その午後は、ずっと気が晴れなかった。
皇統。
その二文字が、昼の間から文子の心底へ沈んでいる。
華族の娘として生まれた以上、皇統へ近付くことの意味くらい知っていた。
宮家の血に連なり、次の御代の傍へ名を置くこと。
女として、家として、これ以上ない栄えだと教えられてきた。
けれど、文子が欲しかったのは、それではない。
夜燈が先帝の皇子だから、手首の熱を手放せぬのではない。
皇嗣に擬せられるかもしれぬ宮だから、夢の奥から来る足音を待ってしまうのでもない。
まして、皇統へ触れる鍵として己を高く売るために、あの鬼神を結んだのではなかった。
初めに欲したのは、式神だった。
女陰陽師などと嗤う男たちを黙らせる証。
後宮付きの占い師という都合のよい札へ押し込められた自分を、もう一度、陰陽師として立たせる力。
そのために、夢の中の鬼神へ糸を投げた。
式合わせに鬼神は現れた。
陰陽寮の男たちは、白砂の上で一様に驚きを見せた。
ならば、本懐は遂げた筈だった。
それなのに、文子は勝った気がしない。
夜燈は、ただの力でも、手柄でもなかった。
鬼神であり、宮であり、そして生身の男だった。
このまま関われば、皇統に触れる。
後宮の姫たちからは忌み嫌われ、陰陽寮からの目も更に険しくなるだろう。
あの者たちは、夜燈の荒魂が暴れ出した時に備える監視役でもある。
その宮を、女陰陽師が式として結び、しかも彼自身が文子に手綱を預けようとしている。
そんなものを、陰陽寮が見逃す筈もない。
立場など、とうに危うい。
これ以上踏み込めば、後宮付きの占い師という仮の居場所さえ失うかもしれない。
それでも。
荒魂を怖れながら、文子に手綱を預けようとする鬼神。
嫌われ役になった文子を、後宮を物の怪から救っている、と数えた男。
女として傅かせようとするのではなく、陰陽師として試し、主として求めてくる式神。
欲しいのは、皇統ではない。
そう言い切れる。
けれど、では何が欲しいのかと問われたなら、まだはっきりとは答えられない。
鬼神と呼ぶには、あの人の名が、もう心の奥で灯りになっている。
宮さまと呼ぶには、手首の熱が生々しすぎる。
式神と呼ぶには、近すぎる。
夜になっても、眠りは訪れなかった。
灯りを落としても、心底へ沈んだ二文字は消えない。
左の手首を押さえる。
赤土の苧環の糸は見えない。
けれど結び目の熱はある。
夜毎、その熱は深くなる。
夢と現の境を越えて触れられるたび、文子の中で何かが解けていく。
鬼神を式神にしたい。
陰陽師として認められたい。
その願いは変わらない。
けれど、それのみではなくなりつつある。
皇統の傍に立たされ、誰かの鎖や鍵として祀り上げられることを知りながら、すべてが自分の思い通りにならない中でも、夜燈を、皇統ではないところで欲しいと思い始めている。
怖いと知りながら、手放す方がもっと怖くなっている。
まだ誰にも見せたことのない文子が、自分の中にいる。
文子自身さえ知らなかった文子が、夜燈に触れられる度に、目を覚ましそうになっていることの方が、ずっと怖かった。
皇統。
その二文字が、昼の間から文子の心底へ沈んでいる。
華族の娘として生まれた以上、皇統へ近付くことの意味くらい知っていた。
宮家の血に連なり、次の御代の傍へ名を置くこと。
女として、家として、これ以上ない栄えだと教えられてきた。
けれど、文子が欲しかったのは、それではない。
夜燈が先帝の皇子だから、手首の熱を手放せぬのではない。
皇嗣に擬せられるかもしれぬ宮だから、夢の奥から来る足音を待ってしまうのでもない。
まして、皇統へ触れる鍵として己を高く売るために、あの鬼神を結んだのではなかった。
初めに欲したのは、式神だった。
女陰陽師などと嗤う男たちを黙らせる証。
後宮付きの占い師という都合のよい札へ押し込められた自分を、もう一度、陰陽師として立たせる力。
そのために、夢の中の鬼神へ糸を投げた。
式合わせに鬼神は現れた。
陰陽寮の男たちは、白砂の上で一様に驚きを見せた。
ならば、本懐は遂げた筈だった。
それなのに、文子は勝った気がしない。
夜燈は、ただの力でも、手柄でもなかった。
鬼神であり、宮であり、そして生身の男だった。
このまま関われば、皇統に触れる。
後宮の姫たちからは忌み嫌われ、陰陽寮からの目も更に険しくなるだろう。
あの者たちは、夜燈の荒魂が暴れ出した時に備える監視役でもある。
その宮を、女陰陽師が式として結び、しかも彼自身が文子に手綱を預けようとしている。
そんなものを、陰陽寮が見逃す筈もない。
立場など、とうに危うい。
これ以上踏み込めば、後宮付きの占い師という仮の居場所さえ失うかもしれない。
それでも。
荒魂を怖れながら、文子に手綱を預けようとする鬼神。
嫌われ役になった文子を、後宮を物の怪から救っている、と数えた男。
女として傅かせようとするのではなく、陰陽師として試し、主として求めてくる式神。
欲しいのは、皇統ではない。
そう言い切れる。
けれど、では何が欲しいのかと問われたなら、まだはっきりとは答えられない。
鬼神と呼ぶには、あの人の名が、もう心の奥で灯りになっている。
宮さまと呼ぶには、手首の熱が生々しすぎる。
式神と呼ぶには、近すぎる。
夜になっても、眠りは訪れなかった。
灯りを落としても、心底へ沈んだ二文字は消えない。
左の手首を押さえる。
赤土の苧環の糸は見えない。
けれど結び目の熱はある。
夜毎、その熱は深くなる。
夢と現の境を越えて触れられるたび、文子の中で何かが解けていく。
鬼神を式神にしたい。
陰陽師として認められたい。
その願いは変わらない。
けれど、それのみではなくなりつつある。
皇統の傍に立たされ、誰かの鎖や鍵として祀り上げられることを知りながら、すべてが自分の思い通りにならない中でも、夜燈を、皇統ではないところで欲しいと思い始めている。
怖いと知りながら、手放す方がもっと怖くなっている。
まだ誰にも見せたことのない文子が、自分の中にいる。
文子自身さえ知らなかった文子が、夜燈に触れられる度に、目を覚ましそうになっていることの方が、ずっと怖かった。



