「安泰とは、何のことでございましょう」
「……とぼけていらっしゃるの?」
梅壺の扇が、ぱちりと閉じた。
「昨日あなたは、中務宮さまを式神として十分に御せると見せつけた。女の身で、何とお見事なこと」
褒め言葉に似せている。
だが、梅壺の目は決して笑っていない。
何かがずれている。
文子は、庭の白砂を踏む自分の足先へ意識を落とした。
式合わせの話をしている筈だった。
それなのに、梅壺たちの言葉は、もっと別のところへ文子を押し出そうとしている。
式神。
中務宮。
女の身。
先々の安泰。
一つずつ並べるほど、胸の内で嫌な形を取り始める。
彼女たちは、文子の知らないところで、あの鬼神との関係に別の名を与えている。
「文子さまは鬼神の宮に見初められ、式合わせで名を知らしめ……次は、どのような栄華をお望みなのかしら」
その瞬間、文子の心の琴線に、ひやりと刃が触れた。
――梅壺の言うような、栄耀栄華。
より異能の強い者。
より強大な宮廷政治の後見。
より高い、神仙の混じる血筋。
帝妃たちは、文子がそれを欲しがっているのだと思っている。
宮筋に手を掛け、己の身を引き上げるために後宮で立ち回っているのだと。
冗談ではない。
陰陽寮で嗤われた日々も。
式神を持たぬ女陰陽師と蔑まれたことも。
後宮で都合のよい占い師として使われたことも。
そのすべてを、男に見初められるための足場だとでも思われているのか。
腹の底で、文子の矜持が昂然と頭をもたげた。
「一緒にしないでくださる?」
言いながら、白砂の上で足を揃える。
袖を払い、閉じた扇を胸の前へ縦に立てる。
御簾の内で、向けられていた笑みが止まった。
よく見ればいい。
誰もが同じものを望むと思うな。
「わたくしは、我が身の栄耀栄華のために後宮へ上がっている訣ではありませんの。いえ、栄達は願っておりますわ。……碌にお勉強もしなかったあなた方に、その違いがお判りになりまして?」
文子が女学校創設以来の首席卒業であることは、誰もが知っている。
栄耀栄華とは、与えられた席に座り、衣を重ね、寵や血筋の光を我がもののように浴びることだ。
眩しい場所に置かれた者が、己こそ光源であると錯誤する。
その錯誤のまま愚かな振る舞いを重ね、滑稽さに薄く金箔を押して飾る。
そういうものを、世は栄耀栄華と呼ぶ。
栄達とはまったく異なる言葉だ。
栄達とは、己の才で位を上げること。
術を認めさせ、名を刻み、次の席を自分の足で踏み取ること。
文子は、誰かに選ばれるためにここへ立っているのではなかった。
帝の御心も、宮さまに見初められることも、家の栄えも。
華族の姫が欲しがって当然だとされるものの中に、文子の望みは一つもなかった。
「宮さまに見初められるためではございません」
文子は扇を開いた。
口元を隠すためではない。
場に線を引くためだ。
「わたくしは陰陽師です。物の怪を検め、凶兆を見、必要とあれば祓う。……その結果としての栄達は望む姫ですのよ」
「まあァ。……なんて、ご立派な」
思わぬところから、感嘆が落ちた。
発したのは、今朝はずっと黙っていた桐壺だった。
見れば、扇を取り落とし、行儀も忘れたように腰を浮かせている。
御簾の内から少しでも文子をよく見ようと、身を乗り出しているのだ。
責めるでも、嘲るでもない。
今更ながら、初めて女陰陽師というものを見たような顔だった。
昨夜この淑景舎へ、女御たちが押しかけてきた時には深く考えていなかったのだろう。
弘徽殿に促され、梅壺に煽られ、藤壺の無言の圧に押され、何となく同じ側へ座ったのだ。
花札の時も、同じだったのだろう。
美しい札を手放せず、場の熱に引き摺られ、勝ち負けの意味さえ判らぬまま、気付けば渦中にいた。
桐壺は悪意で誰かを刺すより先に、目の前の美しいものへ心を奪われる姫なのだ。
文子が一つ本心を見せると、今度はそちらを美しいもののように見てしまう。
札の絵柄に心を奪われた時と同じ目で、文子の矜持に感銘を受けている。
なんとも危ぶまれ、少し腹立たしいほどに素直な感嘆だった。
確かに、このような性質であれば、誰かに選ばれ、守られることで輝く姫のほうが似つかわしいのだろう。
文子は、己が桐壺をはっきり嫌ってはいないことに気付いた。
どこか志乃に似たところさえあった。
あるいは、帝の寵を得るための駆け引きではなく、本当に主上をお慕い申し上げているのかもしれなかった。
「では、わたくしたちは己の栄華のみに目が眩む姫だと?」
隣の梅壺が、癇癪を起こしたように扇を握り締めた。
先ほどまでの華やかな笑みは消え、紅を差した唇の端がひき攣っている。
「お心当たりが?」
文子は中庭に足を踏み締めたまま、片眉を上げた。
殿上の御簾の内と、中庭の白砂。
立つ場所は確かにこちらが一段低い。
けれど、言葉まで低くしてやる義理はない。
退けば、帝妃たちは文子を自分たちの物差しで測る。
鬼神の宮を、ただ一人の我がものとして得た女。
後宮の外から来て、皇統の近くへ手を伸ばした女。
「少なくとも、わたくしは誰に見初められたとしても、それを栄華と取り違え、帝の御衣を選ぶ権を札の勝敗に賭けたりはいたしません」
梅壺が腰を浮かせる。
けれど、弘徽殿の扇がそれより早く横へ出た。
藤壺は言葉を失い、青ざめた頬を扇で隠している。
桐壺は固唾を呑むように、文子を見上げていた。
四帝妃の視線が、四者四様に文子へ注がれる。
認めたくはない。
それでも志乃は型破りながら、確かに辣腕の姫と言ってよいのだろう。
文子の腹の奥へ、苦いものが沈む。
まったく。
望んでもいないのに、文子はきちんと悪役令嬢の役を負わされている。
「……とぼけていらっしゃるの?」
梅壺の扇が、ぱちりと閉じた。
「昨日あなたは、中務宮さまを式神として十分に御せると見せつけた。女の身で、何とお見事なこと」
褒め言葉に似せている。
だが、梅壺の目は決して笑っていない。
何かがずれている。
文子は、庭の白砂を踏む自分の足先へ意識を落とした。
式合わせの話をしている筈だった。
それなのに、梅壺たちの言葉は、もっと別のところへ文子を押し出そうとしている。
式神。
中務宮。
女の身。
先々の安泰。
一つずつ並べるほど、胸の内で嫌な形を取り始める。
彼女たちは、文子の知らないところで、あの鬼神との関係に別の名を与えている。
「文子さまは鬼神の宮に見初められ、式合わせで名を知らしめ……次は、どのような栄華をお望みなのかしら」
その瞬間、文子の心の琴線に、ひやりと刃が触れた。
――梅壺の言うような、栄耀栄華。
より異能の強い者。
より強大な宮廷政治の後見。
より高い、神仙の混じる血筋。
帝妃たちは、文子がそれを欲しがっているのだと思っている。
宮筋に手を掛け、己の身を引き上げるために後宮で立ち回っているのだと。
冗談ではない。
陰陽寮で嗤われた日々も。
式神を持たぬ女陰陽師と蔑まれたことも。
後宮で都合のよい占い師として使われたことも。
そのすべてを、男に見初められるための足場だとでも思われているのか。
腹の底で、文子の矜持が昂然と頭をもたげた。
「一緒にしないでくださる?」
言いながら、白砂の上で足を揃える。
袖を払い、閉じた扇を胸の前へ縦に立てる。
御簾の内で、向けられていた笑みが止まった。
よく見ればいい。
誰もが同じものを望むと思うな。
「わたくしは、我が身の栄耀栄華のために後宮へ上がっている訣ではありませんの。いえ、栄達は願っておりますわ。……碌にお勉強もしなかったあなた方に、その違いがお判りになりまして?」
文子が女学校創設以来の首席卒業であることは、誰もが知っている。
栄耀栄華とは、与えられた席に座り、衣を重ね、寵や血筋の光を我がもののように浴びることだ。
眩しい場所に置かれた者が、己こそ光源であると錯誤する。
その錯誤のまま愚かな振る舞いを重ね、滑稽さに薄く金箔を押して飾る。
そういうものを、世は栄耀栄華と呼ぶ。
栄達とはまったく異なる言葉だ。
栄達とは、己の才で位を上げること。
術を認めさせ、名を刻み、次の席を自分の足で踏み取ること。
文子は、誰かに選ばれるためにここへ立っているのではなかった。
帝の御心も、宮さまに見初められることも、家の栄えも。
華族の姫が欲しがって当然だとされるものの中に、文子の望みは一つもなかった。
「宮さまに見初められるためではございません」
文子は扇を開いた。
口元を隠すためではない。
場に線を引くためだ。
「わたくしは陰陽師です。物の怪を検め、凶兆を見、必要とあれば祓う。……その結果としての栄達は望む姫ですのよ」
「まあァ。……なんて、ご立派な」
思わぬところから、感嘆が落ちた。
発したのは、今朝はずっと黙っていた桐壺だった。
見れば、扇を取り落とし、行儀も忘れたように腰を浮かせている。
御簾の内から少しでも文子をよく見ようと、身を乗り出しているのだ。
責めるでも、嘲るでもない。
今更ながら、初めて女陰陽師というものを見たような顔だった。
昨夜この淑景舎へ、女御たちが押しかけてきた時には深く考えていなかったのだろう。
弘徽殿に促され、梅壺に煽られ、藤壺の無言の圧に押され、何となく同じ側へ座ったのだ。
花札の時も、同じだったのだろう。
美しい札を手放せず、場の熱に引き摺られ、勝ち負けの意味さえ判らぬまま、気付けば渦中にいた。
桐壺は悪意で誰かを刺すより先に、目の前の美しいものへ心を奪われる姫なのだ。
文子が一つ本心を見せると、今度はそちらを美しいもののように見てしまう。
札の絵柄に心を奪われた時と同じ目で、文子の矜持に感銘を受けている。
なんとも危ぶまれ、少し腹立たしいほどに素直な感嘆だった。
確かに、このような性質であれば、誰かに選ばれ、守られることで輝く姫のほうが似つかわしいのだろう。
文子は、己が桐壺をはっきり嫌ってはいないことに気付いた。
どこか志乃に似たところさえあった。
あるいは、帝の寵を得るための駆け引きではなく、本当に主上をお慕い申し上げているのかもしれなかった。
「では、わたくしたちは己の栄華のみに目が眩む姫だと?」
隣の梅壺が、癇癪を起こしたように扇を握り締めた。
先ほどまでの華やかな笑みは消え、紅を差した唇の端がひき攣っている。
「お心当たりが?」
文子は中庭に足を踏み締めたまま、片眉を上げた。
殿上の御簾の内と、中庭の白砂。
立つ場所は確かにこちらが一段低い。
けれど、言葉まで低くしてやる義理はない。
退けば、帝妃たちは文子を自分たちの物差しで測る。
鬼神の宮を、ただ一人の我がものとして得た女。
後宮の外から来て、皇統の近くへ手を伸ばした女。
「少なくとも、わたくしは誰に見初められたとしても、それを栄華と取り違え、帝の御衣を選ぶ権を札の勝敗に賭けたりはいたしません」
梅壺が腰を浮かせる。
けれど、弘徽殿の扇がそれより早く横へ出た。
藤壺は言葉を失い、青ざめた頬を扇で隠している。
桐壺は固唾を呑むように、文子を見上げていた。
四帝妃の視線が、四者四様に文子へ注がれる。
認めたくはない。
それでも志乃は型破りながら、確かに辣腕の姫と言ってよいのだろう。
文子の腹の奥へ、苦いものが沈む。
まったく。
望んでもいないのに、文子はきちんと悪役令嬢の役を負わされている。



