文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜



 これが、(ちぎ)るということなのか。

 まだ真名(まな)も知らない。
 式神契約も整えていない。
 それでも、鬼神の気配が文子(あやこ)の術に触れているのを感じる。

 赤土を含ませた苧環(おだまき)の糸が、赤い線となって左手首から伸びた。

 空気が裂けた。

 青い火が跳ねる。
 女の形をした影が、身を(よじ)るように壁から離れ、廊の奥へ弾かれていく。

 恨み。
 妬み。
 焦げた香と、古い涙の匂い。

 文子(あやこ)は扇を開いた。
 灯りを受けた紙面が、白い弧を描く。

 影の残った壁へ扇の先を向け、下から上へ打ち(はら)う。
 その軌跡に薄い光が走り、几帳の内と廊の闇との間に、見えぬ境が張った。
 ややあって、青かった灯りが元の色へ戻った。

 廊を走る足音が、一つ、二つと遠ざかる。
 倒れた膳を起こす音。
 誰かが押し殺した泣き音。
 女房たちの(ざわ)めきは、几帳の外で少しずつほどけ、やがて燈台(とうだい)の火が揺れる音まで聞こえそうな静けさへ沈んでいった。

 残ったのは、伏せられた花札。
 青ざめた帝妃たち。
 そして怪異を目の当たりにした、志乃の情けない顔だった。

 文子(あやこ)は左の手首を押さえた。

 熱はまだ残っている。
 結び目が(うず)いている。
 後宮の噂は、やはり戯言(ざれごと)のみではなかった。

 物の()がいる。
 しかもそれは、外から迷い込んだものではない。

 帝妃たちのいがみ合い。
 勝った、負けたと揺れる心。
 寵を得たい欲、選ばれぬ悔しさ、摂家の面子を失う恐れ。

 そうしたものが、後宮の奥で少しずつ(にご)り、形を持ち始めているのだ。

 そして、あの鬼神はおそらく、この一件を見ている。

 ――物の()を寄越せ。

 昨夜の低い響きが、手首の熱と共に(よみがえ)る。

 文子(あやこ)は、乱れた札の上へ視線を落とした。

 散らばった札は、どれも美しかった。
 桐も、梅も、藤も、灯り(あかり)を受け、(つや)やかに映える。

 その(つや)の下で、美しいものを美しいまま扱えぬ競争心が、醜く(にご)っている。
 やがて(にご)りは札の陰に溜まり、少しずつ凶兆を育てていた。

「札遊びは、暫く(しばらく)禁じます」

 誰も文句を言わなかった。

 その時、左手首の苧環(おだまき)の結び目が、もう一度だけ熱を返した。
 赤土を含んだ糸の奥に、(わず)かな金の火が(とも)る。

 褒められたのだと、なぜか判った。

 ――気に入った。

 昨夜の鬼神が、耳許ではなく、結び目の奥で笑った気がした。

 文子(あやこ)は手首を押さえたまま、乱れた花札の場に背を向ける。
 後宮の灯りは、もう青くない。

 けれど、この奥にはまだ、()わせるべき闇があるという気がした。