残された紬路もまた、常とは違う様子だった。
東宮妃として、内裏に巡るものを察している姫の顔だった。
「文子。……淑景舎に呼ばれたのですってね。先刻志乃から聞いたわ」
「お陰で、すっかり後宮の嫌われ役よ」
「――違うわ。志乃は関係ないのよ。怒っては可哀想だわ」
紬路は、文子が打ち捨てた扇を拾い上げた。
骨の乱れを指先で直し、それを膝へ置いてから座る。
「あなたは、皇統の傍に立ったの」
あまりに意外な言葉に、文子は返す言葉を失った。
「夜燈さまは、先帝の皇子よ」
その意味が、少し遅れて形を取る。
先帝の皇子。
ただの宮筋ではない。
今上に連なる、皇統の真ん中に近い血だ。
「今上の弟宮で、わたくしの東宮より一つ年上」
息が、喉の奥で止まった。
尚彰東宮殿下より、年上。
それならば本来、順としては夜燈親王が先に名を挙げられる筈だ。
文子の知らぬところで、夜毎枕元に忍んで来る男の意味が変わっていく。
「……どういうこと? では、なぜ東宮に立たれなかったの」
言ってから、文子は己の問いが踏み込み過ぎていることに気付いた。
だが、もう引けなかった。
紬路は扇を伏せたまま、暫く文子を見ていた。
もはや親友の顔ではなく、東宮妃として、慎重に言葉を選ぶ顔になっていた。
「御腹が、皆さま違っていらっしゃるの」
その一言で、局の空気が重くなった。
同じ先帝の皇子であろうと、母の出身が違えば、背負うものが違う。
皇子の本当の価値は、父の血ではなく、母の血で決まるのだ。
「夜燈さまだけ、女御腹ではなく宮腹なの。父は先帝、母も内親王。……つまり、父方も母方も尤も皇統の中心に近いお方よ」
文子の手首が、じんと熱を持った。
苧環の結び目が、肌の奥で反応したようだった。
「神仙の血が、人の器に収まりきらぬほど濃く出たの」
それはつまり、ただ高貴という話ではない。
人の血に、人ではないものの血が混じる。
その血に残る神仙が近すぎて、かえって人に畏れられているのだ。
――お前が俺を御し、和魂を保て。
――荒魂を抱えたまま和魂を勝らせることができれば、俺の神格は増す。
夜の御簾の内に聞いた夜燈の言葉が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
「神仙の血が、人の持つ荒魂と混じると、和魂を保つことが何より大切らしいの」
紬路の言葉は、物憂げに沈んでいた。
宮中で長く伏せられてきたものへ触れる怖さと相まって、その一言は奇妙に重く響いた。
「荒魂が勝れば、神ではなく鬼に近付く。……だから鬼神でもあり、式神でもあらせられるのよ」
それも、あの夜の夜燈の言葉と符号が合っていた。
文子は式合わせの日の姿を思い出した。
見える者には二本の角。
見えぬ者には高貴な文官。
同じ男を前にしながら、場は別々の姿を見ていた。
つまり見える者には、皇統に残る古い神仙の血があるのだ。
文子にはまだ夜の夢の中での交わりでしか見えない、角――
夜燈親王という男そのものが、そういう存在なのだ。
「本来なら、東宮に擬せられてもおかしくなかったお方よ。……けれど、鬼に堕ちるやもしれぬと恐れられた」
紬路の言葉の後で、局の空気が一段重く沈んだ。
「今は、陰陽寮を束ねる中務省に身を置かれているわ。鬼神として陰陽の力を揮うことはできる。けれど、見方を変えれば、あれは衆人環視の座なの」
「衆人環視……」
「ええ。いざ荒魂が勝れば、陰陽寮の者が総がかりで相対できるように。宮さまは大きな権力を任されながら、見張られてもいるのよ」
文子は動けなかった。
漸く判って来た。
自分はただ、鬼神を呼んだのではない。
東宮に立ち得た男を、白砂の上へ呼び出したのだ。
――そして、その皇統の血を御せる女陰陽師として、皆の前に立ってしまった。
文子の手首が熱を持つ。
昼間は見えない苧環の結び目が、先程から何かに応えるように疼いている。
「これは、成る丈広く人の耳へ入れないで欲しいのだけれど」
紬路は一度、言葉を切った。
それは友人の顔でも、東宮妃の顔でもない様子だった。
もっと奥にある、誰にも見せたくない痛みを、どうにか整えている顔。
「今、皇統には儲けの君を得られない呪いが掛けられているようなの」
文子は息を呑んだ。
言われてみれば、その通りだった。
弘徽殿も、藤壺も、梅壺も。
まだ御子に恵まれていない桐壺も、おそらくは。
「今上の妃たちにも、内親王ばかりお生まれになったでしょう。その頃から徐々に呪いが増して……」
帝の寵を競い、実家の期待を背負い、次こそは皇子を、と望まれてきた姫たち。
「右大臣家は、もう梅壺さまを見限りかけている。何をするか判らないわ」
紬路の目元が、ほんの少し歪んだ。
「いえ、そこまで言うのは可笑しいのかしら。次に立つ皇子がどなたになるか、皆して探っているのよ。今上に皇子が生まれないのなら、わたくしの今東宮が帝にお成り遊ばされたとき、次の東宮はもう判らない。……別の宮かもしれない」
「別の宮……」
「つまり、夜燈さまよ」
文子の手首が、また熱を持った。
苧環の糸が、見えないまま引き締まる。
それは道標の筈だったが、今は皇統の首へ掛けられようとしているもののように思えた。
「東宮殿下とわたくしは、……桐壺さまと同様に、呪いが特に強くなってからの入侍だから、御子に恵まれないの……」
紬路は、そこまで言って目を伏せた。
「そうなれば、弟宮より、兄宮を先に帝へ推そうという流れが出ても、可笑しくはないわ」
文子は言葉を失った。
慰めるには重すぎ、問い返すには、紬路の傷へ踏み込みすぎる事柄だった。
「陰陽師であるあなたなら、鬼神の荒魂を鎮めながら、種絶の呪いを打ち破れると期待している者は多いわ。……皇統すべてが失われることを怖れて」
文子は弾かれたように顔を上げた。
「呪いがあると判っているなら、なぜ今まで祓えなかったの」
「判っていることと、触れられることは違うわ」
紬路は、伏せていた扇を膝の上で握り直した。
「種絶の呪いは、皇統の血に絡んでいるの。下手に断てば、呪いだけでなく、皇統そのものを傷つける。だから陰陽寮の者たちも、外から検めることしかできなかった」
文子の手首が、じんと熱を持った。
赤土の苧環。
夜ごと夢の奥から近付いて来る鬼神の道標。
その先にいる男が、急に遠いものに思えた。
「けれど夜燈さまは皇統の血を持ち、神仙の血も濃い。あなたは、その夜燈さまの荒魂を鎮められるかもしれない。……だから、あなたは鍵なのよ」
「鍵……」
「ええ。呪いを断つための鍵であり、夜燈さまを皇統へ戻すための鎖でもある」
その言い方に、文子は息を止めた。
鎖。
鍵。
どちらも、夜燈を自由にするための言葉ではない。
「だからこそ、今、淑景舎にいらっしゃる四帝妃は結託したの。立場は違えど、皆、同じ帝に添う身でしょう。あちらはあちらで、恐れているのよ」
「わたくしを?」
「ええ。夜燈さまが担ぎ上げられれば、帝妃たちの時勢が傾く。主上の寵を競っていた筈が、突如足元を掬われて、次の御代の陰に追いやられるかもしれない」
文子は、すぐには頷けなかった。
呪いを解くことは、正しい。
皇統を守ることも、陰陽師として正しい。
けれどその正しさが、後宮の女たちにとっては、自分たちの明日を奪う刃になる。
文子も知らぬ間に、そういう場所へ立たされていた。
「夜燈さまを皇嗣に擬する者たちにとって、あなたは必要な姫なの。けれど帝妃たちにとっては信用ならない姫でもある」
未だ生まれぬ皇子。
陰の気と陽の気を合わせる陰陽術により、生まれるかもしれない皇子。
そのどちらのためにも、文子は望まれ、怖れられ、祀り上げられていたのだ。
東宮妃として、内裏に巡るものを察している姫の顔だった。
「文子。……淑景舎に呼ばれたのですってね。先刻志乃から聞いたわ」
「お陰で、すっかり後宮の嫌われ役よ」
「――違うわ。志乃は関係ないのよ。怒っては可哀想だわ」
紬路は、文子が打ち捨てた扇を拾い上げた。
骨の乱れを指先で直し、それを膝へ置いてから座る。
「あなたは、皇統の傍に立ったの」
あまりに意外な言葉に、文子は返す言葉を失った。
「夜燈さまは、先帝の皇子よ」
その意味が、少し遅れて形を取る。
先帝の皇子。
ただの宮筋ではない。
今上に連なる、皇統の真ん中に近い血だ。
「今上の弟宮で、わたくしの東宮より一つ年上」
息が、喉の奥で止まった。
尚彰東宮殿下より、年上。
それならば本来、順としては夜燈親王が先に名を挙げられる筈だ。
文子の知らぬところで、夜毎枕元に忍んで来る男の意味が変わっていく。
「……どういうこと? では、なぜ東宮に立たれなかったの」
言ってから、文子は己の問いが踏み込み過ぎていることに気付いた。
だが、もう引けなかった。
紬路は扇を伏せたまま、暫く文子を見ていた。
もはや親友の顔ではなく、東宮妃として、慎重に言葉を選ぶ顔になっていた。
「御腹が、皆さま違っていらっしゃるの」
その一言で、局の空気が重くなった。
同じ先帝の皇子であろうと、母の出身が違えば、背負うものが違う。
皇子の本当の価値は、父の血ではなく、母の血で決まるのだ。
「夜燈さまだけ、女御腹ではなく宮腹なの。父は先帝、母も内親王。……つまり、父方も母方も尤も皇統の中心に近いお方よ」
文子の手首が、じんと熱を持った。
苧環の結び目が、肌の奥で反応したようだった。
「神仙の血が、人の器に収まりきらぬほど濃く出たの」
それはつまり、ただ高貴という話ではない。
人の血に、人ではないものの血が混じる。
その血に残る神仙が近すぎて、かえって人に畏れられているのだ。
――お前が俺を御し、和魂を保て。
――荒魂を抱えたまま和魂を勝らせることができれば、俺の神格は増す。
夜の御簾の内に聞いた夜燈の言葉が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
「神仙の血が、人の持つ荒魂と混じると、和魂を保つことが何より大切らしいの」
紬路の言葉は、物憂げに沈んでいた。
宮中で長く伏せられてきたものへ触れる怖さと相まって、その一言は奇妙に重く響いた。
「荒魂が勝れば、神ではなく鬼に近付く。……だから鬼神でもあり、式神でもあらせられるのよ」
それも、あの夜の夜燈の言葉と符号が合っていた。
文子は式合わせの日の姿を思い出した。
見える者には二本の角。
見えぬ者には高貴な文官。
同じ男を前にしながら、場は別々の姿を見ていた。
つまり見える者には、皇統に残る古い神仙の血があるのだ。
文子にはまだ夜の夢の中での交わりでしか見えない、角――
夜燈親王という男そのものが、そういう存在なのだ。
「本来なら、東宮に擬せられてもおかしくなかったお方よ。……けれど、鬼に堕ちるやもしれぬと恐れられた」
紬路の言葉の後で、局の空気が一段重く沈んだ。
「今は、陰陽寮を束ねる中務省に身を置かれているわ。鬼神として陰陽の力を揮うことはできる。けれど、見方を変えれば、あれは衆人環視の座なの」
「衆人環視……」
「ええ。いざ荒魂が勝れば、陰陽寮の者が総がかりで相対できるように。宮さまは大きな権力を任されながら、見張られてもいるのよ」
文子は動けなかった。
漸く判って来た。
自分はただ、鬼神を呼んだのではない。
東宮に立ち得た男を、白砂の上へ呼び出したのだ。
――そして、その皇統の血を御せる女陰陽師として、皆の前に立ってしまった。
文子の手首が熱を持つ。
昼間は見えない苧環の結び目が、先程から何かに応えるように疼いている。
「これは、成る丈広く人の耳へ入れないで欲しいのだけれど」
紬路は一度、言葉を切った。
それは友人の顔でも、東宮妃の顔でもない様子だった。
もっと奥にある、誰にも見せたくない痛みを、どうにか整えている顔。
「今、皇統には儲けの君を得られない呪いが掛けられているようなの」
文子は息を呑んだ。
言われてみれば、その通りだった。
弘徽殿も、藤壺も、梅壺も。
まだ御子に恵まれていない桐壺も、おそらくは。
「今上の妃たちにも、内親王ばかりお生まれになったでしょう。その頃から徐々に呪いが増して……」
帝の寵を競い、実家の期待を背負い、次こそは皇子を、と望まれてきた姫たち。
「右大臣家は、もう梅壺さまを見限りかけている。何をするか判らないわ」
紬路の目元が、ほんの少し歪んだ。
「いえ、そこまで言うのは可笑しいのかしら。次に立つ皇子がどなたになるか、皆して探っているのよ。今上に皇子が生まれないのなら、わたくしの今東宮が帝にお成り遊ばされたとき、次の東宮はもう判らない。……別の宮かもしれない」
「別の宮……」
「つまり、夜燈さまよ」
文子の手首が、また熱を持った。
苧環の糸が、見えないまま引き締まる。
それは道標の筈だったが、今は皇統の首へ掛けられようとしているもののように思えた。
「東宮殿下とわたくしは、……桐壺さまと同様に、呪いが特に強くなってからの入侍だから、御子に恵まれないの……」
紬路は、そこまで言って目を伏せた。
「そうなれば、弟宮より、兄宮を先に帝へ推そうという流れが出ても、可笑しくはないわ」
文子は言葉を失った。
慰めるには重すぎ、問い返すには、紬路の傷へ踏み込みすぎる事柄だった。
「陰陽師であるあなたなら、鬼神の荒魂を鎮めながら、種絶の呪いを打ち破れると期待している者は多いわ。……皇統すべてが失われることを怖れて」
文子は弾かれたように顔を上げた。
「呪いがあると判っているなら、なぜ今まで祓えなかったの」
「判っていることと、触れられることは違うわ」
紬路は、伏せていた扇を膝の上で握り直した。
「種絶の呪いは、皇統の血に絡んでいるの。下手に断てば、呪いだけでなく、皇統そのものを傷つける。だから陰陽寮の者たちも、外から検めることしかできなかった」
文子の手首が、じんと熱を持った。
赤土の苧環。
夜ごと夢の奥から近付いて来る鬼神の道標。
その先にいる男が、急に遠いものに思えた。
「けれど夜燈さまは皇統の血を持ち、神仙の血も濃い。あなたは、その夜燈さまの荒魂を鎮められるかもしれない。……だから、あなたは鍵なのよ」
「鍵……」
「ええ。呪いを断つための鍵であり、夜燈さまを皇統へ戻すための鎖でもある」
その言い方に、文子は息を止めた。
鎖。
鍵。
どちらも、夜燈を自由にするための言葉ではない。
「だからこそ、今、淑景舎にいらっしゃる四帝妃は結託したの。立場は違えど、皆、同じ帝に添う身でしょう。あちらはあちらで、恐れているのよ」
「わたくしを?」
「ええ。夜燈さまが担ぎ上げられれば、帝妃たちの時勢が傾く。主上の寵を競っていた筈が、突如足元を掬われて、次の御代の陰に追いやられるかもしれない」
文子は、すぐには頷けなかった。
呪いを解くことは、正しい。
皇統を守ることも、陰陽師として正しい。
けれどその正しさが、後宮の女たちにとっては、自分たちの明日を奪う刃になる。
文子も知らぬ間に、そういう場所へ立たされていた。
「夜燈さまを皇嗣に擬する者たちにとって、あなたは必要な姫なの。けれど帝妃たちにとっては信用ならない姫でもある」
未だ生まれぬ皇子。
陰の気と陽の気を合わせる陰陽術により、生まれるかもしれない皇子。
そのどちらのためにも、文子は望まれ、怖れられ、祀り上げられていたのだ。



