文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 今度こそ、場が(ざわ)めいた。

 女房たちが袖の陰で目配せをする。
 几帳の奥の灯りまで、(わず)かに揺れたように見えた。

 藤壺は、一局でも乾坤一擲なるか否か、算を始めている。
 梅壺は、文子(あやこ)を負かした後の物笑いを思い描いている。
 桐壺は、五局続けて勝つとはどういうことなのか、まだよく呑み込めていない。

「五局などと、随分(ずいぶん)大きく出られましたこと」

 梅壺が扇を開いた。

「お負けになったら?」
「二度と、後宮付きの占い師として、この座へ口を挟みません」
文子(あやこ)!」

 志乃が叫びかけた。
 だが、文子(あやこ)が一瞥すると、口を閉じる。

 梅壺の目が、灯りを拾って艶やかに光った。

「まあァ。陰陽師さまは、お遊びのときも大層なお覚悟ですこと」
「遊びではないと申しました」

 文子(あやこ)は、札の束へ目を落とした。

「それに、算など、陰陽道の骨法でございますもの」

 梅壺の笑みが(わず)かに引き攣った。

「藤壺さま、桐壺さま、よろしいでしょう?」

 梅壺が問う。

「異存はございません」

 藤壺は淡く笑った。
 五局も続けて勝つなど、およそ考えられない。
 そう考えている顔だった。

「わたくしも……」

 桐壺は札を胸に寄せ、躊躇(ためら)いがちに頷いた。

 志乃は情けない顔で、札を取り上げた。
 文子(あやこ)の前へ札を置く手が、いつもより(わず)かに遅い。

「……本当にやるの?」
「志乃」
「はい……」

 この座の花歌留多(かるた)は、後宮の姫たちが独自に整えた規定の花合わせだった。

文子(あやこ)。説明……要る?」

 文子(あやこ)は志乃を一瞥(いちべつ)した。

「この座の規定など、数度見ればすっかり覚えてしまいましたわ」

 手札から一枚を出し、場に同じ月の札があれば合わせて取る。
 続いて山から一枚を返し、それも場札と合えば取る。
 取った札の点と、短冊、種、光の揃いで、一局ごとに勝ちを定める。

 札が畳に伏せられる。
 一枚、二枚、三枚。

 乾いた音が、几帳の内へ整然と落ちていく。
 花の絵が畳の上に並ぶたび、場の熱が一段ずつ上がった。

 洞見の才は使わない。

 今の文子(あやこ)は後宮に押し込められ、行く末を観る才を霧の底へ沈められている。

 だが、使えぬなら使えぬで構わない。
 この場に必要なのは、未来を観る目ではなかった。

 場札。
 手札。
 返された山札。
 指の迷い。
 目線の先。
 息の浅さ。
 誰がどの札に執着し、誰がどの札を嫌うか。

 すべて、目の前に出ている。

 一局目。

 藤壺は安い手で締めに来た。
 短冊を三枚に寄せ、点を大きく伸ばすより先に、小さく確実に勝つ腹だった。

 文子(あやこ)は、藤壺が場へ合わせようとした月を先に払った。
 手札から同じ月の札を滑らせ、場に残っていた一枚を取る。
 続いて山札を返す。
 山から現れた札もまた、場の隅に残っていた同じ月へ合った。

 藤壺の指が、ほんの(わず)かに止まる。

「失礼」

 文子(あやこ)は淡く告げ、取札を整えた。
 高い役ではない。
 けれど藤壺が積もうとしていた短冊の筋を、ちょうど断つ形になっていた。

「……お見事ですわ」

 涼やかだった藤壺の笑みが、紙のように薄くなる。

 一つ目。

 その数を、女房たちが袖の陰で数えた。
 誰も口には出さない。
 けれど、場の内側で確かに一つ、熱が動いた。

 二局目。

 梅壺が大きな手を待つ顔をした。

 いかにも、という顔を、梅壺は隠せない。
 隣の藤壺とは対照的に、直情型の性格をしている。

 ならば、梅壺が欲しがる月を場に残さなければよい。
 梅の札が場へ出た瞬間、文子(あやこ)は手札から同じ月を合わせて取った。
 続いて返した山札は空振りしたが、それでよい。
 梅壺の待ち筋は切れた。

 焦れた梅壺が、一旦(いったん)別の月へ手を伸ばす。
 その隙に、文子(あやこ)は地味な短冊を拾い、総点を上回った。

「二つ目でございます」

 梅壺の扇が、ぱちりと鳴った。

「偶然でしょう」
「ええ。札とは、そういう顔をしておりますものね」

 梅壺の頬に薄く朱が差した。
 羞恥か、怒りか。
 おそらく、その両方だった。

 三局目。

 場の空気が変わった。

 もはや帝妃たちは、文子(あやこ)をただの乱入者として見ていない。
 女陰陽師が花歌留多(かるた)(たしな)むことへの物珍しさは、とうに消えた。

 残っているのは、負けたくないという熱だ。

 藤壺は手堅さを捨て、少し大きな手へ寄せ始めている。
 文子(あやこ)の読みを外すには、意外な筋へ出る(ほか)ないと踏んだのだろう。

 梅壺は(かえ)って小勝ちを狙い、()文子(あやこ)の五連勝を止めようとしていた。
 その怒りが華族の姫らしからぬ顔つきに出るのなら、梅壺ほど読みやすい相手はない。

 藤壺が伸ばした大きな手を警戒し、梅壺の小勝ちを潰す。
 二つの筋を同時に塞げば、場の流れはおのずと絞られる。

 桐壺は何を出すべきか判らなくなり、美しい札を手元で迷わせていた。

 文子(あやこ)は、その全員の迷いを見た。

 札の強弱ではない。
 人の癖だ。

 文子(あやこ)は、誰も欲しがらぬ月の札を場へ合わせた。
 取った札は小さい。
 けれど、続いて返した山札が、場に残っていた短冊へ合った。

 短冊が三枚、文子の前に揃う。

 志乃が小さく息を吸った。
 桐壺は目を丸くする。

「まあ……そんな札で勝てますの?」
「勝てる札と、美しい札は違います」

 言ってから、文子(あやこ)は桐壺を見た。

「ですが、美しい札を手放せぬ御心まで、悪いとは申しません」

 桐壺の頬が、ふっと赤くなった。
 馬鹿にされたのではないと判ったのだろう。

 それが(かえ)って、梅壺の苛立ちを(あお)った。

「いかさまではなくて!? 志乃と結託しているのよ!」

 激した言葉が、横から刺さる。

 文子(あやこ)は、札から目を上げた。

「女学校始まって以来、席次を譲った覚えはございません。まして志乃を抱き込むなどと……」
「えッ。ちょ、文子(あやこ)、そこは否定の仕方があるでしょう」
「勝負の場で不正を疑うなら、せめてご自分の敗け筋くらい、分析してからに遊ばせ」

 梅壺の扇が震えた。
 女房たちの間に、抑え損ねた息の揺れが走る。

 四局目。

 ここから先は、誰も気楽に札を出せなかった。

 藤壺の目が、文子(あやこ)の指先を追う。
 梅壺は、藤壺の手元まで気にし始めた。
 桐壺は光札を持ったまま、いよいよ捨てられぬ顔になっている。

 疑い。
 焦り。
 負けたくないという意地。

 それらが、札の絵の上へ薄く積もっていく。
 梅も、藤も、桐も、美しい花である(はず)なのに、灯りの下で少しずつ色を濁らせて見えた。

 四局目は、点の取り合いになった。

 藤壺が短冊を狙う。
 梅壺が種札を拾う。
 桐壺は光札を抱えたまま、場へ出すべき札を選び損ねる。

 文子(あやこ)は、三人が見つめる札へは触れなかった。

 誰も見ていない月を合わせ、小さな点を重ねる。
 山から返した札が合えば取り、合わねば場に残す。
 残した札が次の手で誰の餌になるかまで、(さき)まわりして考えた。

 派手な役はない。
 けれど、終わってみれば文子の札が一番重かった。

 五局目。

 最早(もはや)誰も笑わない。

 梅壺の扇は、もう口元を隠す役目さえも果たしていない。
 指が扇骨をきつく押さえ、白くなっている。

 藤壺は、今度こそ文子(あやこ)の手元を読もうとしていた。
 鋭い目が、札ではなく文子(あやこ)の呼吸を追う。

 桐壺は光札を取った。
 けれど嬉しそうではない。
 美しい札を持っている(はず)なのに、手の内が重くなっている。

 場の空気が濁り始めていた。

 花の絵は華やかなままなのに、灯りの下で影が濃くなる。
 畳の目の隙間へ、焦げた香のような匂いが沈む。
 誰かの悔しさが、誰かの妬みと絡み、札の上へ薄く積もっていく。

 物の()が餌にするには、あまりに旨い。

 そう思った瞬間、左の手首が熱を持った。

 赤土の苧環(おだまき)の結び目。
 夜ごと夢の奥から近付いて来る鬼神の道標(みちしるべ)

 熱は、飛香舎の内からではなかった。
 几帳の外、渡殿(わたどの)の闇を越えた先。
 後宮の奥、常寧殿(じょうねいでん)の方角から、細い糸を引かれたように疼いた。

 ――見ている。

 なぜ、そう思ったのかは判らない。
 けれど、この場にいない何者かが、飛香舎の灯りを遠くから(みつ)めている。

 札の上へ積もる妬みも。
 帝妃たちの手元に浮く欲も。
 文子(あやこ)が礼を破って座に入ったことさえも。
 影から見届けられていると、そんな気がした。

 最後の巡りになった。

 場には、誰もが欲しがる札が一枚残っている。
 藤壺が取れば短冊が伸びる。
 梅壺が取れば種札が増え、文子(あやこ)の五連勝を止められる。
 桐壺が取れば、役には届かぬが、美しい光札の形が揃う。

 三人の視線が、その一枚へ集まった。

 文子(あやこ)は動かなかった。

 ほんの(わず)かな間。

 藤壺の指が、先に動きかけた。
 梅壺の息が浅くなる。
 桐壺の目が札の絵に吸い寄せられる。

 その一拍遅れて、文子(あやこ)は手札から、地味な(かす)札を一枚出した。
 場の隅に残っていた同じ月の札へ合わせる。

「え?」

 桐壺が思わず漏らした。

 誰も見ていなかった札だった。
 点も低い。
 絵柄も目立たない。
 けれど、それで場の流れが閉じる。

 文子(あやこ)は、続いて山札を返した。

 薄い短冊が、畳の上へ表を向ける。
 その月の札は、場に残っていた。

 志乃が盤面を(のぞ)き込み、次いで、ひゅっと息を吸った。

「……短冊が、揃ってる」

 文子(あやこ)は取札を伏せ、五局目の役を示した。

「これで、五局目でございます」

 誰も言葉を返さなかった。