「何でもいいよ。身に覚えのあることを。……見たもの、など」
見たもの。
そう言われても、すぐに浮かぶものはなかった。
死に戻りを経験したことを話す訳にはいかなかった。
だが、再びこうして生きていることには確かに重大な何かが隠されている気はしている。
一度目の裁きの根。
瓦版に書かれた真実。右大臣家の影。都を乱す咒い。
そうしたものの筈だ。
伊織は唇を引き結んだ。
「……何も、知りません」
「何も? 何もなくて、仕立て上げられてまで冤罪になるかねえ」
「わたしは、大それたものなど見ていません。右大臣家の者と密談したわけでも、咒いの道具を運んだわけでもありません。むしろ、あなたがどうして、そのようにお書きになったのかを知りたいくらい」
「それはまた後に話そう。……では、どうして処刑されかけたと?」
軽い問い方だった。
けれど紙の上で筆を取る手は、少しも遊んでいない。
正衡はもう書いている。伊織の言葉を、逃さず拾うために。
「……言った通りです。わたしが聞きたいくらいです」
「それは困りましたね。こちらは命を賭けて瓦版を刷ったのに、肝心の証人殿が何も知らないと仰言る」
「本当に知らないのです」
言いながら、胸の奥が冷えた。
何も知らないから、殺される筈がない。
そう思えたなら、まだ良かった。
けれど伊織は、すでに一度死んでいる。
知らぬまま処刑された。
知らぬまま、罪人にされた。
ならば自分は、知らない何かのために殺されたのだ。
「瓦版には、こう書きました。橋下の機織り娘は偽証人にあらず。真に罪を隠したるは、右大臣家の影。……さて、橋下の機織り娘殿。あなたは何を織っていたのです?」
正衡は墨の付いた指で、瓦版の端を軽く叩いた。
「……普通の布です」
「普通とは?」
問いは軽い。
けれど、膝の上の紙へ走る筆は少しも止まらない。
「頼まれた布。多くは太物です。端切れなどの寄せ集めで、高いものではありません。糸も、上等なものではありませんでしたが」
「が?」
「機織り機が盗まれてしまったのです」
「ふーん。機織り機がねえ」
その一語に、伊織の指が止まった。
黒い羽織の襟を握る手に、力が入る。
晒し場の冷えとは違うものが、胸の内に戻ってくる。
機の音。
踏み木を踏む足裏の感覚。
経糸の向こうで、少しずつ布が生まれていく手応え。
「……機織り機は、母のものでした」
言ってから、目の奥が熱くなった。
母の機織り機。
伊織が母から受け継いだ、唯一のもの。
糸を掛け、足で踏み、手で打つ。
経糸と緯糸が交わるたび、何かが形になる、あの感触。
足を置く板も、手で打つ筬も、擦れて古びていたが、母の手の形が残っているようだった。
家と呼べるほど立派な屋根はなかったし、機織り機が無くなってからはいよいよ困窮して、物乞いしなければ食べられない日もあった。
「それは今どこにあると?」
「判りません」
思い出したくないのに、言葉にすると、あの日の音が戻ってくる。
戸が乱暴に開かれた音。
土足で踏み込まれる音。
機の足を引きずる音。
伊織は泣かなかった。
泣けば殴られると判っていたからだ。
機に縋ることも我慢した。
縋れば、もっと面白がられる。
これは母のものだ。
これがなければ働けない。
布を織れなければ、食べるものにも事欠く。
そう訴えても、男たちは聞かなかった。
彼らは借りを取り立てに来たのではない。
金目の物を奪いに来たのでもない。
最初から、機だけを目当てに来ていた。
「都を乱す咒具を隠しているとの訴えがある」
そう言って、男たちは家の中を検めたのだ。
粗末な衣。
欠けた椀。
母が残した古い糸巻き。
そのどれにも目をくれず、まっすぐ機へ向かった。
伊織はそこで、怖くなった。
なぜ、この人たちは、この家の機を持って行くのだろう。
なぜ、他のものには目もくれないのだろう。
男の一人が、伊織の腕を掴もうとした。
泣き叫ばれぬように押さえるためだったのか。
それとも、もっと別の卑しい意図があったのかは判らない。
けれど、その指が肌へ届く寸前、空気が張った。
細い糸が走るようだった。
目には見えない。
けれど、伊織と男の手の間に、何かが確かに編まれた。
男の指は弾かれた。
ばちり、と乾いた音がして、男が手を押さえて呻く。
「何だ、今のは」
「この娘、妙な咒いを……」
伊織にも判らなかった。
ただ、こういうことは、それまでにも何度かあった。
夜道で袖を掴まれた時。
仕事の代金を渋った男に奥へ引き摺られかけた時。
橋の下で、酔った男に髪を掴まれた時。
誰かが伊織を踏みにじろうとするたび、触れられる寸前で、見えない糸が張った。
相手の手は弾かれ、時には恐れられ、時には石を投げられた。
化け物め、と言われた。
咒い女、と唾を吐かれた。
それでも伊織は、その力を自分のものだとは思っていなかった。
ただ、誰からもまともに触れられぬほど、自分は汚れたものなのだと思っていた。
そう考える方が、まだ楽だった。
男たちは顔色を変えた。
けれど逃げはしなかった。
伊織に触れられないなら、なおさら機を奪えばよい。
そう決めたように、男たちは古びた機を担ぎ上げた。
見たもの。
そう言われても、すぐに浮かぶものはなかった。
死に戻りを経験したことを話す訳にはいかなかった。
だが、再びこうして生きていることには確かに重大な何かが隠されている気はしている。
一度目の裁きの根。
瓦版に書かれた真実。右大臣家の影。都を乱す咒い。
そうしたものの筈だ。
伊織は唇を引き結んだ。
「……何も、知りません」
「何も? 何もなくて、仕立て上げられてまで冤罪になるかねえ」
「わたしは、大それたものなど見ていません。右大臣家の者と密談したわけでも、咒いの道具を運んだわけでもありません。むしろ、あなたがどうして、そのようにお書きになったのかを知りたいくらい」
「それはまた後に話そう。……では、どうして処刑されかけたと?」
軽い問い方だった。
けれど紙の上で筆を取る手は、少しも遊んでいない。
正衡はもう書いている。伊織の言葉を、逃さず拾うために。
「……言った通りです。わたしが聞きたいくらいです」
「それは困りましたね。こちらは命を賭けて瓦版を刷ったのに、肝心の証人殿が何も知らないと仰言る」
「本当に知らないのです」
言いながら、胸の奥が冷えた。
何も知らないから、殺される筈がない。
そう思えたなら、まだ良かった。
けれど伊織は、すでに一度死んでいる。
知らぬまま処刑された。
知らぬまま、罪人にされた。
ならば自分は、知らない何かのために殺されたのだ。
「瓦版には、こう書きました。橋下の機織り娘は偽証人にあらず。真に罪を隠したるは、右大臣家の影。……さて、橋下の機織り娘殿。あなたは何を織っていたのです?」
正衡は墨の付いた指で、瓦版の端を軽く叩いた。
「……普通の布です」
「普通とは?」
問いは軽い。
けれど、膝の上の紙へ走る筆は少しも止まらない。
「頼まれた布。多くは太物です。端切れなどの寄せ集めで、高いものではありません。糸も、上等なものではありませんでしたが」
「が?」
「機織り機が盗まれてしまったのです」
「ふーん。機織り機がねえ」
その一語に、伊織の指が止まった。
黒い羽織の襟を握る手に、力が入る。
晒し場の冷えとは違うものが、胸の内に戻ってくる。
機の音。
踏み木を踏む足裏の感覚。
経糸の向こうで、少しずつ布が生まれていく手応え。
「……機織り機は、母のものでした」
言ってから、目の奥が熱くなった。
母の機織り機。
伊織が母から受け継いだ、唯一のもの。
糸を掛け、足で踏み、手で打つ。
経糸と緯糸が交わるたび、何かが形になる、あの感触。
足を置く板も、手で打つ筬も、擦れて古びていたが、母の手の形が残っているようだった。
家と呼べるほど立派な屋根はなかったし、機織り機が無くなってからはいよいよ困窮して、物乞いしなければ食べられない日もあった。
「それは今どこにあると?」
「判りません」
思い出したくないのに、言葉にすると、あの日の音が戻ってくる。
戸が乱暴に開かれた音。
土足で踏み込まれる音。
機の足を引きずる音。
伊織は泣かなかった。
泣けば殴られると判っていたからだ。
機に縋ることも我慢した。
縋れば、もっと面白がられる。
これは母のものだ。
これがなければ働けない。
布を織れなければ、食べるものにも事欠く。
そう訴えても、男たちは聞かなかった。
彼らは借りを取り立てに来たのではない。
金目の物を奪いに来たのでもない。
最初から、機だけを目当てに来ていた。
「都を乱す咒具を隠しているとの訴えがある」
そう言って、男たちは家の中を検めたのだ。
粗末な衣。
欠けた椀。
母が残した古い糸巻き。
そのどれにも目をくれず、まっすぐ機へ向かった。
伊織はそこで、怖くなった。
なぜ、この人たちは、この家の機を持って行くのだろう。
なぜ、他のものには目もくれないのだろう。
男の一人が、伊織の腕を掴もうとした。
泣き叫ばれぬように押さえるためだったのか。
それとも、もっと別の卑しい意図があったのかは判らない。
けれど、その指が肌へ届く寸前、空気が張った。
細い糸が走るようだった。
目には見えない。
けれど、伊織と男の手の間に、何かが確かに編まれた。
男の指は弾かれた。
ばちり、と乾いた音がして、男が手を押さえて呻く。
「何だ、今のは」
「この娘、妙な咒いを……」
伊織にも判らなかった。
ただ、こういうことは、それまでにも何度かあった。
夜道で袖を掴まれた時。
仕事の代金を渋った男に奥へ引き摺られかけた時。
橋の下で、酔った男に髪を掴まれた時。
誰かが伊織を踏みにじろうとするたび、触れられる寸前で、見えない糸が張った。
相手の手は弾かれ、時には恐れられ、時には石を投げられた。
化け物め、と言われた。
咒い女、と唾を吐かれた。
それでも伊織は、その力を自分のものだとは思っていなかった。
ただ、誰からもまともに触れられぬほど、自分は汚れたものなのだと思っていた。
そう考える方が、まだ楽だった。
男たちは顔色を変えた。
けれど逃げはしなかった。
伊織に触れられないなら、なおさら機を奪えばよい。
そう決めたように、男たちは古びた機を担ぎ上げた。



