朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は大妖狐に囲われる〜

 明くる朝。
 朝餉の席についた珠璃(しゅり)は、まだ借り物の衣に慣れないでいた。
 葛葉(くずは)が眠い眼を(こす)りながら早朝に黙って差し出してくれた小袖である。

 色は薄い藤鼠(ふじねず)
 袖も裾も珠璃(しゅり)には短く、帯は半幅帯ですらなく細い組紐で結んだきりの、子供が着るような簡素なものだった。
 襦袢(じゅばん)まで借りる訳にはいかなかったのだが、ふと透けるのではないかという心配はこれで一頻(ひとしき)り免れられた。

 炉端では、小鬼の団吾(だんご)がちょこまかと気働きしていた。
 粥の椀を並べ、根菜汁の鍋を覗き、箸の向きまで揃えている。
 珠璃(しゅり)は炉端に座り、朝餉を待つともなしに、その小さな背を眺めていた。
 最初に声を掛けて来たのは九郎助(くろすけ)だった。

「……その衣は」

 言われて、珠璃は自分の膝元を見下ろした。

葛葉(くずは)が貸してくれた」

 葛葉(くずは)の小袖は背丈が合わず、まだ猩々緋(しょうじょうひ)が襟元や短い裾から伸びて残っていた。
 九郎助(くろすけ)がそれを見て、ひどく不機嫌そうに目を逸らす。

「……替えを用意させたいが間に合わぬ」
「みっともない?」

 訊かずには居られなかった。身(づくろ)いが気になるのだ。
 そういうところが、まだ(くるわ)から抜けきれていない。
 事情を知る者以外、誰の目があるという生活でもないのに――。

「違う」

 返ってきた言葉は、珍しくぶっきらぼうだった。
 九郎助(くろすけ)は眉根を寄せ、視線を一度外した。

「……脱げ」

 九郎助(くろすけ)が言った。

 珠璃(しゅり)は反射で肩を強張らせた。
 その一言は、朱籬廓(しゅりかく)の夜を思い出させた。
 脱がされる。見られる。値を付けられる。
 女の身とはそういうものだと、ずっと見て学んできた。

 思えば、この(あやかし)はいつも言葉が足りない。
 捨てろ、許さない、止めろ、散れ、座れ、客に見せる顔をするな、無理をするな、脱げ。
 ――里の長である大妖狐らしく、短くぶっきらぼうな命令をする。

 なのに、九郎助(くろすけ)の手が無理に伸びてきたことは一度もなかった。
 命じるように言うくせに、居丈高ではない。その手は珠璃(しゅり)の身へ沈み込もうとする前で必ず止まる。
 そのちぐはぐさが怖いのに、判らなくて、余計に息を詰まらせる。

「嫌か? 襦袢(じゅばん)だけだ」
「……」
「安心しろ。俺は許されぬ限り、触れぬ」

 珠璃(しゅり)は襟を押さえた。
 指の下には、逃げてきた夜にも脱ぎ切れなかった色、猩々緋(しょうじょうひ)が肌にいちばん近いところで、まだ名残のように残っている。

「判った。……後ろ、向いてて」

 九郎助(くろすけ)は、何も問わず背を向けた。

 その背が動かなくなったのを確かめてから、珠璃(しゅり)は腰紐の結び目を解き始めた。
 衣()れの音がやけに大きく響く。
 襦袢(じゅばん)が肩から滑り、畳へ落ちる。
 葛葉(くずは)の小袖は短く、膝の上からむっちりした白い太腿(ふともも)まで、どうしても頼りなく露わになる。

「いいか?」
「……はい?」

 九郎助が振り返る。

 金の眼は珠璃(しゅり)ではなく、まず畳に落ちた襦袢(じゅばん)へ向けられた。
 触れもせず近付きもせず、ただ指先を一つ払う。

 狐火が、落ちた襦袢(じゅばん)めがけて走った。

 火は一瞬で猩々緋(しょうじょうひ)を包んだ。
 赤が、さらに濃い赤に沈み、やがて金へ変わっていく。

 そこへ、初めに異変を告げたのは狐火だった。
 九郎助(くろすけ)の屋敷の壁に掛けられていた硝子(ガラス)壺の火が、一つ、また一つと青く変っていく。

人間(ひと)の大結界師が現世(うつしよ)を去ったのじゃ」

 狐火の異変に気付き、葛葉(くずは)が音もなく居間に滑り込んで来た。
 炉の上に吊られた鍋では、根菜汁がまだ湯気を立てている。
 珠璃(しゅり)は立ったまま動けなかった。

「結界師が消えると、何が?」
「隠しておったものが、人間(ひと)の目へ戻る」

 葛葉(くずは)の衣の裾が揺れると、土間の火が姿勢を正すように見える。
 硝子(ガラス)壺の中の狐火といい、この兄妹(きょうだい)は狐火を自在に操るのだろう。

「この里は、人間(ひと)の地図帳では空白だった。葭海(よしうみ)の向こうは湿地帯の葦原(あしはら)。家も田も道も、誰も見つけぬ(はず)の場所じゃった。佐伯公なる者が大霧を用いて、そう見せておったのじゃ」

 葛葉(くずは)は庭に面した木の引き戸へ歩み寄り、小さな手で(さん)に触れた。
 古い戸が、から、と乾いた音を立てて一つ開く。
 途端に、朝の冷えた気配が土間へ流れ込んだ。

 戸の外で、みるみるうちに朝霧が晴れて行く。
 昨日来たときには見えなかったものが見え始めている。
 葭海(よしうみ)の向こうの朱籬廓(しゅりかく)のある方角とは別の岸に、人の道が細く伸びていた。

「寒い朝が(こた)えたのだろう。人間(ひと)の身体はか弱いからな」

 九郎助(くろすけ)が言った。
 その時、里の外れで子どもが泣いているのが聞こえた。
 人間(ひと)の子の泣き方だった。

 誰より先に、九郎助(くろすけ)が動いた。
 戸口を抜ける背が、一瞬低く沈む。
 考えるより早く身体が前へ出る、守る獣の動きだった。

 葛葉(くずは)も続いていく。
 珠璃(しゅり)は少し遅れて立ち上がり、椀を置いた。

「お前は来んでもいい」

 葛葉(くずは)は、戸口で履物に手間取っていた。
 小さな足が鼻緒をうまく拾えず、焦れたように草履を何度も()っている。
 その間に、珠璃(しゅり)が追いついた。

「そなたは物の()を寄せる。結界が無くなった今、それが一等まずいのじゃ」
(いや)、連れて来い。もう結界はない。独り置いてはゆけぬ」
「……(あに)さまは、さすが用心深い」

 そのやり取りの間にも、外のざわめきは近付いていた。
 人間(ひと)の子の泣く気配に、耳の(さと)い里そのものが戸惑っているようだった。

 珠璃(しゅり)は、土間へ足を下ろしかけて一瞬迷った。
 (くるわ)を抜ける時に履くものなど持って来られなかった。
 素足のままでは、また石や(あし)の根に足を裂かれるが、昨日の日和(げた)下駄では走るにも不都合だ。
 また今日は短いとはいえ葛葉(くずは)の小袖を着ている。足元が男物では可笑しい。

 土間の隅に、誰かの古い草履が脱ぎ置かれていた。
 鼻緒は()れ、(わら)はところどころ毛羽立っているが、葛葉(くずは)のものほど小さくはない。
 珠璃(しゅり)の足には少し小さい。
 それでも素足で飛び出すより余程いい。
 今はありがたく借りることにして、急いで(つま)がけた。

 里の外れには、小さな橋があった。
 (あし)の茎を編み、水面の上に渡した細い道。

 朱籬廓(しゅりかく)では、(あし)は悪しに通じるからと、(よし)と呼び替えられていた。
 けれど、九郎助(くろすけ)の里では違う。

 (あし)(あし)のまま水際に茂り、屋根を()き、(すだれ)となり、舟にまで編まれている。
 何かを口先三寸で言いくるめる者など、ここには暮らしていない。
 すべては在りのままの、穏やかで長閑(のどか)な日々だった。

 その(あし)の上に、人間(ひと)の男の子が座り込んで泣いていた。
 七つか八つほど、痩せ形で(はら)も空かしているだろうと思われた。
 麻の着物は泥で汚れ、草履の片方は失くしている。

「おっかあが、居ない」

 子どもは、騒ぎに寄って来た里の者たちを見ても怯えなかった。
 角のある小鬼も、鱗の女も、狐火も、おそらく何もかも見えていないのだ。
 結界が崩れかけて入り込んだが、(あやかし)を見る目までは開いていない。
 その子の背後に狐がいた。

 赤茶けた毛並みの小柄な狐だった。
 濡れた(あし)の間から顔を出し、細い目でこちらを見ている。
 人の言葉を解す眼だが、九郎助(くろすけ)のような(たたず)まいはない。

野狐(やこ)じゃ」

 葛葉(くずは)が言った。
 赤茶けた狐は、ちろりと舌を出した。

「おお怖い怖い。葛葉(くずは)姫は今日も角が立っておる」
「わしに角はない」
「では気が立っておる」

 野狐(やこ)は耳と尻尾を持った人間(ひと)の男の姿へ変わった。
 若い行商人のような姿だが、裾を見ると足元に細い(あし)の葉がまっすぐに散っている。
 九郎助(くろすけ)葛葉(くずは)変化(へんげ)に比べると、どこか化け切れていない。
 鼻は不自然に長く、目尻には狐の名残が長く引かれて残っていた。

「その子をどうする気だったか?」

 九郎助(くろすけ)が問う。

「道に迷うておったから、拾うたのよ」
「人の子を拾って、どこへ運ぶ」
「……母親のところへ」
「嘘を()くと、尻尾の匂いが濃くなるぞ」

 九郎助(くろすけ)の指摘に、野狐(やこ)は顔をしかめた。

善狐(ぜんこ)はこれだから嫌いじゃ。すぐ匂いで物を言う」

 善狐(ぜんこ)
 とすると、九郎助(くろすけ)葛葉(くずは)とは、野狐(やこ)と同じ狐ではないのか。
 野狐(やこ)九郎助(くろすけ)を見る目には、同じものへの親しみはなく、確かに何がしかの反発があった。

「匂いと言えば……何やら旨そうな匂いがする」

 野狐(やこ)の目が、珠璃(しゅり)へ流れた。
 小袖は短い。(もも)から下が頼りなく露わになり、逃げてきた夜の傷もまだ消えていない。
 野狐の視線は、肉の柔らかいところを探し、舌なめずりするようにそこへ絡みつく。

「まだ誰にも触れられていない」
「俺が見つけた」
「まだ、誰のものでもないだろ」
「そうだ。――誰のものでもない」

 九郎助(くろすけ)珠璃(しゅり)を振り返らない。
 だが、金色の尻尾が警戒するようにぴんと立ち上がっている。

「だからこそ触れるな。あれが、自分で選ぶまでは俺でさえ待っている」

 野狐(やこ)の笑みが、薄く(ゆが)んだ。

「善狐の長は、喰えぬ肉まで囲うのか。ご立派なことで」
「さっさと()ね」

 九郎助(くろすけ)が鋭く言うと、野狐(やこ)は鼻の長い顔を背け、肩を(すく)ませて去って行った。
 ほどなくして葦原(あしはら)の向こうから女の呼び声が上がり始めた。
 子どもは「おっかあ」と大声を張りながら駆け出し、霧の薄れた道で母親に抱き留められる。
 母子は里の者の姿が人間にでも見えているのか、狐耳や尻尾には目もくれず何度も礼を言い、来た道を戻っていった。



 草庵へ戻ると、炉端に団吾(だんご)が腕を組んで待っていた。
 何があろうと次こそは食べさせる、という顔である。

 戻ってくる気配を先に読んでいたらしく、根菜汁を温めてよそい直し、稲荷を乗せた皿を並べ、箸の向きまで揃えて、すっかり三人分のお膳立てを済ませていた。

「まったく、朝餉の途中に捕物(とりもの)豚箱騒ぎとは。お稲荷が()ねますぞ」
「ほんに団吾は気苦労の多い性格じゃのう」

 それぞれ低い膳には青い葉を敷いた平皿があり、その上に油揚げで包んだお稲荷が並べられている。隣に根菜汁の椀だ。
 焦げ目のついた油揚げの甘い匂いがした。

 ところが九郎助(くろすけ)は平皿を一つ掴むや否や、また外へ駆け出していく。
 それを見て団吾(だんご)は鼻を鳴らし、(かまど)のある土間の方へと引っ込んだ。

(あに)さまは優しいのじゃ」

 葛葉(くずは)は根菜汁の椀へ手を伸ばした。
 それを見て、珠璃(しゅり)も箸を持ち上げる。
 食べられる時に食べる。
 それは(くるわ)でも(あやかし)の里でも、きっと変わらない。
 それに、残したら団吾(だんご)にどやしつけられそうだった。

野狐(やこ)を探し出して飯をやるのじゃろう。腹を空かせた野狐(やこ)(ろく)でもないことを考えるからの。……子どもが喰われんようにの用心じゃな」

 珠璃(しゅり)は箸を止めた。
 追い払った相手に、飯を持って行く。
 きっと九郎助(くろすけ)らしいのだろう。

 葛葉(くずは)が根菜汁に口をつけたので、珠璃(しゅり)も稲荷を持ち上げて口に運んだ。
 壁に掛かった硝子(ガラス)壺の狐火は、なお青く、金へは戻っていない。
 偉い方の卒去(そっきょ)契機(きっかけ)なら、戻ることはないのだろう。

「こんな時に、困ったものじゃ」

 葛葉(くずは)は根菜汁を一口含んで飲み込み、ふいに珠璃(しゅり)を見た。

「そなたには、兄さまと(ちぎ)ってもらう」

 珠璃(しゅり)は飲み下し損ね、危うくお稲荷を喉に詰まらせかけた。

「……何を、おっしゃる」
(ちぎ)りじゃ。妖狐の匂いを(まと)う。それで応急処置ができる(はず)じゃ」

 葛葉(くずは)は、当然と言わんばかりの顔をしている。

「また、匂い……」
「田舎者丸出しに嫌そうな顔をするでない。お前からは甘い人間(ひと)の女の匂いと、あと朱籬廓(しゅりかく)伽羅(きゃら)と焦げた物の()の匂いがする。(あに)さまの匂いを重ねるのじゃ」

 団吾(だんご)が横から小さく咳払いした。

「姫さま、その言い方ではお客人がお稲荷を美味しくいただけませんぞ」
「では何と言えばよい。野狐(やこ)が嗅ぎつけた。面倒じゃ」
「もう少し、こう、護符とか、仮の縁結びとか」
「まあ、そんなものじゃ」

 葛葉(くずは)はおざなりに涼しい顔で箸を遣わせて、葉の上の稲荷を一つ取った。
 珠璃(しゅり)はすっかり食欲を失くしてしまった。

 (ちぎ)る。
 その一語に、身体が勝手に強張る。

 ――ああ結局、(くるわ)で売られるか、(あやかし)に売られるかの違いなのだ、と。

 葛葉(くずは)(あやかし)(ことわり)で言っている。
 けれど値を付けられたことのある珠璃(しゅり)の身体は、そうは聞けなかった。

 水揚げを済ませた娘なら、一度も二度も同じ。
 誰かのものにされた娘なら、次にまた別の誰かのものにされても同じ。

 ――(いや)、違う。同じではない。
 一度奪われたからといって、次も差し出してよいことにはならない。

 それは、番頭新造(しんぞう)珠璃(しゅり)へ投げた理屈に似ていた。
 一度きりだからこそ高く売れるものなら、裏で二度売ればよい。
 相手の背景も深く考えぬのが客で、すべて責任を負うのは珠璃(しゅり)だ。
 けれど首尾よく周りの者は得をする。

 そう、言いたかった。
 元はといえば借金のある生まれが悪い。
 金子(きんす)証文(しょうもん)を取った側が如何(いか)(よう)にもして何が悪い。
 けれど、言えば言うほど、借金を清算しないまま色街から逃げ出した遊女の、虫のいい言い分として聞かれる気がした。盗人(ぬすっと)猛々しいと言われても可笑しくはないのだ。

 ――だが、生まれが卑賎だとして、その後も(さいな)まれることが当然とされ、二度と這い上がれぬのは、果たして正しいことなのだろうか。
 (いや)、苦界十年を勤め上げ、年季が明けたとしても、その頃にはもう身体を壊している者の方が多いのだ。

「名を変えた程度では足りぬ。結界が崩れた今、そなたは見つかりやすい。ならば眷属(けんぞく)を被せるのが早い」
「ほら姫さま、よく見なすって。食欲を失くしちまってる」

 血の気の引いた頬。膝の上で固まった指先。
 団吾(だんご)にとって、それは一大事なのだろう。
 葛葉(くずは)はそこでようやく、珠璃(しゅり)の顔色を見た。

「……なんじゃ、何を想像した。(みだ)らがましいものではないぞ」
「……」
「わしの言い方が悪かった。人間(ひと)は、簡単に他人(ひと)(えにし)を結んだり、大らかに咬合(まぐ)わったりしないのだったな」
「……」

 不本意そうな様子だ。
 だが、言い直す分別はあるらしい。

房事(ぼうじ)をせよ、と言うておるのではない。名と匂いを結ぶきりじゃ。(あに)さまは優しいからの」