この断罪の白砂の上へ縫い止めるための言葉だった。