文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 花札の賭場(とば)は、藤壺女御の飛香舎(ひぎょうしゃ)に設けられていた。

 その夜、志乃は初め、「見に行くだけだから」と言っていた(はず)だった。

「行くっきりよ。余計なものなんて持って来てないからね」
「では、なぜ行く必要が。わたくしも扇なんて持って来ていないわよ」
「じゃあ、貸してあげる」

 言うなり、志乃(しの)は袖の内から扇子を一本取り出した。

「……志乃でも、扇子なんて持つことがあるのね」

 文子(あやこ)が呆れる間にも、志乃はにこにこと扇を差し出してくる。
 用意が良すぎる。
 つまり、初めから文子を連れて行く腹積もりだったのだ。

 その上、志乃は文子の袖を(つか)み、半ば引きずるように渡殿(わたどの)を進んでいく。
 見に行くというより、最早(もはや)、連行だった。

 どうしてこの娘が典侍(ないしのすけ)なのか。

 ふと疑問に思いかけて、確か紬路(つつじ)が推したことを思い出した。
 ならば納得できるような、余計に判らなくなるような。

 飛香舎(ひぎょうしゃ)に近付くと、女たちの笑いと、札の触れ合う乾いた音が漏れ聞こえて来た。

 幾重もの几帳の内へ通されると、そこには三人の帝妃がいた。
 藤壺、梅壺、桐壺。

 今宵は、弘徽殿が主上(おかみ)御座所(おましどころ)へ召されているのかもしれない。

 選ばれた一人が夜の務めへ向かい、残された三人が札を切る。
 退屈を紛らわせているようでいて、その実、選ばれなかった夜を数えているのだ。

 誰も弘徽殿の名を口にしない。
 けれど空いた一人分の座は、そこにいない姫の存在を、かえって濃くしていた。

 誰が何度召されたか。
 誰の香が主上(おかみ)の御座所に残ったか。
 誰の衣が明朝、噂になるか。

 札の勝ち負けとは別のところで、三人はとうに競っていた。

 しかし、花札は四人で囲むものではなかったか。
 では、空いている一人分は誰の席なのか。

 文子(あやこ)は、志乃を横目で見た。
 志乃は大層晴れがましい顔で、すでに座へ進み出ているところだった。

「それでは始めましょう。札をお配りいたしますね」

 志乃が女房へ目配せすると、塗りの盆に載せられた花札が運ばれて来た。

 志乃(しの)が来るまで、帝妃たちは札に手を付けていなかった。
 つまり、この(みだ)れを止めるべき典侍(ないしのすけ)が、座の四人目として数えられている。

 文子(あやこ)は、膝の上で借り物の扇を握り潰しそうになった。

 札を切る手は、取り締まる者のものではない。
 志乃は袖を少したくし上げ、慣れた様子で札を()った。
 文子(あやこ)は思わず目を丸くしてしまう。

 絵柄の向きを整える指が早い。
 札の立てる音が小気味よい。
 帝妃たちの頬は、胡粉(おしろい)の下からほんのり上気していた。

 配り終えた後も、志乃はその場を離れない。
 どの札がどこへ回ったかまでは見ていない、という顔をしている。
 けれど目の端は、明らかに札の流れを追っていた。

 司会ですから、という顔で、時折、三人の斜め後ろから手札を(のぞ)き込む。
 その姿勢が、妙に前のめりだった。

 藤壺が札を取ると、志乃の目が動く。
 梅壺が手札を入れ替えると、唇が動く。
 桐壺が光札に迷えば、言いたくてたまらぬ助言を呑み込むように、袖の端を噛みそうになる。

 明らかに、自分も参加したくて仕方がない顔だった。

 文子(あやこ)は、(ようや)く悟った。
 弘徽殿が不在で三人なのは、もともと志乃が加わる心算(つもり)だったからだろう。
 こうして司会だの札配りだのと言いながら、少しずつ場へ取り込まれていったに違いない。

 なるほど。
 好意的に見れば、志乃は選ばれなかった三人の夜に、四人目として自分を差し出していたのだ。

 召された姫の空席を、明るく埋めてやる気で。
 そして誰より楽しそうな顔をして。

 それが厄介なのだ。
 悪意がない分、あの紬路(つつじ)でさえも、志乃を止め難かったのだろう。

「藤壺さま、お早いですわ」
「安い手でございますもの」

 藤壺が(すず)やかに言い、さほど高くない役で上がった。

 派手さはない。
 けれど、確実な手だった。

 無理に光札を待たず、取れるところで取る。
 場に出た札を覚え、誰が何を欲しがっているかを読み、損をしないところで締める。

 大勝ちは狙わない。
 けれど、負けもしない。
 いかにも藤壺らしい、薄く小勝ちを積む手筋(てすじ)だった。

「まあ、もう上がってしまわれるの?」

 梅壺が唇を(とが)らせた。
 その手元には、まだ捨てられぬ札がいくつもある。

 大きな手を狙っているのだ。
 待って、待って、更に待つ。
 勝てば一気に場を(さら)えると信じている顔だった。

 昨夜、帝の寝所に居座ろうとした時と似ている。
 涙を重ね、言い訳を重ね、最後に帝の夜を取ろうとする。
 札でも同じ手を使っているのだと、文子(あやこ)は胸の内で見切った。

「せっかく桐が来たところでしたのよ」

 桐壺(きりつぼ)更衣(こうい)が、小さく札を持ち上げて見せて回った。

 桐に鳳凰。
 黒地に大ぶりな桐の葉、その上へ金の尾を()いた鳥が翼を伏せている。

 光札だ。
 見た途端、場へ出すべきか、手元に残すべきか、迷いが出たのが判った。

 桐壺は、よい札を見ると切れない。
 美しいものを手元に残したくなる。

 役として弱くとも、花が美しい、月が美しい、鳥が可愛い。
 その多情さが、花札の場に出てしまう。

 こうした若く危うげなところが、帝の御心(みこころ)を捉えたのだろう。

 見れば、淡い御召(おめし)し物にも五七桐が金糸で散らされ、袖を動かすたび、ひらひらと灯りを拾っている。
 愛らしく、華やかで、否応なく目立つ。

 後宮で目立つということは、そのまま的になるということだった。

 数度、勝負を見た。

 文子(あやこ)は扇を開き、涼むふりをしながら女御たちの手元を(うかが)った。

 藤壺は安い手でも堅く積む。
 梅壺は大きな手を狙って、何度か空振りする。
 桐壺は美しい札に心を奪われ、どの札を揃える気なのか読めない。

 気まぐれに見えて、場の読みを乱す一番の伏兵だった。

 だが、数回分を合わせると、勝ち負けは意外にも似たり寄ったりだった。

 だから余計に厄介なのだ。

 誰かが圧倒的に勝っているなら、場は白ける。
 誰かが一人負けしているなら、周りは少し手を緩める。
 だが、皆が少しずつ勝ち、少しずつ負けるなら、次こそはと思ってしまう。

 札は人を縛る。
 勝ちたい心を、実に巧みに(あお)る。

「次は、何を賭けましょうか」

 梅壺がその時、焦れたように口の端へ乗せた。
 勝負そのものより、賭ける物へ心が傾いた気配がある。

 文子(あやこ)の眉が、(わず)かに動いた。

「梅壺さま、それは……」

 文子(あやこ)の前では言わないで。
 そう続けかけた言葉を、志乃が慌てて呑み込む。

 もう遅い。
 今さら見なかった振りをしてやる義理はない。

 後宮の遊びは、ここで終わりにしてやるわ。
 けれども、帝妃たる嗜みとは、と説いたところで――。
 文子(あやこ)は考えた。

 女学校の廊下にお転婆令嬢を並ばせたときとは違うのだ。

 ならば――。

文子(あやこ)?」

 文子(あやこ)は返事をせず、志乃の隣へ進んだ。
 札を配るために空けられていた座へ、膝を折る。

 文子(あやこ)は閉じていた扇を、そっと畳の上へ置いた。

 茶の席であれ、後宮の座であれ、扇は境だ。
 膝前に据えると、そこから先へ踏み込むなという無言の結界になる。

 志乃が、いよいよひどく文子(あやく)の顔色を(うかが)う顔をした。

文子(あやこ)、あの、これは……」
「志乃。札を配りなさい」
「え」
「配りなさい、と申しました。早くね。得意でしょう?」

 志乃は、ぱちぱちと(またた)きをした。

 後宮を取り締まってほしいと頼んだのは、この娘だ。
 だが、その取り締まり方が、まさか文子(あやこ)自身まで座に入ることだとは考えてもいなかったのだろう。

「まあァ」

 梅壺が笑った。
 その一音に、花の香へ混じる毒が乗る。

「陰陽師さまも、お遊びになるの?」
「遊びではございません」

 文子(あやこ)は、正面に座す三人を順に見た。

 藤壺は涼やかな顔のまま、札の束から目を離さない。
 梅壺は勝てる相手を見つけたように唇を上げている。
 桐壺は困惑と期待を、同じ瞳の中で揺らしていた。

「わたくしが五局続けて勝ちましたら、今宵を限りに花歌留多(かるた)はおやめいただきます」

 ああ、母が見たら卒倒するわね、と文子(あやこ)は思った。

 後宮の(みだ)れを正す役目まで、賭け札の上へ載せてしまった。
 華族の娘としても、陰陽師としても、行儀のよい振る舞いではない。

 けれど、礼を尽くして退かぬ相手には、他筋から勝つより(ほか)なかった。