如月の朝は冷えを残しながらも、春へ寄り始めていた。
紫宸殿の前庭には、左近の桜と右近の橘が向かい合っている。
桜はまだ眠りの中にあり、裸の枝先に固い花芽を抱いたまま、白い空へ伸びていた。
対して橘は冬を越した葉に艶を残し、白砂の上で濃い緑を際立たせている。
その上の殿上に、四人の帝妃が並んで座っていた。
弘徽殿の女御は、深い蘇芳の襲に、金糸で松喰鶴を散らした唐衣を重ねている。
藤壺の女御は、薄氷を思わせる淡い色に、霞を引いたような古風な裳を合わせていた。
梅壺の女御は名に違わず、白梅と紅梅の丸文をあしらった衣で、春を独り占めするかのように座している。
桐壺の更衣は、若菜の色を袖口に忍ばせ、雪間から萌える草のような初々しさを見せていた。
後宮の姫たちの装いは、初春の季節そのものだった。
その華やぎの前、中庭に立つ陰陽寮の者たちは、銘々の式を従えている。
ある者の式は、白い狐の姿をしていた。
ある者の式は、三足の黒烏となって肩に留まっている。
またある者は、小鬼めいた式を足元に控えさせていた。
式は、人に近い形を取れるものほど格が高いとされる。
姿を留めるのみでも難しい。
人の形を取り、主の命を理解し、言葉に応じる式は更に少ない。
まして人の列に紛れても違和のないほどの姿を取れる式神の顕現ともなれば、陰陽寮の長い歴史でも数えられるほどだ。
だからこそ、文子の番が近付くにつれ、空気は妙な期待を帯び始めた。
「さて、帝妃付きの女陰陽師殿」
布袋腹を突き出し、隣に並んだ陰陽助が言った。
机は隣でも、文子を同格に扱う気などない男だ。
陰陽寮の列の端、ほとんど末席に据えられているのは、向こうも同じである。
それでも陰陽助は自分より下に置ける者を、どうにか一人、見つけておきたいのだ。
その一人にされたのが、文子だった。
こちらが恥をかく瞬間を、一番近くで見届けたいのだろう。
その期待が、親切そうに細めた目の奥で、いやに膨らんでいた。
「そろそろ、お式を」
文子は白砂の上へ一歩進み出た。
袖の中で、左の手首が熱を持っている。
赤土の苧環の糸は見えない。
だが、確かにそこにある筈だと思った。
来るのか。
来ないのか。
ここで何も起こらなければ、文子は笑いものだ。
陰陽寮の男たちは喜ぶだろう。
後宮の帝妃たちも、引き続き気軽に恋占いや物忌みに召し出すに違いない。
やはり女陰陽師などその程度かと袖の陰で嗤いながら。
都合のよい時だけ陰陽師。
都合の悪い時だけ、女。
そんな扱いを、これ以上受け入れたくはないのだが――。
ええい、ままよ。
文子は指を結び、短く息を吐いた。
「――我が使鬼よ」
手首の奥で、結び目が燃えた。
次の瞬間、文子の背後に影が立つ。
白砂の上へ落ちたその影は、人の形をしていた。
長い黒髪。高い背。肩から流れる衣の線。
そして、額から左右へ伸びる二本の角。
どよめきが起こった。
「式神の鬼神……?」
「いや、角など見えぬぞ」
「何を言う。あれが見えぬのか」
「お主の霊力が足りぬのよ」
場の目は、そこで二つに割れた。
角を見た者は息を呑んだ。
見えぬ者は、なぜ周囲が怯えるのか判らず、困惑した顔をする。
ある者には、額から二本の角を戴く鬼神。
ある者には、ただ文子の背後に控える高貴な文官。
同じ白砂の上に立つ鬼神を前に、場はまるで違う幻を見せられているようだった。
文子は振り返らなかった。
現れてくれた。
今は、それで十分だった。
姿なら、もう知っている。
夢の中で。
夜の御簾の内で。
壁際まで文子を追い詰めた、現の熱を持つ鬼神。
その男が、今は背後に立っている。
すぐ近くに。
手を伸ばされれば届くほど近くに。
帝妃たちの誰かが、扇が取り落とした。
居並ぶ殿上人の中から、誰かが震える息で呟いた。
「……中務宮、夜燈親王」
その名が、白砂の上に落ちた。
途端に、背後の気配が変わった。
鬼神ではない。
否、鬼神であり、式神でもあり、現の男でもあった。
文子の背後に立っていたのは、大内裏に名を持つ宮家の男。
振り返ると、式としてそこに在った筈の影が、人の輪郭を取り戻していくところだった。
額の二本角は、見る者によっては闇へ沈み、見る者によっては更に濃く浮かび上がった。
紫宸殿の前庭には、左近の桜と右近の橘が向かい合っている。
桜はまだ眠りの中にあり、裸の枝先に固い花芽を抱いたまま、白い空へ伸びていた。
対して橘は冬を越した葉に艶を残し、白砂の上で濃い緑を際立たせている。
その上の殿上に、四人の帝妃が並んで座っていた。
弘徽殿の女御は、深い蘇芳の襲に、金糸で松喰鶴を散らした唐衣を重ねている。
藤壺の女御は、薄氷を思わせる淡い色に、霞を引いたような古風な裳を合わせていた。
梅壺の女御は名に違わず、白梅と紅梅の丸文をあしらった衣で、春を独り占めするかのように座している。
桐壺の更衣は、若菜の色を袖口に忍ばせ、雪間から萌える草のような初々しさを見せていた。
後宮の姫たちの装いは、初春の季節そのものだった。
その華やぎの前、中庭に立つ陰陽寮の者たちは、銘々の式を従えている。
ある者の式は、白い狐の姿をしていた。
ある者の式は、三足の黒烏となって肩に留まっている。
またある者は、小鬼めいた式を足元に控えさせていた。
式は、人に近い形を取れるものほど格が高いとされる。
姿を留めるのみでも難しい。
人の形を取り、主の命を理解し、言葉に応じる式は更に少ない。
まして人の列に紛れても違和のないほどの姿を取れる式神の顕現ともなれば、陰陽寮の長い歴史でも数えられるほどだ。
だからこそ、文子の番が近付くにつれ、空気は妙な期待を帯び始めた。
「さて、帝妃付きの女陰陽師殿」
布袋腹を突き出し、隣に並んだ陰陽助が言った。
机は隣でも、文子を同格に扱う気などない男だ。
陰陽寮の列の端、ほとんど末席に据えられているのは、向こうも同じである。
それでも陰陽助は自分より下に置ける者を、どうにか一人、見つけておきたいのだ。
その一人にされたのが、文子だった。
こちらが恥をかく瞬間を、一番近くで見届けたいのだろう。
その期待が、親切そうに細めた目の奥で、いやに膨らんでいた。
「そろそろ、お式を」
文子は白砂の上へ一歩進み出た。
袖の中で、左の手首が熱を持っている。
赤土の苧環の糸は見えない。
だが、確かにそこにある筈だと思った。
来るのか。
来ないのか。
ここで何も起こらなければ、文子は笑いものだ。
陰陽寮の男たちは喜ぶだろう。
後宮の帝妃たちも、引き続き気軽に恋占いや物忌みに召し出すに違いない。
やはり女陰陽師などその程度かと袖の陰で嗤いながら。
都合のよい時だけ陰陽師。
都合の悪い時だけ、女。
そんな扱いを、これ以上受け入れたくはないのだが――。
ええい、ままよ。
文子は指を結び、短く息を吐いた。
「――我が使鬼よ」
手首の奥で、結び目が燃えた。
次の瞬間、文子の背後に影が立つ。
白砂の上へ落ちたその影は、人の形をしていた。
長い黒髪。高い背。肩から流れる衣の線。
そして、額から左右へ伸びる二本の角。
どよめきが起こった。
「式神の鬼神……?」
「いや、角など見えぬぞ」
「何を言う。あれが見えぬのか」
「お主の霊力が足りぬのよ」
場の目は、そこで二つに割れた。
角を見た者は息を呑んだ。
見えぬ者は、なぜ周囲が怯えるのか判らず、困惑した顔をする。
ある者には、額から二本の角を戴く鬼神。
ある者には、ただ文子の背後に控える高貴な文官。
同じ白砂の上に立つ鬼神を前に、場はまるで違う幻を見せられているようだった。
文子は振り返らなかった。
現れてくれた。
今は、それで十分だった。
姿なら、もう知っている。
夢の中で。
夜の御簾の内で。
壁際まで文子を追い詰めた、現の熱を持つ鬼神。
その男が、今は背後に立っている。
すぐ近くに。
手を伸ばされれば届くほど近くに。
帝妃たちの誰かが、扇が取り落とした。
居並ぶ殿上人の中から、誰かが震える息で呟いた。
「……中務宮、夜燈親王」
その名が、白砂の上に落ちた。
途端に、背後の気配が変わった。
鬼神ではない。
否、鬼神であり、式神でもあり、現の男でもあった。
文子の背後に立っていたのは、大内裏に名を持つ宮家の男。
振り返ると、式としてそこに在った筈の影が、人の輪郭を取り戻していくところだった。
額の二本角は、見る者によっては闇へ沈み、見る者によっては更に濃く浮かび上がった。



