文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 その騒ぎが起きたのは、翌朝のことだった。

 文子(あやこ)志乃(しの)と朝餉を摂っていると、女房の鋭く短い悲鳴が上がった。
 淑景舎と昭陽北舎の間にある中庭の方角だ。

 箸を持っていた志乃の手が止まる。

「……今の」
「淑景舎の方ね」

 文子(あやこ)が膳から顔を上げるより早く、廊の向こうが騒がしくなった。
 衣()れ、走る足音、何かを押し殺したような女房たちのざわめき。

 やがて昭陽北舎付きの命婦(みょうぶ)が、几帳の端から顔を覗かせた。
 いつもの礼を整える余裕もないらしい。

「志乃さま、文子(あやこ)さま」
「何事?」

 志乃が立ち上がりかけた。

「淑景舎の前で、女房が一人倒れました」
「物の()?」

 文子(あやこ)は反射的に問うた。
 命婦(みょうぶ)はかぶりを振った。

「いいえ。朝ですから。……見つかったのは、桐壺さまの雛人形でございます」
「あの()が飾ってる嫁雛がどうしたの?」
「いいえ。朝の光の下で、怪しい影も気配も見えなかったそうです。……見つかったのは、桐壺(きりつぼ)さまの雛人形と……」

 そこで女房は言い(よど)んだ。
 口にすれば、自分までその(けが)れに触れるとでもいうように。

「雛人形がどうしたの?」

 志乃(しの)が眉をひそめる。
 続きを急かす目つきになっていた。

 桐壺(きりつぼ)更衣が、後宮に入ってからも雛を飾っていることは、女房たちの間でも知られていた。

 まだ幼いところを残す姫だ。
 如月(きさらぎ)に入るとすぐ、入輿(にゅうよ)と共に運ばせた大切な雛を、御帳台(みちょうだい)の脇へ小さな御殿のようにしつらえたという。

 今日は冠を直した。
 今日は()の色を替えた。

 帝の寵を一身に集める、今をときめく更衣が、そのようなことで裳着(もぎ)前の姫のような顔をしていたと聞いている。

 文子(あやこ)矢庭(やにわ)に立ち上がった。

「まさか、雛の髪でも……伸びていたの?」
「それが……」

 女房は唇を(ふる)わせた。
 ただの怪異なら、まだ噂話で済んだだろう。
 髪が伸びた、目が動いた、夜中に衣擦れがした。

 その程度なら文子(あやこ)が呼び付けられれば済む話だ。

 命婦(みょうぶ)はそこでまた、言い(よど)んでいた。
 言えば、ただの騒ぎでは済まなくなると判っている顔だった。

「その雛には、赤い糸が巻かれているとのことです。首と、両の手首に」

 赤い糸。
 その一言で、文子(あやこ)の背筋に嫌な冷えが走った。

 雛。
 呪い。
 淑景舎。
 そして、赤い糸。

 すぐさま自分の局へ戻った。
 文机の抽斗(ひきだし)を開ける。

 赤土を包んだ料紙がなくなっていた。
 細く巻いておいた苧環(おだまき)もない。

 やられた。
 喉の奥が、ひりついた。

 鬼神を捕らえるために用いたものだ。
 夢と(うつつ)の境を渡った、あの夜の証。
 文子と夜燈(やと)を結ぶ道標(みちしるべ)に使った糸。
 それが、誰かの手で持ち去られている。

 文子は抽斗(ひきだし)を閉めた。

 怒りより先に、冷えたものが通る。
 これはただの嫌がらせではない。
 文子(あやこ)が何をどう使ったかを、誰かが知っている。

 志乃と淑景舎の前へ向かうと、白砂の庭は女房で埋まっていた。

 殿上の御簾(みす)の内には、すでに四帝妃も揃っている。
 気位高い弘徽殿、涼やかな藤壺、艶やかな梅壺、幼さの残る桐壺。
 それぞれの殿舎を背負う姫たちが一堂に会しただけで、淑景舎の前は公卿座(くぎょうざ)にも似た重みを帯びていた。