「この瓦版を書いたのは、お前か」
弾正宮が問う。
その手には、いつの間にか折り目のついた瓦版が握られていた。
伊織は息を忘れた。
一度目の死の間際、群衆の足元で踏み荒らされていたものと同じ瓦版だ。衣嚢にでも隠し持っていたのだろうか。
――橋下の機織り娘は、偽証人にあらず。
――真に罪を隠したるは、右大臣家の影。
それとも、今回は間に合ったのだろうか。
伊織が殺される前に、弾正宮はこの紙を見たのだろうか。
けれど、それだけでは腑に落ちない。
瓦版には、伊織の名までは書かれていない。
橋下の機織り娘という呼び名と、偽証人ではないという訴えのみだ。
ならば、この人は瓦版を読んだ後で、調書を検めたのか。
罪人として雑に括られていた娘の名。
何を見て、何を訴え、どこで言葉を潰されたのか。
そこまで目を通したから、晒し場で名を呼んだのか。
伊織、と。
一度目には、誰も呼ばなかった名を。
否。
この瓦版屋に、別の控えが残っていたのかもしれない。
今しがた、ここで目にしたのだと考えることもできる。
だが、それでは晒し場へ救いに来た理由が立たない。
瓦版を見たから来たのか。
それとも、来たから瓦版に辿り着いたのか。
考えれば考えるほど、順序が噛み合わない。
判らないことばかりだった。
なぜ、この人は伊織の名を知っていたのか。
なぜ、死の間際に撒かれたはずの瓦版に、今、着目し、その手に握っているのか。
「刷ったのは、うちです」
「書いたのは?」
「それを聞くなら、印刷代を払っていただきたい」
正衡は、不敵に笑った。
薄い唇の端に、墨の汚れが残っている。
それすら拭おうとせず、こちらが払う値を先に見定めるような顔だった。
金の話をしている。
だが、その目は金のみを見ていない。
伊織の濡れた襦袢。
手首の縄痕。
弾正宮の手にある瓦版。
それらを一つずつ並べ、もう次の紙面の見出しまで考えている目だった。
「伊織の命なら預けた」
「ここで匿うってんでしょう。高くつきますね」
二人は、以前からお互いを知っているようだった。
伊織には判らないやり取りが、短い言葉の間にいくつも沈んでいる。
ただ、正衡が弾正宮を恐れていないことだけは判った。
正衡が周囲を見回す。
「ご覧の通り、うちは善良な瓦版屋ですよ。帳面と版下と、挿絵屋と刷り師しかいません」
正衡は肩を竦めた。
不敵な笑みは崩さず、冗談を言いながら、どこまで踏み込めば斬られるかを測っている顔だ。
「ですが、罪人を匿い……」
「罪人ではない」
弾正宮の切るような一言。
「では何だと思ってるんです?」
「……証人だ」
その言葉が、伊織の胸に刺さった。
一度目には、そう呼ばれなかった。
証人である筈だった。見たものを言った。
なのに、いつの間にか罪人にされた。
今、初めて、その名を挙げられた。
証人、と。
正衡は、満足そうに口の端を上げた。
狙った言葉を引き出せた、とでも言いたげな顔だった。
「いいですねェ」
「何がだ?」
「弾正宮さまが、晒し場の罪人を証人と呼んだ。これは紙面になります」
軽薄な物言いだった。
けれど、その目だけは冴えている。
都の闇に手を突っ込む者の目だった。
「この事件の陰にあるものが明かされた時には、うちに独占で刷らせていただきますよ」
「……好きにしろ」
「おや、よろしいので?」
「真実である限りはな」
正衡の笑みが、少し深くなった。
「では、真実にしてみせましょう。売れる形で」
「よろしく頼む」
弾正宮は、そう言って伊織の肩から手を離した。
黒い羽織は、なお伊織の肩に残っている。
返せとも言わない。
そのまま貸しておく、ということなのだろう。
けれど、手が離れた途端、足元から支えが抜けた気がした。
晒し場からここまで、伊織を引いていた手。
乱暴で、早くて、けれど決して置き去りにはしなかった手。
それが離れる。
弾正宮は背を向け、格子戸の方へ歩き出した。
「待って」
思わず言っていた。
弾正宮が振り返る。
「置いて行くのですか」
「弾正台へ戻る」
「……また、裁くために?」
言ってから、伊織は唇を噛んだ。
また。
一度目の記憶を知らぬ者の前で、口にしてよい言葉ではなかった。
けれど、零れてしまった。
あの時も、この人は裁く側にいた。
伊織の言葉は届かず、証は足りぬと退けられ、裁きは覆らなかった。
弾正宮は、すぐには答えなかった。
それでも伊織の「また」を、確かに聞いた顔だ。
今は問い詰めないことにしたのだろう。
「今度は、誤りを裁くために。……また明日来る」
伊織は弾正宮を見た。
今度。
また明日。
この二度目の生で、まだ弾正宮を信じた訳ではない。
けれど、その言葉には不思議と引っかかるものがあった。
一度目には、なかった言葉だ。
裁きは下り、罪人札は吊られ、誰も伊織の明日を数えなかった。
この男もまた、裁く側にいた。
それなのに今、彼は明日来ると言った。
伊織が明日も生きていることを、当然のように。
「待って」
言い切るより早く、弾正宮は戸口の光の中へ出て行った。
格子戸が閉まる。
外の足音が遠ざかる。
伊織は黒い羽織を掴んだ。
返せとは言われなかった。
まるで、明日取りに来るとでもいうように。
正衡が、版下の山から一枚の紙を引き抜く。
「さて」
その目が、伊織をまっすぐ見た。
「証人殿。あなたが見たものを、お聞かせ願えますかな」
奥の部屋で、刷り師が馬連を擦る音がした。
紙へ墨が移る音。
伊織は初めて、この隠処がただの逃げ場ではないと知った。
ここは、都の闇を紙に変える場所だ。
嘘を暴き、真実でばら撒くための、もう一つの裁き場だった。
弾正宮が問う。
その手には、いつの間にか折り目のついた瓦版が握られていた。
伊織は息を忘れた。
一度目の死の間際、群衆の足元で踏み荒らされていたものと同じ瓦版だ。衣嚢にでも隠し持っていたのだろうか。
――橋下の機織り娘は、偽証人にあらず。
――真に罪を隠したるは、右大臣家の影。
それとも、今回は間に合ったのだろうか。
伊織が殺される前に、弾正宮はこの紙を見たのだろうか。
けれど、それだけでは腑に落ちない。
瓦版には、伊織の名までは書かれていない。
橋下の機織り娘という呼び名と、偽証人ではないという訴えのみだ。
ならば、この人は瓦版を読んだ後で、調書を検めたのか。
罪人として雑に括られていた娘の名。
何を見て、何を訴え、どこで言葉を潰されたのか。
そこまで目を通したから、晒し場で名を呼んだのか。
伊織、と。
一度目には、誰も呼ばなかった名を。
否。
この瓦版屋に、別の控えが残っていたのかもしれない。
今しがた、ここで目にしたのだと考えることもできる。
だが、それでは晒し場へ救いに来た理由が立たない。
瓦版を見たから来たのか。
それとも、来たから瓦版に辿り着いたのか。
考えれば考えるほど、順序が噛み合わない。
判らないことばかりだった。
なぜ、この人は伊織の名を知っていたのか。
なぜ、死の間際に撒かれたはずの瓦版に、今、着目し、その手に握っているのか。
「刷ったのは、うちです」
「書いたのは?」
「それを聞くなら、印刷代を払っていただきたい」
正衡は、不敵に笑った。
薄い唇の端に、墨の汚れが残っている。
それすら拭おうとせず、こちらが払う値を先に見定めるような顔だった。
金の話をしている。
だが、その目は金のみを見ていない。
伊織の濡れた襦袢。
手首の縄痕。
弾正宮の手にある瓦版。
それらを一つずつ並べ、もう次の紙面の見出しまで考えている目だった。
「伊織の命なら預けた」
「ここで匿うってんでしょう。高くつきますね」
二人は、以前からお互いを知っているようだった。
伊織には判らないやり取りが、短い言葉の間にいくつも沈んでいる。
ただ、正衡が弾正宮を恐れていないことだけは判った。
正衡が周囲を見回す。
「ご覧の通り、うちは善良な瓦版屋ですよ。帳面と版下と、挿絵屋と刷り師しかいません」
正衡は肩を竦めた。
不敵な笑みは崩さず、冗談を言いながら、どこまで踏み込めば斬られるかを測っている顔だ。
「ですが、罪人を匿い……」
「罪人ではない」
弾正宮の切るような一言。
「では何だと思ってるんです?」
「……証人だ」
その言葉が、伊織の胸に刺さった。
一度目には、そう呼ばれなかった。
証人である筈だった。見たものを言った。
なのに、いつの間にか罪人にされた。
今、初めて、その名を挙げられた。
証人、と。
正衡は、満足そうに口の端を上げた。
狙った言葉を引き出せた、とでも言いたげな顔だった。
「いいですねェ」
「何がだ?」
「弾正宮さまが、晒し場の罪人を証人と呼んだ。これは紙面になります」
軽薄な物言いだった。
けれど、その目だけは冴えている。
都の闇に手を突っ込む者の目だった。
「この事件の陰にあるものが明かされた時には、うちに独占で刷らせていただきますよ」
「……好きにしろ」
「おや、よろしいので?」
「真実である限りはな」
正衡の笑みが、少し深くなった。
「では、真実にしてみせましょう。売れる形で」
「よろしく頼む」
弾正宮は、そう言って伊織の肩から手を離した。
黒い羽織は、なお伊織の肩に残っている。
返せとも言わない。
そのまま貸しておく、ということなのだろう。
けれど、手が離れた途端、足元から支えが抜けた気がした。
晒し場からここまで、伊織を引いていた手。
乱暴で、早くて、けれど決して置き去りにはしなかった手。
それが離れる。
弾正宮は背を向け、格子戸の方へ歩き出した。
「待って」
思わず言っていた。
弾正宮が振り返る。
「置いて行くのですか」
「弾正台へ戻る」
「……また、裁くために?」
言ってから、伊織は唇を噛んだ。
また。
一度目の記憶を知らぬ者の前で、口にしてよい言葉ではなかった。
けれど、零れてしまった。
あの時も、この人は裁く側にいた。
伊織の言葉は届かず、証は足りぬと退けられ、裁きは覆らなかった。
弾正宮は、すぐには答えなかった。
それでも伊織の「また」を、確かに聞いた顔だ。
今は問い詰めないことにしたのだろう。
「今度は、誤りを裁くために。……また明日来る」
伊織は弾正宮を見た。
今度。
また明日。
この二度目の生で、まだ弾正宮を信じた訳ではない。
けれど、その言葉には不思議と引っかかるものがあった。
一度目には、なかった言葉だ。
裁きは下り、罪人札は吊られ、誰も伊織の明日を数えなかった。
この男もまた、裁く側にいた。
それなのに今、彼は明日来ると言った。
伊織が明日も生きていることを、当然のように。
「待って」
言い切るより早く、弾正宮は戸口の光の中へ出て行った。
格子戸が閉まる。
外の足音が遠ざかる。
伊織は黒い羽織を掴んだ。
返せとは言われなかった。
まるで、明日取りに来るとでもいうように。
正衡が、版下の山から一枚の紙を引き抜く。
「さて」
その目が、伊織をまっすぐ見た。
「証人殿。あなたが見たものを、お聞かせ願えますかな」
奥の部屋で、刷り師が馬連を擦る音がした。
紙へ墨が移る音。
伊織は初めて、この隠処がただの逃げ場ではないと知った。
ここは、都の闇を紙に変える場所だ。
嘘を暴き、真実でばら撒くための、もう一つの裁き場だった。



