文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 その夜、文子(あやこ)は昭陽北舎の小部屋で、なかなか眠れずにいた。

 ずっとこのように、気力も体力も奪われることばかりだ。

 飛香舎(ひぎょうしゃ)の青い火。
 花札の上へ落ちた女の影。
 肌の奥に残る結び目の熱。

 左の手首を袖の上から押さえる。
 赤土の苧環(おだまき)は、もう見えない。
 けれど、そこに糸があると判る。
 脈に絡むように、皮膚の下で赤い筋が眠っている。

 厄介なものを結んでしまった。
 そう思うのに、指はなかなか手首から離れなかった。

 今夜も来るのだろうか。
 来るならば、夢の中か。
 それとも――。

 ふと、風もないままに燈台(とうだい)の火が揺れた。

 文子(あやこ)は顔を上げた。

 几帳の向こうで、ぎし、と板敷(いたじき)が鳴った。
 敷居を越えて衣が畳を擦る気配があり、次いで、灯りの前に長い影が落ちた。

 鬼神が来た。

 そう判った瞬間、左の手首に赤い筋が浮かび上がった。
 苧環(おだまき)の糸が、文子(あやこ)の手首から御簾(みす)の下をくぐっている。

 夢ではない。
 糸は畳の目の上を這い、灯りを受けて濡れた朱のように光っている。
 文子(あやこ)が息を吸うたび、糸もまた同じ拍で引き締まる。

「……また、夢へ入って来たのですか」
「今宵は、お前が夢に呼ばれる前に来た」

 几帳が外側から圧を受けたように揺れた。

 文子(あやこ)は思わず、几帳の上端へ目を走らせた。
 向こうに立つ影は高い。
 けれど、角はない。

 夢の中で見た、あの突起(とっき)も、荒ぶる獣じみた輪郭も、今夜は見えなかった。

(ほど)けていないな」
「あなたが結び直したのでしょう」
「そうだ。……逃げられては困る」

 御簾(みす)の内へ、鬼神が入って来た。

 夢の中より、更に人の男に近い輪郭を帯びている。
 長い黒髪は肩へ流れ、濡れた土と夜気(やき)の匂いを連れていた。

 人ならざるものの重さがある。
 それなのに、畳を踏む足は確かに(うつつ)のものだった。

「唇から血が出ておるな」

 封魔符のために端を噛み切った痕が残っていたのだろうか。
 文子(あやこ)は反射的に(ひざ)を引こうとした。

 鬼神はそれを見て、すぐに傍へ寄った。
 手首の糸を指に絡めたまま、身を低める。

 その手首にも、同じ赤い糸が結ばれていた。

 すると、この糸は断とうと思えば断てるのだろうか。

 ふと、そんな考えが(よぎ)った。
 断てば、夜ごと忍び寄る鬼神の気配からは逃れられるのかもしれない。
 眠りを奪われず、式神契約などという危うい(えにし)も失せるのかもしれない。

 けれど、飛香舎で物の怪の陰を見た後では、最早(もはや)それは逃げ道ではなかった。

 物の()は、すでに後宮に棲みついている。
 帝妃たちの(ねた)みや虚栄心を()って育つものがある。
 つい今しがた、その前に立った時、鬼神は、文子(あやこ)の術を確かに支えた。

 ならば断つかどうかではなく、どこまで結ぶか。
 その境を、今のうちに決めておかなければならなかった。

 その逡巡を見透かしたように、鬼神の口許に笑みが浮かぶ。

飛香舎(ひぎょうしゃ)で、随分立派な役を演じたな」
「……やむなく」

 含み笑いとも賞賛ともつかぬものが、鬼神の唇に寄った。
 やはり、どこからか後宮の騒ぎを見ていたのだ。

「嫌われ役か。器用な真似をする」
「好きでしている(わけ)では」
「だろうな」

 その指が、文子(あやこ)の手首の内側をなぞった。

 結び目の上から触れられ、そこから熱が広がる。
 皮膚の上を撫でられたはずなのに、触れられたのは魂の芯だった。

 文子(あやこ)は顔を(そむ)けようとした。
 だが、鬼神のもう一方の手が頬にかかった。
 逃がさぬ、とでもいうように。

 指先が(あご)の下を(すく)い、喉元へ滑る。
 薄い皮膚の下で、血がどくりと脈打った。

「必死に興味のないふりをしているところも可愛いな。……それに、お前は幾人も救っている」
「……誰を」
「花札に溺れる妃どもを。噂に呑まれる女房を。怪異に()われる前の後宮を」

 誰もそんな風には言ってくれなかった。

 つい数刻前のことで、今夜のことはまだ占状にも書き起こしていない。
 それでも、この鬼神は知っている。
 今夜、文子(あやこ)が嫌われ役を引き受け、怪異を退(しりぞ)けたことを。

 救っている。

 その一言が、思いがけず深いところへ触れた。

 陰陽寮の男たちは(わら)う。
 後宮の姫たちが都合よく使う。
 志乃でさえ悪気なく押し付けてくる、この役目。
 それを、この鬼神は功として数え上げてくれた。

 嬉しい。
 そう思いかけて、文子(あやこ)は鬼神の荒魂(あらたま)のことを思い出した。

 甘い言葉のみを(ささや)いて来る相手ではない。
 文子(あやこ)(かつ)えごと()おうとする何かがある。

 褒め言葉の甘さに(ほだ)されれば、境が曖昧になる。

 その隙間を、荒魂(あらたま)()い破られるかもしれない。
 それでもこの鬼神は、文子(あやこ)が一番欲しい言葉を知っている。

 隠してきた()えを見抜かれてしまった。
 そのことが、悔しいほど()ずかしくもあった。

「とてもよい」

 鬼神は文子(あやこ)の袖口を(つか)んだ。
 肌の奥に潜む赤い結び目を、確かめるような触れ方だった。

「お堅い姫を(みだ)すのは愉しい」

 更に一息(ひといき)分、距離が縮まる。
 (ひざ)が触れた。
 衣越しなのに、そこに本物の熱があった。

「お前が隠してきた()えも、欲しがっている言葉も、俺は知っている」

 鬼神の指が、結び目のあるあたりをゆるく押さえる。

「だから寄越せ。陰陽師としての誇りも、認められたいという飢えも、文子(あやこ)ごと俺に見せろ」

 衣越しの(ぬく)もりが、(うつつ)の輪郭を伝えてくる。
 先日のような夢の影ではない。
 男の(なり)を取った鬼神が、今ここにいる。

「血をそのままにするのは良くない」

 鬼神の指先が、文子(あやこ)の唇へ伸びた。
 噛み切った端に、まだ乾ききらぬ血が残っているのだろう。

「触らないで」

 文子(あやこ)はかぶりを振った。
 顔を背けた拍子に、唇の傷が(わず)かに引き()れる。

 この鬼神は、内裏(だいり)の殿上人のうちの誰かなのではないか。
 そうでなければ、夜の昭陽北舎へこのように入り込める(はず)がない。

 結界が破れたとはいえ、内裏(だいり)には異能者による護りが幾重にも置かれている。
 深夜であろうと、人の身分を(はか)る目も張り巡らされている。

 飛香舎の物の()は別だ。
 あれは外から来た怪異ではない。
 帝妃たちの夜ごと積もる(よど)みを()って、護りの内側で形を得たものだった。

 けれど、この鬼神は違う。

 後宮の(よど)みが生んだ影ではない。
 古く、重く、畳を踏む足を持ち、衣越しに熱を伝えてくる。

 人でなければ弾かれる場所へ、あたかも初めから入る権を持つ者のように立っている。
 だからこそ、唇へ伸びた指が余計に生々しかった。

 これは夢の影でも、物の()でもない。
 内裏(だいり)のどこかで、人の名と身分を持つ者だ。

 鬼であれば、荒魂(あらたま)のみ。
 神であれば、和魂(にきたま)のみ。

 だが、この男はその両方を抱えている。
 内裏(だいり)に住まう、鬼の()えと神の格とを同じ身に宿した人間だ。

「俺を求めろ」
「……あなたは、誰なのですか」

 問いに答える代わりに、鬼神の指先が、つと文子(あやこ)の手首から肘へ移った。

 赤い糸がその動きに合わせて、薄く光る。
 畳を半分丸く切り取り、鬼神の手首へ戻っている。
 円のようで、縄のようでもあった。

 捕らえているのは、どちらなのだろう。

 文子(あやこ)が鬼神を結んだのか。
 鬼神が文子(あやこ)を結び返したのか。

「式神が欲しいのだろう」

 鬼神の唇が、文子(あやこ)の耳元へ近付いた。
 その近さに、身体から力が抜けていく。

「俺が、欲しいだろう」
「――式神として、です」

 文子(あやこ)(ひざ)を盾にするように折った。

 だが、鬼神の右手が文子(あやこ)の膝の外側へ落ち、逃げ道を一つ潰した。
 左手は喉元に残ったまま、親指だけが首筋をなぞる。

「陰陽寮の男なんて皆……」
「ならば男としてではなく、鬼として傍にいよう。お前が泣かずに済む方に、俺は立つ」

 視線を逸らせば、その指に戻される。
 身を引けば、背中が壁に当たる。
 気付けば、文子(あやこ)は壁際まで追い込まれていた。

 壁に寄せられた几帳の紐が肩に触れる。
 背後は塗壁。左右は鬼神の腕。
 前には、夜そのもののような男。

 息を吸うにも、鬼神の匂いが入って来る。
 危ういものばかりなのに、避け切れない。

「今は、それで許してやる」

 鬼神の目には熱が増している。

 文子(あやこ)は睨み返した。
 けれど、睨んだところで、己が追い詰められていることは変わらない。

 鬼神の髪が頬の横へ落ち、壁と腕と黒髪の檻の中に閉じ込められたようだった。

「一つ教えてやろう。飛香舎(ひぎょうしゃ)の怪は、(はら)い切れていない」

 文子(あやこ)の気掛かりを言い当てられて、思わずぴくりと反応してしまう。

「……やはり」
「あれは後宮の(にご)りから生じたものだ。だが、それのみではない」

 鬼神は几帳の向こうへ目を向けた。
 そこには夜の渡殿(わたどの)が続いている。

 灯りの届かぬ奥に、誰かが潜んでいるような深い闇があった。

「あの物の()は、おまえに因縁があるようだ」

 文子(あやこ)は息を止めた。
 赤い糸が、一度だけ強く震えた。

「今夜はゆっくり休め。あまり眠れていないのだろう」

 誰のせいよ、と文子(あやこ)は思ったが、口には出さなかった。