文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 板敷(いたじき)が、ぎしりと鳴った。

 来たのだ――
 そう思った瞬間、身体の熱が先に応えてしまった気がする。

 今夜の気配は、鬼神よりも人に近かった。
 御簾(みす)の端が動き、一人の男が入って来る。

 角はない。
 少なくとも、今夜の文子(あやこ)の目には見えない。

 整った顔。長い黒髪。
 宮中(きゅうちゅう)の男として整えられた姿。
 濡れた土と夜香(やき)の気配。

「……中務宮(なかつかさのみや)さま」
夜燈(やと)でいい」
「呼び捨てにできる方ではございません」
「ならばこれまで通り、鬼神と呼ぶか」

 文子(あやこ)は答えなかった。

 人間の男として近付いて来る。
 夜燈(やと)は几帳の影を越え、文子(あやこ)の前へ胡坐(あぐら)をかいて座った。
 それは角を(いただ)く鬼神としての(おとな)いよりも始末が悪いと思ってしまう。

「……とうとう、誰かから聞いたか」
夜燈(やと)さま」

 口に乗せてみると、その名は甘かった。
 夜ごと(とも)るものの名を呼ぶようで、舌に残る響きまで熱を持つ。

夜燈(やと)さまが、次の皇位継承者でもあられる、かもしれない、と」
「そうだな」

 夜燈(やと)の言い方は、遠い庭に降る雨を、軒下から眺めているかのようだった。

 それは無関心ではない。
 あまりに長く、あまりに多く、勝手な願いを被せられてきた者の倦怠(けんたい)だ。
 待っても降りやまず、自らの手で如何ともしがたい雨の内に閉じ込められた者の諦念(ていねん)だ。