式合わせの日を境に、後宮の空気は変わった。
文子が渡殿を進むと、女官や女房たちの袖がさっと引かれる。
以前なら、夢見だの方違えだのと、困った時のみ向こうから摺り寄って来た者たちだ。
それが今や、廂の陰へ身を寄せ、文子を通すために道を空ける。
敬っているのではない。
厄介なものを避けているのだ。
またこれか、と文子は胸の内で毒づいた。
陰陽寮でも後宮でも、遣り口は似ている。
群れで囲み、直接は手を下さず、笑い、避け、聞こえるように囁く。
一人一人は何もしていない顔で、全体として相手の居場所を削る。
「まあ、いらしたわ」
ある朝、文子が昭陽北舎の廊へ出ると、庭を挟んだ北の殿舎から声が掛かった。
御簾の内に、梅壺の顔が覗いている。
梅壺の殿舎ではない。
妙なところから顔を出すものだ、と思った。
向かいは、桐壺更衣の淑景舎の筈である。
文子は歩みを緩めた。
正面から見返すほどのことではない、という振りで視線を流す。
淑景舎には今、弘徽殿、藤壺、梅壺、桐壺――
今上の帝妃たちが勢揃いしていた。
淑景舎も昭陽舎と同じく、南北に局を分けて使える殿舎だ。
昨夜の賭場は、桐壺の殿舎だったのだろう。
そのまま済し崩しに夜を明かしたらしい。
つい先日まで寵を競い合っていた四人が、今日は同じ方を向いている。
その中心にいるのが、文子だった。
志乃の目論見どおりではないか。
文子は、胸の内に友人の悪びれない笑顔が浮かんで来た。
まったく、よくもやってくれたものだ。
――だって、今の後宮には嫌われ役が必要なのよ。
――皆に嫌われても、場を締める人。
――ばらばらの帝妃たちの共通の敵!
――そしたら皆、少しは仲良くなるんじゃない。
志乃の言葉が記憶に甦る。
何という一挙両得。
何という濡れ手で粟。
仕事を押し付けた上に、後宮の秩序まで整え始めている。
その時、女房が一人、庭を突っ切るようにして渡殿へ上がって来た。
衣の色も、結い上げた髪の飾りも、梅壺付きらしく華やかに整えている。
文子の前まで来ると、必要以上に深く頭を下げた。
敬っているのではない。
触れたくないものへ、礼だけ厚くして距離を取っている。
「梅壺さまが、陰陽師さまをお呼びにございます」
そちらから来ればよいものを。
そう思ったが、口には出さなかった。
仮にもあちらは女御である。
廊越しにやり取りする距離ではない。
庭を挟んでいる以上、淑景舎の前まで文子を寄せるのが筋なのだろう。
文子は、昭陽北舎を振り返った。
仕組んだ張本人の志乃は、御簾の内で困ったような顔をしている。
その顔には、文子ごめんね、でも助かってる、という都合のよい感情が透けていた。
……絶交してやろうか。
文子は女房の後に従って廊を降り、庭を横切って淑景舎の前へ立った。
こちらは白砂の上。
あちらは殿上の御簾の内。
同じ後宮にいながら、文子のみが庭へ下ろされた形になる。
見上げる外ない位置に立たされるだけで、自然と頭が低くなる。
なるほど。呼びつけるとは、こういう意図もあってのことか。
立ち位置そのもので、身の程を悟らせる。
さすが、貸本に出てくる悪役令嬢そのものの梅壺である。
「先日は大層なご披露でしたこと」
弘徽殿女御が言った。
労う形を取りながら、その底には棘がある。
さすがは宮筋の姫だった。
毒を吐くにも、まず品を纏わせて来る。
梅壺のように感情に任せて不快を撒き散らしはしない。
扇の角度一つ、目の伏せ方一つで、こちらが不義理を働いたような気にさせる。
生まれながらに、人を傅かせる側へ置かれてきた者の物腰だった。
「中務宮さまを式神としてお呼びになるなど、さすが内裏初の女陰陽師さまは為さることが違いますのね」
弘徽殿が、まず扇の陰から棘を差し出した。
「……式合わせでしたので」
文子は、最も角の立たぬ答えを選んだ。
だが、それを待っていたように、梅壺が笑った。
「まァ。なんという分不相応な贅沢」
弘徽殿の棘に、梅壺が華やかな毒を重ねる。
花札を禁じられた恨みも混じっているのだろう。
扇の陰から覗く目が、やっと仕返しの場を得たとばかりに色づいていた。
「恐ろしいこと。あれほどの宮さまを従えられるなら、さぞや先々も安泰ですわね」
そこで藤壺が口を開いた。
不思議なほど軽い調子だった。
弘徽殿が始め、梅壺が煽り、藤壺が意味を閉じる。
三人は互いに目を合わせもしないのに、まるで順を決めていたかのようだった。
先々。
その言い方が、やけに引っかかった。
文子は眉根を寄せた。
ただの嫌味なら聞き流せる。
だが今の一言には、文子の知らない場所で、既に話が進んでいるような含みがある。
なぜ、ここまで含みを持たせるのか。
文子には、まだ判らなかった。
文子が渡殿を進むと、女官や女房たちの袖がさっと引かれる。
以前なら、夢見だの方違えだのと、困った時のみ向こうから摺り寄って来た者たちだ。
それが今や、廂の陰へ身を寄せ、文子を通すために道を空ける。
敬っているのではない。
厄介なものを避けているのだ。
またこれか、と文子は胸の内で毒づいた。
陰陽寮でも後宮でも、遣り口は似ている。
群れで囲み、直接は手を下さず、笑い、避け、聞こえるように囁く。
一人一人は何もしていない顔で、全体として相手の居場所を削る。
「まあ、いらしたわ」
ある朝、文子が昭陽北舎の廊へ出ると、庭を挟んだ北の殿舎から声が掛かった。
御簾の内に、梅壺の顔が覗いている。
梅壺の殿舎ではない。
妙なところから顔を出すものだ、と思った。
向かいは、桐壺更衣の淑景舎の筈である。
文子は歩みを緩めた。
正面から見返すほどのことではない、という振りで視線を流す。
淑景舎には今、弘徽殿、藤壺、梅壺、桐壺――
今上の帝妃たちが勢揃いしていた。
淑景舎も昭陽舎と同じく、南北に局を分けて使える殿舎だ。
昨夜の賭場は、桐壺の殿舎だったのだろう。
そのまま済し崩しに夜を明かしたらしい。
つい先日まで寵を競い合っていた四人が、今日は同じ方を向いている。
その中心にいるのが、文子だった。
志乃の目論見どおりではないか。
文子は、胸の内に友人の悪びれない笑顔が浮かんで来た。
まったく、よくもやってくれたものだ。
――だって、今の後宮には嫌われ役が必要なのよ。
――皆に嫌われても、場を締める人。
――ばらばらの帝妃たちの共通の敵!
――そしたら皆、少しは仲良くなるんじゃない。
志乃の言葉が記憶に甦る。
何という一挙両得。
何という濡れ手で粟。
仕事を押し付けた上に、後宮の秩序まで整え始めている。
その時、女房が一人、庭を突っ切るようにして渡殿へ上がって来た。
衣の色も、結い上げた髪の飾りも、梅壺付きらしく華やかに整えている。
文子の前まで来ると、必要以上に深く頭を下げた。
敬っているのではない。
触れたくないものへ、礼だけ厚くして距離を取っている。
「梅壺さまが、陰陽師さまをお呼びにございます」
そちらから来ればよいものを。
そう思ったが、口には出さなかった。
仮にもあちらは女御である。
廊越しにやり取りする距離ではない。
庭を挟んでいる以上、淑景舎の前まで文子を寄せるのが筋なのだろう。
文子は、昭陽北舎を振り返った。
仕組んだ張本人の志乃は、御簾の内で困ったような顔をしている。
その顔には、文子ごめんね、でも助かってる、という都合のよい感情が透けていた。
……絶交してやろうか。
文子は女房の後に従って廊を降り、庭を横切って淑景舎の前へ立った。
こちらは白砂の上。
あちらは殿上の御簾の内。
同じ後宮にいながら、文子のみが庭へ下ろされた形になる。
見上げる外ない位置に立たされるだけで、自然と頭が低くなる。
なるほど。呼びつけるとは、こういう意図もあってのことか。
立ち位置そのもので、身の程を悟らせる。
さすが、貸本に出てくる悪役令嬢そのものの梅壺である。
「先日は大層なご披露でしたこと」
弘徽殿女御が言った。
労う形を取りながら、その底には棘がある。
さすがは宮筋の姫だった。
毒を吐くにも、まず品を纏わせて来る。
梅壺のように感情に任せて不快を撒き散らしはしない。
扇の角度一つ、目の伏せ方一つで、こちらが不義理を働いたような気にさせる。
生まれながらに、人を傅かせる側へ置かれてきた者の物腰だった。
「中務宮さまを式神としてお呼びになるなど、さすが内裏初の女陰陽師さまは為さることが違いますのね」
弘徽殿が、まず扇の陰から棘を差し出した。
「……式合わせでしたので」
文子は、最も角の立たぬ答えを選んだ。
だが、それを待っていたように、梅壺が笑った。
「まァ。なんという分不相応な贅沢」
弘徽殿の棘に、梅壺が華やかな毒を重ねる。
花札を禁じられた恨みも混じっているのだろう。
扇の陰から覗く目が、やっと仕返しの場を得たとばかりに色づいていた。
「恐ろしいこと。あれほどの宮さまを従えられるなら、さぞや先々も安泰ですわね」
そこで藤壺が口を開いた。
不思議なほど軽い調子だった。
弘徽殿が始め、梅壺が煽り、藤壺が意味を閉じる。
三人は互いに目を合わせもしないのに、まるで順を決めていたかのようだった。
先々。
その言い方が、やけに引っかかった。
文子は眉根を寄せた。
ただの嫌味なら聞き流せる。
だが今の一言には、文子の知らない場所で、既に話が進んでいるような含みがある。
なぜ、ここまで含みを持たせるのか。
文子には、まだ判らなかった。



