文子は目を閉じた。
耳元へ注がれる熱を待つように、息が浅くなる。
怖い。けれど、聞きたい。
己が禁じている筈の胸の奥さえも、その名を欲しがっていた。
次の真名は、誰にも渡してはならない。
女房にも、帝妃にも、陰陽寮にも。
この世の神仙にも、鬼にも。
文子のみに許された名。
夜燈は、耳元にそれを囁いた。
「――」
音になった瞬間、文子の背筋を熱が走った。
夜燈という式名の奥で、閉ざされていた扉が開く。
闇に沈んでいたはずのものが、眩しいほどの光を帯びて、文子の内側へ差し込んでくる。
かつて母宮に抱かれ、兄弟宮たちと並んで月を見た頃に、輝く皇子として呼ばれていた名。
荒魂でも鬼神でもない、人として生まれた夜燈の真名。
文子は、その名を胸の奥へ沈めた。
「これで良い……」
夜燈は低く呻くように言った。
そのまま、自分に繋がれた文子の左手首へ目を落とす。
文子の以前触れられた喉が、思わず鳴りそうになった。
問いは心の内にまだ渦巻いていた。
式神契約の作法。
皇統に残る神仙の血。
荒魂と和魂のこと。
けれど夜燈の指が、巫女装束の袖口へ触れた瞬間、どれも遠くへ退いた。
文子は思わず身を引いた。
逃げたのではなく、ただ正面から瞶められていることに耐えきれなかった。
だが、夜燈はその退路まで読んでいたように、文子の横を過ぎた。
文子の緋袴の裾が畳を擦る。
次の瞬間、背後に熱が立った。
「……夜燈さま」
「逃げるなら、そちらではない」
背中から抱きすくめられた。
強くはない。
逃げようと思えば逃げられるはずの腕だった。
けれど背に触れる男の熱と、耳元に落ちる息と、左手首を包む指の感触が、文子の身体から逃げる力を奪っていく。
肩の向こうから、夜燈の黒髪が落ちた。
濡れた土と夜香の匂いが、首筋のすぐ傍にある。
前には誰もいない。
それなのに、どこにも逃げ場がなかった。
「俺を結ぶのだろう」
夜燈の手が、文子の左手首を持ち上げた。
背後から導かれる形で、手首から指先へ熱が移っていく。
文子の指が夜燈の掌に収まった。
まるで最初からそこへ結ばれるためにあったように、ぴたりと閉じ込められる。
そして、夜燈の指が文子の指の間へ入り込んだ瞬間、そのすべてが遠くなる。
甲と掌とが合わさる。
指が絡む。
背後から包まれているせいで、自分の手なのに自分のものではないようだった。
文子は、自分の中のどこか深い場所を開かれた気がした。
「あとは……」
夜燈の唇が、もう一度文子の耳元へ近付いた。
言葉が落ちる前から、文子には判っていた。
それでも、逃げられなかった。
「こうして、契るだけだ」
耳元へ注がれる熱を待つように、息が浅くなる。
怖い。けれど、聞きたい。
己が禁じている筈の胸の奥さえも、その名を欲しがっていた。
次の真名は、誰にも渡してはならない。
女房にも、帝妃にも、陰陽寮にも。
この世の神仙にも、鬼にも。
文子のみに許された名。
夜燈は、耳元にそれを囁いた。
「――」
音になった瞬間、文子の背筋を熱が走った。
夜燈という式名の奥で、閉ざされていた扉が開く。
闇に沈んでいたはずのものが、眩しいほどの光を帯びて、文子の内側へ差し込んでくる。
かつて母宮に抱かれ、兄弟宮たちと並んで月を見た頃に、輝く皇子として呼ばれていた名。
荒魂でも鬼神でもない、人として生まれた夜燈の真名。
文子は、その名を胸の奥へ沈めた。
「これで良い……」
夜燈は低く呻くように言った。
そのまま、自分に繋がれた文子の左手首へ目を落とす。
文子の以前触れられた喉が、思わず鳴りそうになった。
問いは心の内にまだ渦巻いていた。
式神契約の作法。
皇統に残る神仙の血。
荒魂と和魂のこと。
けれど夜燈の指が、巫女装束の袖口へ触れた瞬間、どれも遠くへ退いた。
文子は思わず身を引いた。
逃げたのではなく、ただ正面から瞶められていることに耐えきれなかった。
だが、夜燈はその退路まで読んでいたように、文子の横を過ぎた。
文子の緋袴の裾が畳を擦る。
次の瞬間、背後に熱が立った。
「……夜燈さま」
「逃げるなら、そちらではない」
背中から抱きすくめられた。
強くはない。
逃げようと思えば逃げられるはずの腕だった。
けれど背に触れる男の熱と、耳元に落ちる息と、左手首を包む指の感触が、文子の身体から逃げる力を奪っていく。
肩の向こうから、夜燈の黒髪が落ちた。
濡れた土と夜香の匂いが、首筋のすぐ傍にある。
前には誰もいない。
それなのに、どこにも逃げ場がなかった。
「俺を結ぶのだろう」
夜燈の手が、文子の左手首を持ち上げた。
背後から導かれる形で、手首から指先へ熱が移っていく。
文子の指が夜燈の掌に収まった。
まるで最初からそこへ結ばれるためにあったように、ぴたりと閉じ込められる。
そして、夜燈の指が文子の指の間へ入り込んだ瞬間、そのすべてが遠くなる。
甲と掌とが合わさる。
指が絡む。
背後から包まれているせいで、自分の手なのに自分のものではないようだった。
文子は、自分の中のどこか深い場所を開かれた気がした。
「あとは……」
夜燈の唇が、もう一度文子の耳元へ近付いた。
言葉が落ちる前から、文子には判っていた。
それでも、逃げられなかった。
「こうして、契るだけだ」



