伊織は市の辻に縛られていた。
薄い襦袢一枚のこと、春先の朝は、まだ冷える。
けれど寒さよりも先に、肌へ刺さるのは人の目だった。
縄は両の手首を吊り上げ、足首までも柱へ括っている。
逃げられぬように、崩れ落ちることすら許さぬように。
けれど、肘を顔の前へ押し出すだけの縄の余りがあった。
せめて顔を打たれまいとする、みっともないほど本能的な守り。
土が飛ぶ。
小石が当たる。
腕を下ろせば、もっとひどいものが来ると判っていた。
見物用に濡らされた薄衣は、身体に張り付いている。
髪は解け、頬へかかり、首筋へ幾筋も落ちている。
晒し場の磔柱に群がる人々は、初めは恐る恐る見ていた。
だが、罪人が女で、橋の下で見つかった物乞い娘だと知ると、目つきが変わった。
「あれが、偽証した娘か」
「宮中の咒いに関わったそうな」
「弾正台が裁いたのなら、間違いあるまい」
違う、と。
そう言いたかった。
けれど唇は乾き、もう舌は動かなかった。
何を言っても届かないことを知ってしまった。
裁きは下った。
伊織の機を織る手は、罪人の縄に掛けられた。
橋の下で生きる間、守り抜いて来た小さな誇りさえ、胸に吊られた札一枚で塗り潰されていく。
役人の一人が、罪状を読み上げる。
――都を惑わす偽りの証人。
――咒詛の片棒を担ぎ、御政を乱した女。
――見せしめとして、市中へ晒す。
罪が積まれるたび、群衆の熱が変わっていく。
憐れみではない。
怒りでもない。
もっと下卑た、許された暴力の匂いだった。
誰かが土を投げた。
頬に当たり、ざらりと落ちる。
目に入らなくて良かった、と伊織は思う。
誰かが笑った。
誰かが、もっとよく見えるよう、前へ進み出た。
薄衣一枚の女を、罪人という名で眺めることは、彼らにとって罰ではなく娯楽だった。
伊織は目を閉じなかった。
閉じれば、負けた気がした。
この都が寄ってたかって奪おうとしているものを、最後まで手放したくなかった。
その目が探していたのは、救いではなかった。
この生でも群衆の後ろに紛れ、瓦版を撒く男の姿だった。
恐ろしくない訳ではない。
辱められたくない。触れられたくない。笑われたくない。
けれど、泣けばもっと喜ばれる。
ならば泣いてやらない。
その時、群衆の奥が割れた。
黒い袍を着た男が、辻の見物人たちを分け入って来る。
役人たちが一斉に頭を下げた。
弾正宮。
この都の罪を検め、裁きを下す者。
伊織を救わなかった男。
伊織は、柱に括られたまま彼を見た。
一度目のあの日――。
この男はそのときも、伊織の前に立っていた。
泣いて訴えた。
わたしは見たのです、と。
あの瓦版は嘘ではないのです、と。
殺される者を、見捨てないでください、と。
だが裁きは覆らなかった。
証立ては成らぬ。
身元の知れぬ娘の言葉では、信用に足りぬ。
そうして伊織は罪人にされた。
そして、殺された。
今、二度目の世界で、彼はまた伊織の前にいる。
初めは、時が戻ったのだとは思わなかった。
死んだ自分が無間地獄へ落ち、処刑前のこの朝だけを、未来永劫これから繰り返すのだと思った。
裁かれ、晒され、殺される。
そしてまた、この柱の前へ戻される。
自分は地縛霊になったのかもしれない。
それが自分に下された、終わらぬ裁きなのだと。
そう思っていた。
同じ黒い袍。
同じ怜悧な目。
同じ、裁く側の人間として。
役人が後ろから弾正宮へ近付いた。
「弾正宮さま。これより処刑を――」
皆まで、言わせなかった。
弾正宮の手が上がる。
役人の言葉が断たれた。
伊織は息を呑んだ。
弾正宮の目が、こちらを見ている。
「伊織」
その名を呼ばれた瞬間、括られた手首の奥で何かが震えた。
「……どうして、名を」
「助けに来た」
嘘だ、と思った。
だって一度目のあなたは――。
伊織は掠れた息を吸った。
「一度目のあなたは、わたしを容赦なく断罪しました。どうして名を?」
言ってしまってから、伊織は息を詰めた。
一度目。
口にしてよい言葉ではなかった。
死に戻ったことなど、誰にも話していない。話せる筈もない。
それなのに責める気持ちが先に立ち、隠しておくべきものまで零れてしまった。
その言葉に、弾正宮の目が揺れた。
聞き流した顔ではない。
だが、問い返しもしない。
伊織は、その沈黙にかえって追い詰められた。
逃げるように、別の理由を探す。
そこで漸く思い至った。
この生では、弾正宮は調書を読んだのだ。
橋の下で暮らす娘の名。
機を織っていたこと。
証人として引き出され、罪人として晒された経緯。
一度目には目を通されなかったものを、今度は読んだ。
だから、この人は伊織の名を知っている。
助けに来た、という言葉はまだ信じられない。
けれど名を呼んだ理由だけは、腑に落ちた。
群衆は意味が判らず、騒めいた。
役人たちも顔を見合わせる。
その隙を突くように、人垣の中から汚れた手が伸びた。
罪人の女だ。
薄物一枚で晒されている。
もうすぐ死ぬのだし、勿体ない。
ならば弄ってよいと、そう思った手だった。
刹那、伊織の足元に落ちていた濡れた影が、糸のように動いた。
細い光が一本。
次いで、もう一本。
解けた髪の間から、見えぬ機の音が鳴った気がした。
経糸。
緯糸。
交わり、張り、結ばれていく。
伊織の身体へ伸びようとした男の手が、見えない壁に弾かれた。
「何だ」
「触れぬぞ」
「化け物か」
薄衣の内側から、淡い光が滲み出る。
伊織の肌を覆うのではない。
伊織という存在そのものを囲うように、目に見えぬ織目が空へ広がっていく。
それは、衣ではなかった。
檻でもなかった。
――結界だ。
生者と死者の境を編む、失われた結界の力。
都の誰もが知らぬまま奪おうとした、伊織自身の機だった。
辱めようと伸ばされた手は届かない。
群衆の目にあった下卑た熱が、恐れへと変わっていく。
伊織は柱に縛られたまま、弾正宮を見た。
助けに来たと言うなら。
今度こそ、見ているだけでは済まさない。
「弾正宮さま」
血の気の引いた唇で、伊織は告げた。
「裁くのなら、わたしではなく、この都を裁いてください」
弾正宮は、伊織の前へ進み出た。
黒い袍の袖が、春の風に揺れる。
その背が、群衆と伊織の間を遮った。
「聞いたな」
彼は役人たちへ向けて告げた。
「ここから先は、弾正台が検める」
そして、伊織を見上げる。
一度目には差し出されなかった手が、今度は確かに伸ばされた。
「伊織。此度は、私がお前を裁く」
此度。
その一語が、伊織の耳に残った。
今回は、ということだろうか。
では、前は誰が裁いたというのか。
昨日まで権を持っていた者の裁きに、誤りがあったと認めているのか。
助けに来たと言いながら、裁くと言う。
だが、この手を払いのけては、このまま一度目と同じく処刑されるだけだ。
伊織は差し出された手を見た。
信じた訳ではない。
許した訳でもない、けれど――。
結界の内側で震えていた指を、ほんの少し動かした。
その瞬間、空に張られた見えない糸が、朝陽に白く綺羅めいた。
薄い襦袢一枚のこと、春先の朝は、まだ冷える。
けれど寒さよりも先に、肌へ刺さるのは人の目だった。
縄は両の手首を吊り上げ、足首までも柱へ括っている。
逃げられぬように、崩れ落ちることすら許さぬように。
けれど、肘を顔の前へ押し出すだけの縄の余りがあった。
せめて顔を打たれまいとする、みっともないほど本能的な守り。
土が飛ぶ。
小石が当たる。
腕を下ろせば、もっとひどいものが来ると判っていた。
見物用に濡らされた薄衣は、身体に張り付いている。
髪は解け、頬へかかり、首筋へ幾筋も落ちている。
晒し場の磔柱に群がる人々は、初めは恐る恐る見ていた。
だが、罪人が女で、橋の下で見つかった物乞い娘だと知ると、目つきが変わった。
「あれが、偽証した娘か」
「宮中の咒いに関わったそうな」
「弾正台が裁いたのなら、間違いあるまい」
違う、と。
そう言いたかった。
けれど唇は乾き、もう舌は動かなかった。
何を言っても届かないことを知ってしまった。
裁きは下った。
伊織の機を織る手は、罪人の縄に掛けられた。
橋の下で生きる間、守り抜いて来た小さな誇りさえ、胸に吊られた札一枚で塗り潰されていく。
役人の一人が、罪状を読み上げる。
――都を惑わす偽りの証人。
――咒詛の片棒を担ぎ、御政を乱した女。
――見せしめとして、市中へ晒す。
罪が積まれるたび、群衆の熱が変わっていく。
憐れみではない。
怒りでもない。
もっと下卑た、許された暴力の匂いだった。
誰かが土を投げた。
頬に当たり、ざらりと落ちる。
目に入らなくて良かった、と伊織は思う。
誰かが笑った。
誰かが、もっとよく見えるよう、前へ進み出た。
薄衣一枚の女を、罪人という名で眺めることは、彼らにとって罰ではなく娯楽だった。
伊織は目を閉じなかった。
閉じれば、負けた気がした。
この都が寄ってたかって奪おうとしているものを、最後まで手放したくなかった。
その目が探していたのは、救いではなかった。
この生でも群衆の後ろに紛れ、瓦版を撒く男の姿だった。
恐ろしくない訳ではない。
辱められたくない。触れられたくない。笑われたくない。
けれど、泣けばもっと喜ばれる。
ならば泣いてやらない。
その時、群衆の奥が割れた。
黒い袍を着た男が、辻の見物人たちを分け入って来る。
役人たちが一斉に頭を下げた。
弾正宮。
この都の罪を検め、裁きを下す者。
伊織を救わなかった男。
伊織は、柱に括られたまま彼を見た。
一度目のあの日――。
この男はそのときも、伊織の前に立っていた。
泣いて訴えた。
わたしは見たのです、と。
あの瓦版は嘘ではないのです、と。
殺される者を、見捨てないでください、と。
だが裁きは覆らなかった。
証立ては成らぬ。
身元の知れぬ娘の言葉では、信用に足りぬ。
そうして伊織は罪人にされた。
そして、殺された。
今、二度目の世界で、彼はまた伊織の前にいる。
初めは、時が戻ったのだとは思わなかった。
死んだ自分が無間地獄へ落ち、処刑前のこの朝だけを、未来永劫これから繰り返すのだと思った。
裁かれ、晒され、殺される。
そしてまた、この柱の前へ戻される。
自分は地縛霊になったのかもしれない。
それが自分に下された、終わらぬ裁きなのだと。
そう思っていた。
同じ黒い袍。
同じ怜悧な目。
同じ、裁く側の人間として。
役人が後ろから弾正宮へ近付いた。
「弾正宮さま。これより処刑を――」
皆まで、言わせなかった。
弾正宮の手が上がる。
役人の言葉が断たれた。
伊織は息を呑んだ。
弾正宮の目が、こちらを見ている。
「伊織」
その名を呼ばれた瞬間、括られた手首の奥で何かが震えた。
「……どうして、名を」
「助けに来た」
嘘だ、と思った。
だって一度目のあなたは――。
伊織は掠れた息を吸った。
「一度目のあなたは、わたしを容赦なく断罪しました。どうして名を?」
言ってしまってから、伊織は息を詰めた。
一度目。
口にしてよい言葉ではなかった。
死に戻ったことなど、誰にも話していない。話せる筈もない。
それなのに責める気持ちが先に立ち、隠しておくべきものまで零れてしまった。
その言葉に、弾正宮の目が揺れた。
聞き流した顔ではない。
だが、問い返しもしない。
伊織は、その沈黙にかえって追い詰められた。
逃げるように、別の理由を探す。
そこで漸く思い至った。
この生では、弾正宮は調書を読んだのだ。
橋の下で暮らす娘の名。
機を織っていたこと。
証人として引き出され、罪人として晒された経緯。
一度目には目を通されなかったものを、今度は読んだ。
だから、この人は伊織の名を知っている。
助けに来た、という言葉はまだ信じられない。
けれど名を呼んだ理由だけは、腑に落ちた。
群衆は意味が判らず、騒めいた。
役人たちも顔を見合わせる。
その隙を突くように、人垣の中から汚れた手が伸びた。
罪人の女だ。
薄物一枚で晒されている。
もうすぐ死ぬのだし、勿体ない。
ならば弄ってよいと、そう思った手だった。
刹那、伊織の足元に落ちていた濡れた影が、糸のように動いた。
細い光が一本。
次いで、もう一本。
解けた髪の間から、見えぬ機の音が鳴った気がした。
経糸。
緯糸。
交わり、張り、結ばれていく。
伊織の身体へ伸びようとした男の手が、見えない壁に弾かれた。
「何だ」
「触れぬぞ」
「化け物か」
薄衣の内側から、淡い光が滲み出る。
伊織の肌を覆うのではない。
伊織という存在そのものを囲うように、目に見えぬ織目が空へ広がっていく。
それは、衣ではなかった。
檻でもなかった。
――結界だ。
生者と死者の境を編む、失われた結界の力。
都の誰もが知らぬまま奪おうとした、伊織自身の機だった。
辱めようと伸ばされた手は届かない。
群衆の目にあった下卑た熱が、恐れへと変わっていく。
伊織は柱に縛られたまま、弾正宮を見た。
助けに来たと言うなら。
今度こそ、見ているだけでは済まさない。
「弾正宮さま」
血の気の引いた唇で、伊織は告げた。
「裁くのなら、わたしではなく、この都を裁いてください」
弾正宮は、伊織の前へ進み出た。
黒い袍の袖が、春の風に揺れる。
その背が、群衆と伊織の間を遮った。
「聞いたな」
彼は役人たちへ向けて告げた。
「ここから先は、弾正台が検める」
そして、伊織を見上げる。
一度目には差し出されなかった手が、今度は確かに伸ばされた。
「伊織。此度は、私がお前を裁く」
此度。
その一語が、伊織の耳に残った。
今回は、ということだろうか。
では、前は誰が裁いたというのか。
昨日まで権を持っていた者の裁きに、誤りがあったと認めているのか。
助けに来たと言いながら、裁くと言う。
だが、この手を払いのけては、このまま一度目と同じく処刑されるだけだ。
伊織は差し出された手を見た。
信じた訳ではない。
許した訳でもない、けれど――。
結界の内側で震えていた指を、ほんの少し動かした。
その瞬間、空に張られた見えない糸が、朝陽に白く綺羅めいた。



