共に朝餉を摂ったあと、志乃は政務のため意気軒昂と外廷へ出て行った。
昼間は畏れ多くも、政務を執られる主上の傍らに侍っているらしい。
殿上人たちの奏上の取り次ぎや細かな段取りは、もとは蔵人の領分である。
おそらく志乃は、にこにこと座りながら、要るもののみを拾い、要らぬものは聞き流しているのだろう。
まったく、度胸と行動力については一級品だ。
志乃が行ってしまうと、文子は文机へ寄った。
途中になっていた占状へ筆を戻そうとしたところで、廂の向こうから衣擦れの音がした。
文子の筆先が、料紙の上で止まる。
足音が近づくより早く、聞き慣れた声がした。
「おはよう、文子」
志乃と入れ替わるように、紬路が昭陽北舎へ戻って来た。
東宮の御座所からの帰りなのだろう。
淡い藤色の打掛を纏い、髪には白檀の移り香がある。
歩みはいつも通り優雅だが、目元には満ち足りた眠たさが残っていた。
「もう昼前よ」
「では、お昼ようございます」
紬路は悪びれもせず、几帳の陰へ腰を下ろした。
東宮妃になっても、朝寝の癖は直っていないようだ。
この友人には、志乃のような押しの強さはない。
紬路は紬路で、自分の世界を優雅に押し通す娘だった。
「志乃と入れ違いになったわ。今度は何を押し付けられたの? 随分不服そうな顔をしているわよ」
「後宮を取り締まれ、ですって」
「……あら!」
紬路は袖の内から扇を取り出し、指先のみでゆるりと開いた。
淡い紙面を唇へ当てる仕草まで、東宮妃らしく整っている。
それでも笑いを隠すには足りなかった。
隠した筈の笑みが、目許の辺りへありありと滲んでいる。
「それはまた、ぴったりね」
「あなたまで……」
「だって、女学校の風紀委員だったもの」
志乃と同じことを言い出す。
親友というものは、時に別々の口で同じ古傷を突いてくるらしい。
志乃は勢いで押し込み、紬路は微笑みながら逃げ道を塞ぐ。
やり方は違うのに、行き着く先はよく似ていた。
「お行儀の悪い令嬢を一列に並ばせる時の、毅然とした美しさがもう一度見られるわね」
褒めているのか、懐かしんでいるのか。
はたまた喧嘩を売っているのか。
文子は、寝不足のまま親友を見た。
「あなたはどうなの。まさか紬路まで花札などしていないでしょうね」
「わたくしは着物に夢中ですから」
迷いのない返事だった。
花札など、この友人の中では最初から天秤に載っていないのだろう。
「札に賭ける暇があるなら、新しい絵羽でも考えるわ」
「まあ、それがいいわね。ああいう賭け事は、記憶力と確率計算の速さが物を言うのよ。あと札を繰っている妃の性格を読むことね」
「えぇ、あなたの領分だわね」
紬路は涼しい顔で言った。
また、首席卒業を匂わされた。
本人たちに悪気はないのだろう。
女学校で一番だったことなど、今の後宮では何の役にも立たない。
「それに、衣の扱いは政同然だわ」
紬路の言う通りだった。
内裏では、衣一つもただの飾りではない。
染めを任せられる実家の力。織りを揃える財。
仕立てを選ぶ目、新しい流行を作る感覚、季節を外さぬ嗅覚。
それらが重なって、品格になる。
品格はやがて、人の目を集める力になる。
ひいては権力に結び付くのだ。
「だから、後宮で花札が流行っているのも、ただの遊びでは済まないのよ」
紬路は扇を閉じた。
花札――花加留多のことだ。
「今、後宮では花札が流行っているの。弘徽殿さま、藤壺さま、梅壺さま、桐壺さま。あの四帝妃が特に熱心に競われていらしてね」
名を聞いた途端、文子の脳裡に、厄介事の札が見事に四枚並んだ。
どれを引いても、面倒の役が揃う気しかしない。
「殊に梅壺さまなんて『梅に鶯』札で勝つのは吉兆、などと、すぐ煽り文句を申されるのですもの。まあ、喧嘩になるわよね」
弘徽殿の女御。
実家である宮家の権勢も、本人の気位も人一倍高い。
やんごとなき血筋を武器に、後宮の中央から主導権を握ろうとする姫だ。
藤壺の女御。
内大臣を後見に持つ姫で、控えめな微笑の奥で、誰より周囲を冷静に見ている姫だ。
香も文も歌も、何一つ外さない手堅い策略家であり、当然ながら勝負事は嫌いではない。
梅壺の女御。
つい先だって、帝の御寝所から退かなかった右大臣家の姫だ。
泣き顔と欲を同じ袖にしまい込む器用さは、文子も身をもって知った許りである。
そして桐壺の更衣。
身分こそ三帝妃に劣るが、若く華があり、帝の寵愛を独り占めにしていると噂されている。
だからこそ、上の女御たちからは目障りに思われているはずだった。
「四人で札を?」
「ええ。始めは可愛らしいものだったの。香包み、珍しい象牙の扇、ちょっとした船来の砂糖菓子。……それに、勝った方から献上品を選んで下賜される順番、くらいの」
「今は?」
「勝った姫が、自分の誂えた衣を主上へ差し上げることになっているそうよ。志乃がどの御衣をお目通しへ回すか、取り次いでいるもの。賭け易いのよ」
文子は思わず、筆を取り落としそうになった。
「……人に面倒を押し付けておきながら、しっかり加担してるじゃない」
「えぇ。ここまで行くともう、遊びの顔をした寵争いね。……志乃には最初から遊びでしょうけど」
紬路は再び微笑んだが、今度は目許が少しも笑っていない。
華族の姫らしい嗜みのうちに、言外の含みを忍ばせている。
着物を愛する姫としての怒りが、薄い香のように滲んでいた。
「畏れ多くも主上の御衣を整えるということは、その家がどれほどよい荘園を持ち、どれほどよい糸を納めさせ、どれほど腕のよい機織り娘や染め師を抱えているかを見せることでもあるでしょう」
文子は黙って頷いた。
帝の御衣に、自分の色を差し出す。
それは、帝の肌へ最も近いところに、実家の力と己の趣味を滑り込ませるのと同じだ。
勝った札の名は、そのまま後宮の噂になる。
弘徽殿が勝てば、やはり弘徽殿さまこそ第一。
藤壺が勝てば、手堅く帝の信を得ていると頷く。
梅壺が勝てば、また梅壺かと女房たちが袖の陰で囁く。
桐壺が勝てば、身分は低くとも寵は本物、といった調子だ。
札の勝敗が、いつの間にか寵愛の順位に化ける。
「しかも皆、真剣になっているの。もう遊びの目ではないわ。札を引く指先まで怖いのよ」
「見たことあるの?」
「志乃に連れていかれたのよ。しかも、一番楽しそうに札を切っていたの!」
そこまで聞いて、文子は額を押さえた。
帝妃たちの真ん中で、志乃がにこにこと場を仕切っている光景が、見てもいないのに浮かんでしまう。
「取り締まる側でしょう、あの子は」
「本人は、場を和ませている心算のようだったわ」
「最悪ね」
「あれでは誰も止まらないわ。むしろ止める者がいないと判って、更に熱くなっている」
紬路は、乱れかけた心まで整えるように、袖の端を撫で付けた。
紬路が腹を立てているのは、賭け事そのものではない。
帝の御衣を、花札の景品にまで貶める浅ましさだった。
「暇なのよ。……わたくしは着物に命を懸けますけれど」
その一言は、さり気ないものだった。
けれど、後宮の痛い核心を突いていた。
「暇だから札を切る。札を切るから勝ちたくなる。勝ちたくなるから、賭ける物が欲しくなる。賭ける物が欲しくなるから、帝の御衣に手を伸ばす。仕様もないわ」
文子には、返す言葉も見つからなかった。
几帳の向こう、昼の灯りの届きにくい隅が、ふと薄く翳った気がした。
後宮では物の怪の噂が増えている。
それを姫たちの我がままと片付けるには、今聞いた話はあまりに符号が合い過ぎていた。
札を引くたびに、勝ったの負けたのと心が揺れる。
帝の御衣を差し出すたびに、妬みと誇りが積もる。
笑っている顔の下で、誰もが相手を牽制し、出し抜こうとしている。
その隙間に、何かが棲みつく。
畳の目に落ちた埃のように、初めは誰にも見咎められない。
けれど夜ごと人の恨みを吸い、嫉妬を喰らい、いつしか形を持つ。
物の怪が餌にするには、さぞ旨い場だろう。
昼間は畏れ多くも、政務を執られる主上の傍らに侍っているらしい。
殿上人たちの奏上の取り次ぎや細かな段取りは、もとは蔵人の領分である。
おそらく志乃は、にこにこと座りながら、要るもののみを拾い、要らぬものは聞き流しているのだろう。
まったく、度胸と行動力については一級品だ。
志乃が行ってしまうと、文子は文机へ寄った。
途中になっていた占状へ筆を戻そうとしたところで、廂の向こうから衣擦れの音がした。
文子の筆先が、料紙の上で止まる。
足音が近づくより早く、聞き慣れた声がした。
「おはよう、文子」
志乃と入れ替わるように、紬路が昭陽北舎へ戻って来た。
東宮の御座所からの帰りなのだろう。
淡い藤色の打掛を纏い、髪には白檀の移り香がある。
歩みはいつも通り優雅だが、目元には満ち足りた眠たさが残っていた。
「もう昼前よ」
「では、お昼ようございます」
紬路は悪びれもせず、几帳の陰へ腰を下ろした。
東宮妃になっても、朝寝の癖は直っていないようだ。
この友人には、志乃のような押しの強さはない。
紬路は紬路で、自分の世界を優雅に押し通す娘だった。
「志乃と入れ違いになったわ。今度は何を押し付けられたの? 随分不服そうな顔をしているわよ」
「後宮を取り締まれ、ですって」
「……あら!」
紬路は袖の内から扇を取り出し、指先のみでゆるりと開いた。
淡い紙面を唇へ当てる仕草まで、東宮妃らしく整っている。
それでも笑いを隠すには足りなかった。
隠した筈の笑みが、目許の辺りへありありと滲んでいる。
「それはまた、ぴったりね」
「あなたまで……」
「だって、女学校の風紀委員だったもの」
志乃と同じことを言い出す。
親友というものは、時に別々の口で同じ古傷を突いてくるらしい。
志乃は勢いで押し込み、紬路は微笑みながら逃げ道を塞ぐ。
やり方は違うのに、行き着く先はよく似ていた。
「お行儀の悪い令嬢を一列に並ばせる時の、毅然とした美しさがもう一度見られるわね」
褒めているのか、懐かしんでいるのか。
はたまた喧嘩を売っているのか。
文子は、寝不足のまま親友を見た。
「あなたはどうなの。まさか紬路まで花札などしていないでしょうね」
「わたくしは着物に夢中ですから」
迷いのない返事だった。
花札など、この友人の中では最初から天秤に載っていないのだろう。
「札に賭ける暇があるなら、新しい絵羽でも考えるわ」
「まあ、それがいいわね。ああいう賭け事は、記憶力と確率計算の速さが物を言うのよ。あと札を繰っている妃の性格を読むことね」
「えぇ、あなたの領分だわね」
紬路は涼しい顔で言った。
また、首席卒業を匂わされた。
本人たちに悪気はないのだろう。
女学校で一番だったことなど、今の後宮では何の役にも立たない。
「それに、衣の扱いは政同然だわ」
紬路の言う通りだった。
内裏では、衣一つもただの飾りではない。
染めを任せられる実家の力。織りを揃える財。
仕立てを選ぶ目、新しい流行を作る感覚、季節を外さぬ嗅覚。
それらが重なって、品格になる。
品格はやがて、人の目を集める力になる。
ひいては権力に結び付くのだ。
「だから、後宮で花札が流行っているのも、ただの遊びでは済まないのよ」
紬路は扇を閉じた。
花札――花加留多のことだ。
「今、後宮では花札が流行っているの。弘徽殿さま、藤壺さま、梅壺さま、桐壺さま。あの四帝妃が特に熱心に競われていらしてね」
名を聞いた途端、文子の脳裡に、厄介事の札が見事に四枚並んだ。
どれを引いても、面倒の役が揃う気しかしない。
「殊に梅壺さまなんて『梅に鶯』札で勝つのは吉兆、などと、すぐ煽り文句を申されるのですもの。まあ、喧嘩になるわよね」
弘徽殿の女御。
実家である宮家の権勢も、本人の気位も人一倍高い。
やんごとなき血筋を武器に、後宮の中央から主導権を握ろうとする姫だ。
藤壺の女御。
内大臣を後見に持つ姫で、控えめな微笑の奥で、誰より周囲を冷静に見ている姫だ。
香も文も歌も、何一つ外さない手堅い策略家であり、当然ながら勝負事は嫌いではない。
梅壺の女御。
つい先だって、帝の御寝所から退かなかった右大臣家の姫だ。
泣き顔と欲を同じ袖にしまい込む器用さは、文子も身をもって知った許りである。
そして桐壺の更衣。
身分こそ三帝妃に劣るが、若く華があり、帝の寵愛を独り占めにしていると噂されている。
だからこそ、上の女御たちからは目障りに思われているはずだった。
「四人で札を?」
「ええ。始めは可愛らしいものだったの。香包み、珍しい象牙の扇、ちょっとした船来の砂糖菓子。……それに、勝った方から献上品を選んで下賜される順番、くらいの」
「今は?」
「勝った姫が、自分の誂えた衣を主上へ差し上げることになっているそうよ。志乃がどの御衣をお目通しへ回すか、取り次いでいるもの。賭け易いのよ」
文子は思わず、筆を取り落としそうになった。
「……人に面倒を押し付けておきながら、しっかり加担してるじゃない」
「えぇ。ここまで行くともう、遊びの顔をした寵争いね。……志乃には最初から遊びでしょうけど」
紬路は再び微笑んだが、今度は目許が少しも笑っていない。
華族の姫らしい嗜みのうちに、言外の含みを忍ばせている。
着物を愛する姫としての怒りが、薄い香のように滲んでいた。
「畏れ多くも主上の御衣を整えるということは、その家がどれほどよい荘園を持ち、どれほどよい糸を納めさせ、どれほど腕のよい機織り娘や染め師を抱えているかを見せることでもあるでしょう」
文子は黙って頷いた。
帝の御衣に、自分の色を差し出す。
それは、帝の肌へ最も近いところに、実家の力と己の趣味を滑り込ませるのと同じだ。
勝った札の名は、そのまま後宮の噂になる。
弘徽殿が勝てば、やはり弘徽殿さまこそ第一。
藤壺が勝てば、手堅く帝の信を得ていると頷く。
梅壺が勝てば、また梅壺かと女房たちが袖の陰で囁く。
桐壺が勝てば、身分は低くとも寵は本物、といった調子だ。
札の勝敗が、いつの間にか寵愛の順位に化ける。
「しかも皆、真剣になっているの。もう遊びの目ではないわ。札を引く指先まで怖いのよ」
「見たことあるの?」
「志乃に連れていかれたのよ。しかも、一番楽しそうに札を切っていたの!」
そこまで聞いて、文子は額を押さえた。
帝妃たちの真ん中で、志乃がにこにこと場を仕切っている光景が、見てもいないのに浮かんでしまう。
「取り締まる側でしょう、あの子は」
「本人は、場を和ませている心算のようだったわ」
「最悪ね」
「あれでは誰も止まらないわ。むしろ止める者がいないと判って、更に熱くなっている」
紬路は、乱れかけた心まで整えるように、袖の端を撫で付けた。
紬路が腹を立てているのは、賭け事そのものではない。
帝の御衣を、花札の景品にまで貶める浅ましさだった。
「暇なのよ。……わたくしは着物に命を懸けますけれど」
その一言は、さり気ないものだった。
けれど、後宮の痛い核心を突いていた。
「暇だから札を切る。札を切るから勝ちたくなる。勝ちたくなるから、賭ける物が欲しくなる。賭ける物が欲しくなるから、帝の御衣に手を伸ばす。仕様もないわ」
文子には、返す言葉も見つからなかった。
几帳の向こう、昼の灯りの届きにくい隅が、ふと薄く翳った気がした。
後宮では物の怪の噂が増えている。
それを姫たちの我がままと片付けるには、今聞いた話はあまりに符号が合い過ぎていた。
札を引くたびに、勝ったの負けたのと心が揺れる。
帝の御衣を差し出すたびに、妬みと誇りが積もる。
笑っている顔の下で、誰もが相手を牽制し、出し抜こうとしている。
その隙間に、何かが棲みつく。
畳の目に落ちた埃のように、初めは誰にも見咎められない。
けれど夜ごと人の恨みを吸い、嫉妬を喰らい、いつしか形を持つ。
物の怪が餌にするには、さぞ旨い場だろう。



