翌日の昼過ぎ、文子は陰陽寮へ出仕した。
やはり、殆ど眠れなかった。
唇の端には噛み切った傷が残り、袖口の奥では、見えない結び目がまだ薄く疼いている。
飛香舎に現れた物の怪の陰も、鬼神の訪いも、夜が明けたくらいで消えてはくれなかった。
自席の机には、一枚の達し書が置かれていた。
記。
式合わせ。
二月吉日、紫宸殿前にて、陰陽寮に仕える者、それぞれの式を披露すべし。
そのような趣旨だった。
式の格と使役の技を披露する、年中の儀に近い催しである。
御代替わりから日も浅く、帝は朝議と政務に追われておいでである。
ゆえに御前の儀でこそないが、後宮の帝妃たち、殿上人、陰陽寮の上役が居並ぶものと聞き及んでいた。
文子は通達を読み終え、暫く黙った。
式を持たぬ女陰陽師に、式を披露せよという。
昨夜は後宮の物の怪。
今度は陰陽寮で式合わせ。
疲れ切ったところへ、まるで次々に厄介事に見舞われるようだった。
「おや、帝妃付きの占い師殿にも届いたか」
隣の陰陽助が、机から顔を上げた。
その目には、こちらを案じる色などない。
「式をお持ちでないのに、お気の毒なことだ」
筆先が止まる。
紙を繰る手が、わざとらしく遅くなる。
そこかしこで、喉の奥へ押し込めた笑いが転がった。
「紙人形でも折って出されるか」
「薄紙造りのてるてる坊主やもしれん」
「恋守りの護符でもよかろう。後宮では重宝されると聞く」
「否々、女陰陽師どのには、花札占いがお似合いではないか。ははは」
飛んでくる揶揄を、文子は耳へ留めなかった。
ただ殊更丁寧に、その紙を畳んだ。
端と端を揃え、指先で折り目を押さえる。
寝不足であることは、否定しようもない。
それでも、乱れたところを見せたくなかった。
苛立ちに任せて折り目を荒くしたなどと、誰にも思わせたくなかった。
畳んだ紙を抽斗に仕舞う。
腹は立つ。喉の奥が焼けるほどに。
だが、いちいち食い付けば、相手の思う壺だ。
怒れば、女は感情的だと言う。
黙れば、やはり図星と笑う。
ならば、こちらは丁重な手続きと結果で返すしかない。
「辞退なさるなら、早めに届け出ることだ」
陰陽助の言葉は、親切の形をしていた。
だが、その奥には顛末を見たい好奇心と揶揄いが透けている。
出ても恥をかく。出なければ、式を持たぬ女陰陽師と笑われる。
どちらへ進んでも、男たちには都合がよい。
「……なぜ辞退を?」
文子は陰陽助の方へ向き直った。
「わたくしにも沙汰が届きました」
「……式神もないのに出席する気か」
誰かが呟いた。
文子はその者を見なかった。
一人を見ると、また別の誰かが笑う。
一つ返すと、また別の嘲りが投げられる。
きりがない。男たちは群れで文子を削る遊びに興じている。
だから文子は抽斗に手を添えたまま、背筋を伸ばした。
「式がないと決めたのは、あなた方でしょう」
筆を取る。
出席の旨を、迷わず書き付けた。
墨の匂いが、胸の奥の熱を少し冷ました。
飛香舎の怪についても、占状を起こさねばならない。
何しろ、多数の女房からの訴えだ。
今度こそ、什器の貸し出しを渋る口実は立つまい。
ただ、今の文子には後宮のことが観えない。
自分が渦中にいる以上、怪異の先は霧の向こうへ沈んでしまう。
ならば、先見の才を持つ者に占事を頼む外ない。
昨夜は物の怪。
今度は式合わせ。
その上、似た異能を持つ者の手まで借りねばならない。
観えぬことを認め、手助けを請う。
そのことの方が、文子には堪えた。
なぜ、こうも次から次へと厄介な札を引かされるものか。
だが、厄介な札なら、つい先日も後宮の座から取り上げて来たばかりだった。
帝妃たちの花歌留多だ。
本来なら季節の花を愛で、手の内を競う雅な遊びである筈のもの。
それがいつの間にか、寵の多寡と妬みを測る物差しに変わっていた。
止めても、褒める者など殆どいない。
夜燈と紬路くらいのものだろう。
それでも、文子は止めた。
誰かに好かれるためではない。
あの場を歪ませぬために、憎まれ役を引き受けたのだ。
その熱が、まだ胸の奥に残っている。
引くに引けぬ火のように、静かに燻っている。
「出席いたします」
短く告げると、笑いが途切れた。
その間だけ、ほんの少し、胸のすく心地がした。
文子は袖の内から扇を抜いた。
親骨を指先で弾くと、紙面が半ばまで開く。
その縁を唇の高さへ上げ、男たちを一人ずつ見た。
「女に従う式などないと嗤うなら、ご覧に入れましょう。当日が楽しみですわね」
言ってしまった。
言葉が落ちた後で、文子は漸く自分の口が何を放ったのかを知った。
陰陽寮の男たちが、ぽかんとこちらを見ている。
けれど、取り消す気にはならなかった。
後宮で悪役を引き受けたばかりだ。
ならば、陰陽寮でも同じこと。
嗤われる女で終わるより、嗤った者たちの前で鬼神を呼ぶ女になってやる。
無謀だとは判っている。
まだ契った訣でも、式として従えた訣でもない。
それでも、あの夜ごと夢に現れる鬼神なら、文子が呼べば来るような気がしていた。
畏ろしく、興じながら危うく、こちらを呑み込みかねない男。
けれど同時に、文子の強がりも、憎まれ役の奥に隠した痛みも、見透かしたように笑う男。
ならば、来る。
理由も理屈もなかった。
ただ、そう信じてしまっていた。
やはり、殆ど眠れなかった。
唇の端には噛み切った傷が残り、袖口の奥では、見えない結び目がまだ薄く疼いている。
飛香舎に現れた物の怪の陰も、鬼神の訪いも、夜が明けたくらいで消えてはくれなかった。
自席の机には、一枚の達し書が置かれていた。
記。
式合わせ。
二月吉日、紫宸殿前にて、陰陽寮に仕える者、それぞれの式を披露すべし。
そのような趣旨だった。
式の格と使役の技を披露する、年中の儀に近い催しである。
御代替わりから日も浅く、帝は朝議と政務に追われておいでである。
ゆえに御前の儀でこそないが、後宮の帝妃たち、殿上人、陰陽寮の上役が居並ぶものと聞き及んでいた。
文子は通達を読み終え、暫く黙った。
式を持たぬ女陰陽師に、式を披露せよという。
昨夜は後宮の物の怪。
今度は陰陽寮で式合わせ。
疲れ切ったところへ、まるで次々に厄介事に見舞われるようだった。
「おや、帝妃付きの占い師殿にも届いたか」
隣の陰陽助が、机から顔を上げた。
その目には、こちらを案じる色などない。
「式をお持ちでないのに、お気の毒なことだ」
筆先が止まる。
紙を繰る手が、わざとらしく遅くなる。
そこかしこで、喉の奥へ押し込めた笑いが転がった。
「紙人形でも折って出されるか」
「薄紙造りのてるてる坊主やもしれん」
「恋守りの護符でもよかろう。後宮では重宝されると聞く」
「否々、女陰陽師どのには、花札占いがお似合いではないか。ははは」
飛んでくる揶揄を、文子は耳へ留めなかった。
ただ殊更丁寧に、その紙を畳んだ。
端と端を揃え、指先で折り目を押さえる。
寝不足であることは、否定しようもない。
それでも、乱れたところを見せたくなかった。
苛立ちに任せて折り目を荒くしたなどと、誰にも思わせたくなかった。
畳んだ紙を抽斗に仕舞う。
腹は立つ。喉の奥が焼けるほどに。
だが、いちいち食い付けば、相手の思う壺だ。
怒れば、女は感情的だと言う。
黙れば、やはり図星と笑う。
ならば、こちらは丁重な手続きと結果で返すしかない。
「辞退なさるなら、早めに届け出ることだ」
陰陽助の言葉は、親切の形をしていた。
だが、その奥には顛末を見たい好奇心と揶揄いが透けている。
出ても恥をかく。出なければ、式を持たぬ女陰陽師と笑われる。
どちらへ進んでも、男たちには都合がよい。
「……なぜ辞退を?」
文子は陰陽助の方へ向き直った。
「わたくしにも沙汰が届きました」
「……式神もないのに出席する気か」
誰かが呟いた。
文子はその者を見なかった。
一人を見ると、また別の誰かが笑う。
一つ返すと、また別の嘲りが投げられる。
きりがない。男たちは群れで文子を削る遊びに興じている。
だから文子は抽斗に手を添えたまま、背筋を伸ばした。
「式がないと決めたのは、あなた方でしょう」
筆を取る。
出席の旨を、迷わず書き付けた。
墨の匂いが、胸の奥の熱を少し冷ました。
飛香舎の怪についても、占状を起こさねばならない。
何しろ、多数の女房からの訴えだ。
今度こそ、什器の貸し出しを渋る口実は立つまい。
ただ、今の文子には後宮のことが観えない。
自分が渦中にいる以上、怪異の先は霧の向こうへ沈んでしまう。
ならば、先見の才を持つ者に占事を頼む外ない。
昨夜は物の怪。
今度は式合わせ。
その上、似た異能を持つ者の手まで借りねばならない。
観えぬことを認め、手助けを請う。
そのことの方が、文子には堪えた。
なぜ、こうも次から次へと厄介な札を引かされるものか。
だが、厄介な札なら、つい先日も後宮の座から取り上げて来たばかりだった。
帝妃たちの花歌留多だ。
本来なら季節の花を愛で、手の内を競う雅な遊びである筈のもの。
それがいつの間にか、寵の多寡と妬みを測る物差しに変わっていた。
止めても、褒める者など殆どいない。
夜燈と紬路くらいのものだろう。
それでも、文子は止めた。
誰かに好かれるためではない。
あの場を歪ませぬために、憎まれ役を引き受けたのだ。
その熱が、まだ胸の奥に残っている。
引くに引けぬ火のように、静かに燻っている。
「出席いたします」
短く告げると、笑いが途切れた。
その間だけ、ほんの少し、胸のすく心地がした。
文子は袖の内から扇を抜いた。
親骨を指先で弾くと、紙面が半ばまで開く。
その縁を唇の高さへ上げ、男たちを一人ずつ見た。
「女に従う式などないと嗤うなら、ご覧に入れましょう。当日が楽しみですわね」
言ってしまった。
言葉が落ちた後で、文子は漸く自分の口が何を放ったのかを知った。
陰陽寮の男たちが、ぽかんとこちらを見ている。
けれど、取り消す気にはならなかった。
後宮で悪役を引き受けたばかりだ。
ならば、陰陽寮でも同じこと。
嗤われる女で終わるより、嗤った者たちの前で鬼神を呼ぶ女になってやる。
無謀だとは判っている。
まだ契った訣でも、式として従えた訣でもない。
それでも、あの夜ごと夢に現れる鬼神なら、文子が呼べば来るような気がしていた。
畏ろしく、興じながら危うく、こちらを呑み込みかねない男。
けれど同時に、文子の強がりも、憎まれ役の奥に隠した痛みも、見透かしたように笑う男。
ならば、来る。
理由も理屈もなかった。
ただ、そう信じてしまっていた。



