その時だった。
廊の向こうで、女房の叫びが短く弾けた。
花札の場に残っていた熱が、ぴたりと止まる。
「――物の怪が!」
誰も動かなかった。
若い桐壺は胸元へ抱えた光札を、まるで守り札のように握り込んでいる。
次の瞬間、几帳の外で何かが倒れる音がした。
下げた膳か、燈台か、そうした乾いた音だ。
確かめるより早く、女房たちの足音が乱れ、衣擦れが廊を散っていく。
文子は扇を握り直した。
怪異は、恐れるものではなく見極めるものだ。
祓うか、鎮めるか、それとも喰わせるか。
先ず、名のないものを、名のあるものへ近付ける。
藤壺の局の隅、燈台の火が青く傾いていた。
油を吸った芯の先で、火が細く痩せ、部屋の内側へありえぬ影を落としている。
その青い火の向こうに、女の形をした影があった。
実体はない。
けれど、泣き濡れた袖のような黒い気配が、壁から剥がれるように床へ伸びて来る。
畳の目を擦り、几帳の裾を濡らし、ついには散らばった花札の上へ落ちた。
桐に鳳凰。
梅に鶯。
藤に不如帰。
色鮮やかな札の上を、黒い影がぬるりと這った。
そのたび絵柄の花が、墨を吸ったように沈んでいく。
「陰陽師でしょう! 早く!」
梅壺が叫んだ。
先ほどまで勝ち札を欲しがっていた手が、今は扇の骨を折りそうなほど握りしめられている。
「何とかして!」
本当に勝手なことだ。
凶兆を育てたのは誰か。
その餌を撒いたのは誰か。
喰わせろ、と宣った鬼神も、今はまだ夢の向こうにいる。
それでも、文子はもう立っていた。
後宮付きの占い師としてではない。
嫌われ役の女陰陽師として、この場に溜まった澱みを祓うために。
大掛かりな呪具は何も持っていない。
あるのは志乃から借りた扇。
それと、常に懐へ忍ばせている封魔の陰陽札のみだった。
扇は邪魔にならぬよう、左の袂へ収める。
文子は息を整え、先ず右手を上げた。
それから宙へ指を走らせる。
ひと筆ごとに線を繋ぎ、五芒星の桔梗紋を結んだ。
星の最後の一点を閉じた瞬間、指先にぴりりと痺れが走った。
――来る、と判る。
文子は懐から封魔符を抜いた。
白い符は、まだ何ものにも染まっていない。
次いで、唇の端を強く噛む。
鉄の味が広がり、滲んだ血が口の中で赤く溜まった。
文子は二本の指を唇へ当て、その血を拭い取る。
そのまま封魔符の面へ押し当てると、白の上に、赤が生きたもののように走った。
息を吸う。
吐く。
文子は、その符を桔梗紋の中心へ投げつけた。
紙とは思えぬ音を立て、符が宙に突き立つ。
見えないものを貫いたように、血の赤が一瞬、強く脈打った。
――捕らえた。
その一点へ術を通すように、文子は両手で九字護身法を切り始める。
「青龍、白虎、朱雀、玄武」
四つ目を切った瞬間、指先に熱が走った。
違う。
いつもの、形ばかりをなぞる九字ではない。
後宮の灯りが揺れ、伏せられた花札が端からかたかたと顫えた。
空気までもが応えている。
文子は息を吸った。
「勾陳、帝台、文王、三台――玉女……!」
左の手首が、じんと熱を持った。
あの鬼神へ続く結び目が、肌の奥で燃えている。
廊の向こうで、女房の叫びが短く弾けた。
花札の場に残っていた熱が、ぴたりと止まる。
「――物の怪が!」
誰も動かなかった。
若い桐壺は胸元へ抱えた光札を、まるで守り札のように握り込んでいる。
次の瞬間、几帳の外で何かが倒れる音がした。
下げた膳か、燈台か、そうした乾いた音だ。
確かめるより早く、女房たちの足音が乱れ、衣擦れが廊を散っていく。
文子は扇を握り直した。
怪異は、恐れるものではなく見極めるものだ。
祓うか、鎮めるか、それとも喰わせるか。
先ず、名のないものを、名のあるものへ近付ける。
藤壺の局の隅、燈台の火が青く傾いていた。
油を吸った芯の先で、火が細く痩せ、部屋の内側へありえぬ影を落としている。
その青い火の向こうに、女の形をした影があった。
実体はない。
けれど、泣き濡れた袖のような黒い気配が、壁から剥がれるように床へ伸びて来る。
畳の目を擦り、几帳の裾を濡らし、ついには散らばった花札の上へ落ちた。
桐に鳳凰。
梅に鶯。
藤に不如帰。
色鮮やかな札の上を、黒い影がぬるりと這った。
そのたび絵柄の花が、墨を吸ったように沈んでいく。
「陰陽師でしょう! 早く!」
梅壺が叫んだ。
先ほどまで勝ち札を欲しがっていた手が、今は扇の骨を折りそうなほど握りしめられている。
「何とかして!」
本当に勝手なことだ。
凶兆を育てたのは誰か。
その餌を撒いたのは誰か。
喰わせろ、と宣った鬼神も、今はまだ夢の向こうにいる。
それでも、文子はもう立っていた。
後宮付きの占い師としてではない。
嫌われ役の女陰陽師として、この場に溜まった澱みを祓うために。
大掛かりな呪具は何も持っていない。
あるのは志乃から借りた扇。
それと、常に懐へ忍ばせている封魔の陰陽札のみだった。
扇は邪魔にならぬよう、左の袂へ収める。
文子は息を整え、先ず右手を上げた。
それから宙へ指を走らせる。
ひと筆ごとに線を繋ぎ、五芒星の桔梗紋を結んだ。
星の最後の一点を閉じた瞬間、指先にぴりりと痺れが走った。
――来る、と判る。
文子は懐から封魔符を抜いた。
白い符は、まだ何ものにも染まっていない。
次いで、唇の端を強く噛む。
鉄の味が広がり、滲んだ血が口の中で赤く溜まった。
文子は二本の指を唇へ当て、その血を拭い取る。
そのまま封魔符の面へ押し当てると、白の上に、赤が生きたもののように走った。
息を吸う。
吐く。
文子は、その符を桔梗紋の中心へ投げつけた。
紙とは思えぬ音を立て、符が宙に突き立つ。
見えないものを貫いたように、血の赤が一瞬、強く脈打った。
――捕らえた。
その一点へ術を通すように、文子は両手で九字護身法を切り始める。
「青龍、白虎、朱雀、玄武」
四つ目を切った瞬間、指先に熱が走った。
違う。
いつもの、形ばかりをなぞる九字ではない。
後宮の灯りが揺れ、伏せられた花札が端からかたかたと顫えた。
空気までもが応えている。
文子は息を吸った。
「勾陳、帝台、文王、三台――玉女……!」
左の手首が、じんと熱を持った。
あの鬼神へ続く結び目が、肌の奥で燃えている。



