伊織は、弾正宮に手を引かれたまま市を抜けた。
背を追って来る晒し場の騒めきは、次第に遠のいていく。
罪人だ。化け物だ。弾正台が動いたぞ。
勝手な言葉のいくつかは、なお付き纏って来た。
耳の中へ入り込んだ泥のように、いつまでも剥がれない。
伊織の足は、うまく動かなかった。
それでも、弾正宮は足を緩めない。
市中に残れば、また見世物にされる。
役人たちが我に返れば、連れ戻される。
そう判っている歩き方だった。
大股で先へ進むたび、伊織の腕が引かれる。
濡れた襦袢の裾が足に絡み、何度も膝が崩れかけた。
だが、そのたびに手の力だけが変わる。
強く引く。
倒れそうになる寸前で、腕で支える。
振り返りはしないのに、伊織がどこまで歩けるかを、握った手から測っている。
容赦はないが、置き去りにする気もないようだ。
大路を外れ、商家の裏を抜けると、紙の匂いが濃くなった。
狭い路地へ入った途端、表通りの喧騒とは違う、押し殺した熱が肌に纏わりつく。
墨。
糊。
湿った紙。
人は多い。
だが声高に嗤う者はいなかった。
戸口の陰、格子の隙間、干した紙の向こうから、こちらを窺う目だけがある。
余所者を拒むというより、余所者が何をしに来たのか、先に測っている場所だった。
弾正宮は安普請の格子戸の前で足を止めた。
看板も暖簾もない。
ただ戸口の脇に、剥がれかけた紙片が一枚、斜めに貼られている。
そこには、崩した筆で小さく、このように書かれていた。
世の罅、承ります――。
「……ここは?」
「瓦版屋の隠処だ」
伊織は息を呑んだ。
瓦版。
なぜ、弾正宮がその紙のことまで知っているのだろう。
瓦版は、一度目の伊織が、死ぬ直前に最後に見た紙だった。
処刑の朝、市の辻にはすでに人垣ができていた。
罪人札を胸に吊られ、縄で柱へ括られた伊織の前で、役人が罪状を読み上げていた。
その時、群衆の後ろで、盛大に紙が撒かれたのだ。
ばらばらと白いものが舞う。
風に煽られ、泥に落ち、人々の足元で踏まれながら、それでも何枚かは誰かの手に拾われた。
――橋下の機織り娘は、偽証人にあらず。
――真に罪を隠したるは、右大臣家の影。
そこには、伊織が見た真実に近いものが書かれていた。
誰に聞いても信じてもらえなかった言葉。
誰か権力者が、伊織のものだったものを取り上げたのだ。
もしかしたら、それが冤罪を被せられた理由かもしれない。
けれど、遅かった。
役人たちは市井の者が発行する瓦版など歯牙にもかけなかった。
刑場は一大騒ぎになったが、刃は止まらなかった。間に合わなかったのだ。
あの瓦版は、伊織を救おうとしていた。
けれど群衆にばら撒かれた時には、すでに遅かったのだ。
もう縄は解かれず、裁きは覆らず、一度目の処刑は執行された。
だから、瓦版という言葉だけで、胸が強く痛んだ。
あの紙を書いた者が、この古びた家屋の奥にいる。
――伊織の真実を、信じた者が。
弾正宮は、訪いの挨拶もなく、やおら格子戸を開けた。
中は、紙の山だった。
床には大福帳が幾冊も積み上げられ、開いたままの帳面には、誰がいくら払ったか、どこの町で何が燃えたか、誰の家から夜半に女が消えたかまで、細かな字で取材した記録が書き込まれている。
壁際には版木。
その横に、まだ乾かぬ版下。
墨の匂いが強い。
奥の部屋では、刷り師たちが膝をついて紙を重ねていた。
手も爪の間も黒く汚れ、袖口まで墨が飛んでいる。
更に別の小部屋では挿絵屋らしき若い男が、髪を紐で束ね、女の横顔を描いている。
周囲には茶箱画の下絵が散らばり、瓦版以外にも多くの内職で生計を立てていることが判った。
狭い部屋に肩を寄せ合った人々の頭上には、ガス灯が吊られているが、昼間から点ける気はないらしい。
窓から入る光を少しでも拾うため、机はどれも無理やり壁際へ寄せられていた。
誰も、まともに振り返ってまでこちらへ目を向けもせず、筆先だけが迷いなく動いている。
見る暇さえ惜しむほど、それぞれの手元に没頭しているのだ。
だが、伊織には判った。
この場の者たちは、目を上げずとも、誰が入って来たのかを聞き取っている。
そういう場所だった。
「正衡」
弾正宮が奥へ呼びかける。
紙の山が動いた。
いや、そこに人が埋もれていたのだ。
大福帳と版下と、書き損じの紙の中から、男がゆっくり顔を上げる。
長い前髪が片目にかかり、煤けた指でそれを払った。
美しい男だった。
ただし、清潔な美しさではない。
墨と夜更かしと、知らなくてよいことを知りすぎた者の気配をまとっている。
白い顔。
眠たげな目。
口元には、笑みのような、退屈のようなもの。
薄い唇の端に、黒い墨が少し付いていた。
「宮さまが、昼間から女を抱えて来るとは」
男は、散らばった紙を踏まぬように足を抜きながら立ち上がった。
「いよいよ都も滅びますか」
「滅びる前に、お前に頼みがある」
「いつも通り、扱いが荒い」
そう言いながら、正衡の目は、弾正宮の袖口へ流れた。
金を持っているかどうかを、まず見たのだ。
部屋を見れば、暮らし向きは判る。
紙は積み上がっているが、上等なものばかりではない。
昼だというのに奥の部屋は薄暗い。
「正衡」
「はいはい、判りましたよ。……まったく、湛恒は昔から人使いが荒い」
伊織は、そこで僅かに目を上げた。
湛恒。
この人には、弾正宮ではない名があるのだ。
裁く者としてではなく、誰かに呼ばれてきた名が。
湛恒の目が、ほんの一瞬だけ正衡へ向いた。
「今は勤務中だ。その名で呼ぶな」
「では、宮さま。ご用件は?」
「この娘を預かって欲しい」
弾正宮は、伊織の肩へ羽織をかけた。
いつの間に脱いでいたのか判らない。
黒い布が、薄物の上から伊織を覆う。
その重さに、伊織の喉が詰まった。
晒し場では、誰も覆ってくれなかった。
見られるために立たされ、不埒な手に触れられる寸前だった。
今さら布一枚で守られたところで、すでに神経は尖り切っていた。
それでも、冷えた肌が少し息をしやすくなったようには思う。
「伊織だ。……訳あって、橋下で物乞いをしていた」
弾正宮が言う。
正衡の眠たげな目が、初めて伊織に止まった。
上から下まで、値踏みするように。
しかし晒し場の男たちの目とは違う。
正衡が見ているのは薄物の下にある身体ではない。
手足の縄の痕、痛めつけられた足の運び、などを順に拾っていく目だった。
「……死んだ筈の証人ですね」
伊織の胸が強く鳴った。
「殺された筈、と言うべきかな。いや、殺される予定だった、か」
「正衡」
弾正宮の声音が低くなる。
正衡は、両手を上げた。
「怒らないでくれや。ここは瓦版屋だ。事実を言い換える癖がつくと、売り物にならない」
売り物。
伊織は、その言い方に眉を寄せた。
人の死も、濡れ衣も、晒し刑も、この男にとっては紙に載せる材料なのか。
否、この人は一度目、告発してくれようとしていた。
つまり今、ここには何か手がかりがある筈だ。
背を追って来る晒し場の騒めきは、次第に遠のいていく。
罪人だ。化け物だ。弾正台が動いたぞ。
勝手な言葉のいくつかは、なお付き纏って来た。
耳の中へ入り込んだ泥のように、いつまでも剥がれない。
伊織の足は、うまく動かなかった。
それでも、弾正宮は足を緩めない。
市中に残れば、また見世物にされる。
役人たちが我に返れば、連れ戻される。
そう判っている歩き方だった。
大股で先へ進むたび、伊織の腕が引かれる。
濡れた襦袢の裾が足に絡み、何度も膝が崩れかけた。
だが、そのたびに手の力だけが変わる。
強く引く。
倒れそうになる寸前で、腕で支える。
振り返りはしないのに、伊織がどこまで歩けるかを、握った手から測っている。
容赦はないが、置き去りにする気もないようだ。
大路を外れ、商家の裏を抜けると、紙の匂いが濃くなった。
狭い路地へ入った途端、表通りの喧騒とは違う、押し殺した熱が肌に纏わりつく。
墨。
糊。
湿った紙。
人は多い。
だが声高に嗤う者はいなかった。
戸口の陰、格子の隙間、干した紙の向こうから、こちらを窺う目だけがある。
余所者を拒むというより、余所者が何をしに来たのか、先に測っている場所だった。
弾正宮は安普請の格子戸の前で足を止めた。
看板も暖簾もない。
ただ戸口の脇に、剥がれかけた紙片が一枚、斜めに貼られている。
そこには、崩した筆で小さく、このように書かれていた。
世の罅、承ります――。
「……ここは?」
「瓦版屋の隠処だ」
伊織は息を呑んだ。
瓦版。
なぜ、弾正宮がその紙のことまで知っているのだろう。
瓦版は、一度目の伊織が、死ぬ直前に最後に見た紙だった。
処刑の朝、市の辻にはすでに人垣ができていた。
罪人札を胸に吊られ、縄で柱へ括られた伊織の前で、役人が罪状を読み上げていた。
その時、群衆の後ろで、盛大に紙が撒かれたのだ。
ばらばらと白いものが舞う。
風に煽られ、泥に落ち、人々の足元で踏まれながら、それでも何枚かは誰かの手に拾われた。
――橋下の機織り娘は、偽証人にあらず。
――真に罪を隠したるは、右大臣家の影。
そこには、伊織が見た真実に近いものが書かれていた。
誰に聞いても信じてもらえなかった言葉。
誰か権力者が、伊織のものだったものを取り上げたのだ。
もしかしたら、それが冤罪を被せられた理由かもしれない。
けれど、遅かった。
役人たちは市井の者が発行する瓦版など歯牙にもかけなかった。
刑場は一大騒ぎになったが、刃は止まらなかった。間に合わなかったのだ。
あの瓦版は、伊織を救おうとしていた。
けれど群衆にばら撒かれた時には、すでに遅かったのだ。
もう縄は解かれず、裁きは覆らず、一度目の処刑は執行された。
だから、瓦版という言葉だけで、胸が強く痛んだ。
あの紙を書いた者が、この古びた家屋の奥にいる。
――伊織の真実を、信じた者が。
弾正宮は、訪いの挨拶もなく、やおら格子戸を開けた。
中は、紙の山だった。
床には大福帳が幾冊も積み上げられ、開いたままの帳面には、誰がいくら払ったか、どこの町で何が燃えたか、誰の家から夜半に女が消えたかまで、細かな字で取材した記録が書き込まれている。
壁際には版木。
その横に、まだ乾かぬ版下。
墨の匂いが強い。
奥の部屋では、刷り師たちが膝をついて紙を重ねていた。
手も爪の間も黒く汚れ、袖口まで墨が飛んでいる。
更に別の小部屋では挿絵屋らしき若い男が、髪を紐で束ね、女の横顔を描いている。
周囲には茶箱画の下絵が散らばり、瓦版以外にも多くの内職で生計を立てていることが判った。
狭い部屋に肩を寄せ合った人々の頭上には、ガス灯が吊られているが、昼間から点ける気はないらしい。
窓から入る光を少しでも拾うため、机はどれも無理やり壁際へ寄せられていた。
誰も、まともに振り返ってまでこちらへ目を向けもせず、筆先だけが迷いなく動いている。
見る暇さえ惜しむほど、それぞれの手元に没頭しているのだ。
だが、伊織には判った。
この場の者たちは、目を上げずとも、誰が入って来たのかを聞き取っている。
そういう場所だった。
「正衡」
弾正宮が奥へ呼びかける。
紙の山が動いた。
いや、そこに人が埋もれていたのだ。
大福帳と版下と、書き損じの紙の中から、男がゆっくり顔を上げる。
長い前髪が片目にかかり、煤けた指でそれを払った。
美しい男だった。
ただし、清潔な美しさではない。
墨と夜更かしと、知らなくてよいことを知りすぎた者の気配をまとっている。
白い顔。
眠たげな目。
口元には、笑みのような、退屈のようなもの。
薄い唇の端に、黒い墨が少し付いていた。
「宮さまが、昼間から女を抱えて来るとは」
男は、散らばった紙を踏まぬように足を抜きながら立ち上がった。
「いよいよ都も滅びますか」
「滅びる前に、お前に頼みがある」
「いつも通り、扱いが荒い」
そう言いながら、正衡の目は、弾正宮の袖口へ流れた。
金を持っているかどうかを、まず見たのだ。
部屋を見れば、暮らし向きは判る。
紙は積み上がっているが、上等なものばかりではない。
昼だというのに奥の部屋は薄暗い。
「正衡」
「はいはい、判りましたよ。……まったく、湛恒は昔から人使いが荒い」
伊織は、そこで僅かに目を上げた。
湛恒。
この人には、弾正宮ではない名があるのだ。
裁く者としてではなく、誰かに呼ばれてきた名が。
湛恒の目が、ほんの一瞬だけ正衡へ向いた。
「今は勤務中だ。その名で呼ぶな」
「では、宮さま。ご用件は?」
「この娘を預かって欲しい」
弾正宮は、伊織の肩へ羽織をかけた。
いつの間に脱いでいたのか判らない。
黒い布が、薄物の上から伊織を覆う。
その重さに、伊織の喉が詰まった。
晒し場では、誰も覆ってくれなかった。
見られるために立たされ、不埒な手に触れられる寸前だった。
今さら布一枚で守られたところで、すでに神経は尖り切っていた。
それでも、冷えた肌が少し息をしやすくなったようには思う。
「伊織だ。……訳あって、橋下で物乞いをしていた」
弾正宮が言う。
正衡の眠たげな目が、初めて伊織に止まった。
上から下まで、値踏みするように。
しかし晒し場の男たちの目とは違う。
正衡が見ているのは薄物の下にある身体ではない。
手足の縄の痕、痛めつけられた足の運び、などを順に拾っていく目だった。
「……死んだ筈の証人ですね」
伊織の胸が強く鳴った。
「殺された筈、と言うべきかな。いや、殺される予定だった、か」
「正衡」
弾正宮の声音が低くなる。
正衡は、両手を上げた。
「怒らないでくれや。ここは瓦版屋だ。事実を言い換える癖がつくと、売り物にならない」
売り物。
伊織は、その言い方に眉を寄せた。
人の死も、濡れ衣も、晒し刑も、この男にとっては紙に載せる材料なのか。
否、この人は一度目、告発してくれようとしていた。
つまり今、ここには何か手がかりがある筈だ。



