文子が清涼殿の御簾の内に入ると、梅壺女御が御寝所の隅に座り込んでいた。
「今朝、几帳の向こうに黒い影が立ちましたの。主上が朝議へお出ましになられた後のことよ」
右大臣家出身の女御は、濡れたような睫毛を伏せた。
しどけない髪の乱れも衣の崩れも、どこか文子に見せつけるところがある。
「黒い影、でございますか」
「ええ。わたくしをじっと見て、それから北へ消えたのです。これは凶兆です! 北は水、死、隠れた恨みの方角。このまま戻れば、必ず禍いが起こります!」
文子は黙って聞いていた。
几帳の影か、灯台の揺らぎか、衣桁に掛けた衣が朝風で動いたか。
思い当たるものはいくつもある。
だが、目の前の女御は、真実を知りたい顔をしていなかった。
欲しいのは、答えではない。
文子の口から出る、箔の付いた言い訳なのだ。
太鼓判をもらい、大手を振って、帝の御寝所に日がな一日籠もるための。
だから昨夜の名残の乱れた様子を隠そうともしない。
むしろ寵を受けた証として、勝ち誇るように差し出している。
確かに、怖がっている。訴えている。
けれど同時に、自慢もしている。
いかにも姫らしい、器用なことだった。
文子は内心で、深く息を吐いた。
「わたくしは今日はここから動かないわ! 後宮の七殿五舎は、どこへ戻るにも北を犯しますもの。えぇ、動くには方違えが必要ですわ」
座り込んでいる梅壺は、乱れた裾を脚元へ寄せた。
怯えているようでいて、その目は文子の返事を見逃さない。
「まさか南へ下がれと仰言りませんわよね? 外廷の殿上人を前に、昨夜召された女御が晒し者になるなど、あまりに無体でございましょう」
そこで、ほんの少しだけ声が甘くなる。
「ですからわたくし、今宵もこちらで主上をお待ち申し上げますわ」
最後の一言のみ、涙よりも欲が色濃く透け出している。
二晩続けて寝所に召されるための計略でさえあるかもしれない。
文子は内心で天を仰いだ。
つまり、戻らぬ理由は、主上ご本人の寵愛ゆえでも怪異でもない。
不吉を見たと言い張り、今宵の夜伽まで我が物にしたいのだ。
後宮では、誰がどう騒いだかが重く見られる場所なのを良いことに。
「では、典侍の志乃さまへ遣いをやります。東の温明殿に参りましょう」
もとより志乃の仕事だ。
執務の場をこの不快な女に半日ほど居座られて、せいぜい困ればいい。
文子は念のため持って来ていた卜占用の道具を仕舞いながら考えた。
まったく、誰も彼もが面倒事を押し付けてくる。
陰陽道は便利な口実などではないというのに。
敬う気もない者ほど、困った時だけ都合よく使いたがる。
「今朝、几帳の向こうに黒い影が立ちましたの。主上が朝議へお出ましになられた後のことよ」
右大臣家出身の女御は、濡れたような睫毛を伏せた。
しどけない髪の乱れも衣の崩れも、どこか文子に見せつけるところがある。
「黒い影、でございますか」
「ええ。わたくしをじっと見て、それから北へ消えたのです。これは凶兆です! 北は水、死、隠れた恨みの方角。このまま戻れば、必ず禍いが起こります!」
文子は黙って聞いていた。
几帳の影か、灯台の揺らぎか、衣桁に掛けた衣が朝風で動いたか。
思い当たるものはいくつもある。
だが、目の前の女御は、真実を知りたい顔をしていなかった。
欲しいのは、答えではない。
文子の口から出る、箔の付いた言い訳なのだ。
太鼓判をもらい、大手を振って、帝の御寝所に日がな一日籠もるための。
だから昨夜の名残の乱れた様子を隠そうともしない。
むしろ寵を受けた証として、勝ち誇るように差し出している。
確かに、怖がっている。訴えている。
けれど同時に、自慢もしている。
いかにも姫らしい、器用なことだった。
文子は内心で、深く息を吐いた。
「わたくしは今日はここから動かないわ! 後宮の七殿五舎は、どこへ戻るにも北を犯しますもの。えぇ、動くには方違えが必要ですわ」
座り込んでいる梅壺は、乱れた裾を脚元へ寄せた。
怯えているようでいて、その目は文子の返事を見逃さない。
「まさか南へ下がれと仰言りませんわよね? 外廷の殿上人を前に、昨夜召された女御が晒し者になるなど、あまりに無体でございましょう」
そこで、ほんの少しだけ声が甘くなる。
「ですからわたくし、今宵もこちらで主上をお待ち申し上げますわ」
最後の一言のみ、涙よりも欲が色濃く透け出している。
二晩続けて寝所に召されるための計略でさえあるかもしれない。
文子は内心で天を仰いだ。
つまり、戻らぬ理由は、主上ご本人の寵愛ゆえでも怪異でもない。
不吉を見たと言い張り、今宵の夜伽まで我が物にしたいのだ。
後宮では、誰がどう騒いだかが重く見られる場所なのを良いことに。
「では、典侍の志乃さまへ遣いをやります。東の温明殿に参りましょう」
もとより志乃の仕事だ。
執務の場をこの不快な女に半日ほど居座られて、せいぜい困ればいい。
文子は念のため持って来ていた卜占用の道具を仕舞いながら考えた。
まったく、誰も彼もが面倒事を押し付けてくる。
陰陽道は便利な口実などではないというのに。
敬う気もない者ほど、困った時だけ都合よく使いたがる。



