明くる朝。
朝餉の席についた珠璃は、まだ借り物の衣に慣れないでいた。
葛葉が眠い眼を擦りながら早朝に黙って差し出してくれた小袖である。
色は薄い藤鼠。
袖も裾も珠璃には短く、帯は半幅帯ですらなく細い組紐で結んだきりの、子供が着るような簡素なものだった。
襦袢まで借りる訳にはいかなかったのだが、ふと透けるのではないかという心配はこれで一頻り免れられた。
炉端では、小鬼の団吾がちょこまかと気働きしていた。
粥の椀を並べ、根菜汁の鍋を覗き、箸の向きまで揃えている。
珠璃は炉端に座り、朝餉を待つともなしに、その小さな背を眺めていた。
最初に声を掛けて来たのは九郎助だった。
「……その衣は」
言われて、珠璃は自分の膝元を見下ろした。
「葛葉が貸してくれた」
葛葉の小袖は背丈が合わず、まだ猩々緋が襟元や短い裾から伸びて残っていた。
九郎助がそれを見て、ひどく不機嫌そうに目を逸らす。
「……替えを用意させたいが間に合わぬ」
「みっともない?」
訊かずには居られなかった。身繕いが気になるのだ。
そういうところが、まだ廓から抜けきれていない。
事情を知る者以外、誰の目があるという生活でもないのに――。
「違う」
返ってきた言葉は、珍しくぶっきらぼうだった。
九郎助は眉根を寄せ、視線を一度外した。
「……脱げ」
九郎助が言った。
珠璃は反射で肩を強張らせた。
その一言は、朱籬廓の夜を思い出させた。
脱がされる。見られる。値を付けられる。
女の身とはそういうものだと、ずっと見て学んできた。
思えば、この妖はいつも言葉が足りない。
捨てろ、許さない、止めろ、散れ、座れ、客に見せる顔をするな、無理をするな、脱げ。
――里の長である大妖狐らしく、短くぶっきらぼうな命令をする。
なのに、九郎助の手が無理に伸びてきたことは一度もなかった。
命じるように言うくせに、居丈高ではない。その手は珠璃の身へ沈み込もうとする前で必ず止まる。
そのちぐはぐさが怖いのに、判らなくて、余計に息を詰まらせる。
「嫌か? 襦袢だけだ」
「……」
「安心しろ。俺は許されぬ限り、触れぬ」
珠璃は襟を押さえた。
指の下には、逃げてきた夜にも脱ぎ切れなかった色、猩々緋が肌にいちばん近いところで、まだ名残のように残っている。
「判った。……後ろ、向いてて」
九郎助は、何も問わず背を向けた。
その背が動かなくなったのを確かめてから、珠璃は腰紐の結び目を解き始めた。
衣擦れの音がやけに大きく響く。
襦袢が肩から滑り、畳へ落ちる。
葛葉の小袖は短く、膝の上からむっちりした白い太腿まで、どうしても頼りなく露わになる。
「いいか?」
「……はい?」
九郎助が振り返る。
金の眼は珠璃ではなく、まず畳に落ちた襦袢へ向けられた。
触れもせず近付きもせず、ただ指先を一つ払う。
狐火が、落ちた襦袢めがけて走った。
火は一瞬で猩々緋を包んだ。
赤が、さらに濃い赤に沈み、やがて金へ変わっていく。
そこへ、初めに異変を告げたのは狐火だった。
九郎助の屋敷の壁に掛けられていた硝子壺の火が、一つ、また一つと青く変っていく。
「人間の大結界師が現世を去ったのじゃ」
狐火の異変に気付き、葛葉が音もなく居間に滑り込んで来た。
炉の上に吊られた鍋では、根菜汁がまだ湯気を立てている。
珠璃は立ったまま動けなかった。
「結界師が消えると、何が?」
「隠しておったものが、人間の目へ戻る」
葛葉の衣の裾が揺れると、土間の火が姿勢を正すように見える。
硝子壺の中の狐火といい、この兄妹は狐火を自在に操るのだろう。
「この里は、人間の地図帳では空白だった。葭海の向こうは湿地帯の葦原。家も田も道も、誰も見つけぬ筈の場所じゃった。佐伯公なる者が大霧を用いて、そう見せておったのじゃ」
葛葉は庭に面した木の引き戸へ歩み寄り、小さな手で桟に触れた。
古い戸が、から、と乾いた音を立てて一つ開く。
途端に、朝の冷えた気配が土間へ流れ込んだ。
戸の外で、みるみるうちに朝霧が晴れて行く。
昨日来たときには見えなかったものが見え始めている。
葭海の向こうの朱籬廓のある方角とは別の岸に、人の道が細く伸びていた。
「寒い朝が堪えたのだろう。人間の身体はか弱いからな」
九郎助が言った。
その時、里の外れで子どもが泣いているのが聞こえた。
人間の子の泣き方だった。
誰より先に、九郎助が動いた。
戸口を抜ける背が、一瞬低く沈む。
考えるより早く身体が前へ出る、守る獣の動きだった。
葛葉も続いていく。
珠璃は少し遅れて立ち上がり、椀を置いた。
「お前は来んでもいい」
葛葉は、戸口で履物に手間取っていた。
小さな足が鼻緒をうまく拾えず、焦れたように草履を何度も摺っている。
その間に、珠璃が追いついた。
「そなたは物の怪を寄せる。結界が無くなった今、それが一等まずいのじゃ」
「否、連れて来い。もう結界はない。独り置いてはゆけぬ」
「……兄さまは、さすが用心深い」
そのやり取りの間にも、外のざわめきは近付いていた。
人間の子の泣く気配に、耳の敏い里そのものが戸惑っているようだった。
珠璃は、土間へ足を下ろしかけて一瞬迷った。
廓を抜ける時に履くものなど持って来られなかった。
素足のままでは、また石や葦の根に足を裂かれるが、昨日の日和下駄では走るにも不都合だ。
また今日は短いとはいえ葛葉の小袖を着ている。足元が男物では可笑しい。
土間の隅に、誰かの古い草履が脱ぎ置かれていた。
鼻緒は擦れ、藁はところどころ毛羽立っているが、葛葉のものほど小さくはない。
珠璃の足には少し小さい。
それでも素足で飛び出すより余程いい。
今はありがたく借りることにして、急いで爪がけた。
里の外れには、小さな橋があった。
葦の茎を編み、水面の上に渡した細い道。
朱籬廓では、葦は悪しに通じるからと、葭と呼び替えられていた。
けれど、九郎助の里では違う。
葦は葦のまま水際に茂り、屋根を葺き、簾となり、舟にまで編まれている。
何かを口先三寸で言いくるめる者など、ここには暮らしていない。
すべては在りのままの、穏やかで長閑な日々だった。
その葦の上に、人間の男の子が座り込んで泣いていた。
七つか八つほど、痩せ形で肚も空かしているだろうと思われた。
麻の着物は泥で汚れ、草履の片方は失くしている。
「おっかあが、居ない」
子どもは、騒ぎに寄って来た里の者たちを見ても怯えなかった。
角のある小鬼も、鱗の女も、狐火も、おそらく何もかも見えていないのだ。
結界が崩れかけて入り込んだが、妖を見る目までは開いていない。
その子の背後に狐がいた。
赤茶けた毛並みの小柄な狐だった。
濡れた葦の間から顔を出し、細い目でこちらを見ている。
人の言葉を解す眼だが、九郎助のような佇まいはない。
「野狐じゃ」
葛葉が言った。
赤茶けた狐は、ちろりと舌を出した。
「おお怖い怖い。葛葉姫は今日も角が立っておる」
「わしに角はない」
「では気が立っておる」
野狐は耳と尻尾を持った人間の男の姿へ変わった。
若い行商人のような姿だが、裾を見ると足元に細い葦の葉がまっすぐに散っている。
九郎助や葛葉の変化に比べると、どこか化け切れていない。
鼻は不自然に長く、目尻には狐の名残が長く引かれて残っていた。
「その子をどうする気だったか?」
九郎助が問う。
「道に迷うておったから、拾うたのよ」
「人の子を拾って、どこへ運ぶ」
「……母親のところへ」
「嘘を吐くと、尻尾の匂いが濃くなるぞ」
九郎助の指摘に、野狐は顔をしかめた。
「善狐はこれだから嫌いじゃ。すぐ匂いで物を言う」
善狐。
とすると、九郎助と葛葉とは、野狐と同じ狐ではないのか。
野狐が九郎助を見る目には、同じものへの親しみはなく、確かに何がしかの反発があった。
「匂いと言えば……何やら旨そうな匂いがする」
野狐の目が、珠璃へ流れた。
小袖は短い。腿から下が頼りなく露わになり、逃げてきた夜の傷もまだ消えていない。
野狐の視線は、肉の柔らかいところを探し、舌なめずりするようにそこへ絡みつく。
「まだ誰にも触れられていない」
「俺が見つけた」
「まだ、誰のものでもないだろ」
「そうだ。――誰のものでもない」
九郎助は珠璃を振り返らない。
だが、金色の尻尾が警戒するようにぴんと立ち上がっている。
「だからこそ触れるな。あれが、自分で選ぶまでは俺でさえ待っている」
野狐の笑みが、薄く歪んだ。
「善狐の長は、喰えぬ肉まで囲うのか。ご立派なことで」
「さっさと去ね」
九郎助が鋭く言うと、野狐は鼻の長い顔を背け、肩を竦ませて去って行った。
ほどなくして葦原の向こうから女の呼び声が上がり始めた。
子どもは「おっかあ」と大声を張りながら駆け出し、霧の薄れた道で母親に抱き留められる。
母子は里の者の姿が人間にでも見えているのか、狐耳や尻尾には目もくれず何度も礼を言い、来た道を戻っていった。
草庵へ戻ると、炉端に団吾が腕を組んで待っていた。
何があろうと次こそは食べさせる、という顔である。
戻ってくる気配を先に読んでいたらしく、根菜汁を温めてよそい直し、稲荷を乗せた皿を並べ、箸の向きまで揃えて、すっかり三人分のお膳立てを済ませていた。
「まったく、朝餉の途中に捕物豚箱騒ぎとは。お稲荷が拗ねますぞ」
「ほんに団吾は気苦労の多い性格じゃのう」
それぞれ低い膳には青い葉を敷いた平皿があり、その上に油揚げで包んだお稲荷が並べられている。隣に根菜汁の椀だ。
焦げ目のついた油揚げの甘い匂いがした。
ところが九郎助は平皿を一つ掴むや否や、また外へ駆け出していく。
それを見て団吾は鼻を鳴らし、竈のある土間の方へと引っ込んだ。
「兄さまは優しいのじゃ」
葛葉は根菜汁の椀へ手を伸ばした。
それを見て、珠璃も箸を持ち上げる。
食べられる時に食べる。
それは廓でも妖の里でも、きっと変わらない。
それに、残したら団吾にどやしつけられそうだった。
「野狐を探し出して飯をやるのじゃろう。腹を空かせた野狐は碌でもないことを考えるからの。……子どもが喰われんようにの用心じゃな」
珠璃は箸を止めた。
追い払った相手に、飯を持って行く。
きっと九郎助らしいのだろう。
葛葉が根菜汁に口をつけたので、珠璃も稲荷を持ち上げて口に運んだ。
壁に掛かった硝子壺の狐火は、なお青く、金へは戻っていない。
偉い方の卒去が契機なら、戻ることはないのだろう。
「こんな時に、困ったものじゃ」
葛葉は根菜汁を一口含んで飲み込み、ふいに珠璃を見た。
「そなたには、兄さまと契ってもらう」
珠璃は飲み下し損ね、危うくお稲荷を喉に詰まらせかけた。
「……何を、おっしゃる」
「契りじゃ。妖狐の匂いを纏う。それで応急処置ができる筈じゃ」
葛葉は、当然と言わんばかりの顔をしている。
「また、匂い……」
「田舎者丸出しに嫌そうな顔をするでない。お前からは甘い人間の女の匂いと、あと朱籬廓の伽羅と焦げた物の怪の匂いがする。兄さまの匂いを重ねるのじゃ」
団吾が横から小さく咳払いした。
「姫さま、その言い方ではお客人がお稲荷を美味しくいただけませんぞ」
「では何と言えばよい。野狐が嗅ぎつけた。面倒じゃ」
「もう少し、こう、護符とか、仮の縁結びとか」
「まあ、そんなものじゃ」
葛葉はおざなりに涼しい顔で箸を遣わせて、葉の上の稲荷を一つ取った。
珠璃はすっかり食欲を失くしてしまった。
契る。
その一語に、身体が勝手に強張る。
――ああ結局、廓で売られるか、妖に売られるかの違いなのだ、と。
葛葉は妖の理で言っている。
けれど値を付けられたことのある珠璃の身体は、そうは聞けなかった。
水揚げを済ませた娘なら、一度も二度も同じ。
誰かのものにされた娘なら、次にまた別の誰かのものにされても同じ。
――否、違う。同じではない。
一度奪われたからといって、次も差し出してよいことにはならない。
それは、番頭新造が珠璃へ投げた理屈に似ていた。
一度きりだからこそ高く売れるものなら、裏で二度売ればよい。
相手の背景も深く考えぬのが客で、すべて責任を負うのは珠璃だ。
けれど首尾よく周りの者は得をする。
そう、言いたかった。
元はといえば借金のある生まれが悪い。
金子で証文を取った側が如何様にもして何が悪い。
けれど、言えば言うほど、借金を清算しないまま色街から逃げ出した遊女の、虫のいい言い分として聞かれる気がした。盗人猛々しいと言われても可笑しくはないのだ。
――だが、生まれが卑賎だとして、その後も苛まれることが当然とされ、二度と這い上がれぬのは、果たして正しいことなのだろうか。
否、苦界十年を勤め上げ、年季が明けたとしても、その頃にはもう身体を壊している者の方が多いのだ。
「名を変えた程度では足りぬ。結界が崩れた今、そなたは見つかりやすい。ならば眷属を被せるのが早い」
「ほら姫さま、よく見なすって。食欲を失くしちまってる」
血の気の引いた頬。膝の上で固まった指先。
団吾にとって、それは一大事なのだろう。
葛葉はそこでようやく、珠璃の顔色を見た。
「……なんじゃ、何を想像した。猥らがましいものではないぞ」
「……」
「わしの言い方が悪かった。人間は、簡単に他人と縁を結んだり、大らかに咬合わったりしないのだったな」
「……」
不本意そうな様子だ。
だが、言い直す分別はあるらしい。
「房事をせよ、と言うておるのではない。名と匂いを結ぶきりじゃ。兄さまは優しいからの」
朝餉の席についた珠璃は、まだ借り物の衣に慣れないでいた。
葛葉が眠い眼を擦りながら早朝に黙って差し出してくれた小袖である。
色は薄い藤鼠。
袖も裾も珠璃には短く、帯は半幅帯ですらなく細い組紐で結んだきりの、子供が着るような簡素なものだった。
襦袢まで借りる訳にはいかなかったのだが、ふと透けるのではないかという心配はこれで一頻り免れられた。
炉端では、小鬼の団吾がちょこまかと気働きしていた。
粥の椀を並べ、根菜汁の鍋を覗き、箸の向きまで揃えている。
珠璃は炉端に座り、朝餉を待つともなしに、その小さな背を眺めていた。
最初に声を掛けて来たのは九郎助だった。
「……その衣は」
言われて、珠璃は自分の膝元を見下ろした。
「葛葉が貸してくれた」
葛葉の小袖は背丈が合わず、まだ猩々緋が襟元や短い裾から伸びて残っていた。
九郎助がそれを見て、ひどく不機嫌そうに目を逸らす。
「……替えを用意させたいが間に合わぬ」
「みっともない?」
訊かずには居られなかった。身繕いが気になるのだ。
そういうところが、まだ廓から抜けきれていない。
事情を知る者以外、誰の目があるという生活でもないのに――。
「違う」
返ってきた言葉は、珍しくぶっきらぼうだった。
九郎助は眉根を寄せ、視線を一度外した。
「……脱げ」
九郎助が言った。
珠璃は反射で肩を強張らせた。
その一言は、朱籬廓の夜を思い出させた。
脱がされる。見られる。値を付けられる。
女の身とはそういうものだと、ずっと見て学んできた。
思えば、この妖はいつも言葉が足りない。
捨てろ、許さない、止めろ、散れ、座れ、客に見せる顔をするな、無理をするな、脱げ。
――里の長である大妖狐らしく、短くぶっきらぼうな命令をする。
なのに、九郎助の手が無理に伸びてきたことは一度もなかった。
命じるように言うくせに、居丈高ではない。その手は珠璃の身へ沈み込もうとする前で必ず止まる。
そのちぐはぐさが怖いのに、判らなくて、余計に息を詰まらせる。
「嫌か? 襦袢だけだ」
「……」
「安心しろ。俺は許されぬ限り、触れぬ」
珠璃は襟を押さえた。
指の下には、逃げてきた夜にも脱ぎ切れなかった色、猩々緋が肌にいちばん近いところで、まだ名残のように残っている。
「判った。……後ろ、向いてて」
九郎助は、何も問わず背を向けた。
その背が動かなくなったのを確かめてから、珠璃は腰紐の結び目を解き始めた。
衣擦れの音がやけに大きく響く。
襦袢が肩から滑り、畳へ落ちる。
葛葉の小袖は短く、膝の上からむっちりした白い太腿まで、どうしても頼りなく露わになる。
「いいか?」
「……はい?」
九郎助が振り返る。
金の眼は珠璃ではなく、まず畳に落ちた襦袢へ向けられた。
触れもせず近付きもせず、ただ指先を一つ払う。
狐火が、落ちた襦袢めがけて走った。
火は一瞬で猩々緋を包んだ。
赤が、さらに濃い赤に沈み、やがて金へ変わっていく。
そこへ、初めに異変を告げたのは狐火だった。
九郎助の屋敷の壁に掛けられていた硝子壺の火が、一つ、また一つと青く変っていく。
「人間の大結界師が現世を去ったのじゃ」
狐火の異変に気付き、葛葉が音もなく居間に滑り込んで来た。
炉の上に吊られた鍋では、根菜汁がまだ湯気を立てている。
珠璃は立ったまま動けなかった。
「結界師が消えると、何が?」
「隠しておったものが、人間の目へ戻る」
葛葉の衣の裾が揺れると、土間の火が姿勢を正すように見える。
硝子壺の中の狐火といい、この兄妹は狐火を自在に操るのだろう。
「この里は、人間の地図帳では空白だった。葭海の向こうは湿地帯の葦原。家も田も道も、誰も見つけぬ筈の場所じゃった。佐伯公なる者が大霧を用いて、そう見せておったのじゃ」
葛葉は庭に面した木の引き戸へ歩み寄り、小さな手で桟に触れた。
古い戸が、から、と乾いた音を立てて一つ開く。
途端に、朝の冷えた気配が土間へ流れ込んだ。
戸の外で、みるみるうちに朝霧が晴れて行く。
昨日来たときには見えなかったものが見え始めている。
葭海の向こうの朱籬廓のある方角とは別の岸に、人の道が細く伸びていた。
「寒い朝が堪えたのだろう。人間の身体はか弱いからな」
九郎助が言った。
その時、里の外れで子どもが泣いているのが聞こえた。
人間の子の泣き方だった。
誰より先に、九郎助が動いた。
戸口を抜ける背が、一瞬低く沈む。
考えるより早く身体が前へ出る、守る獣の動きだった。
葛葉も続いていく。
珠璃は少し遅れて立ち上がり、椀を置いた。
「お前は来んでもいい」
葛葉は、戸口で履物に手間取っていた。
小さな足が鼻緒をうまく拾えず、焦れたように草履を何度も摺っている。
その間に、珠璃が追いついた。
「そなたは物の怪を寄せる。結界が無くなった今、それが一等まずいのじゃ」
「否、連れて来い。もう結界はない。独り置いてはゆけぬ」
「……兄さまは、さすが用心深い」
そのやり取りの間にも、外のざわめきは近付いていた。
人間の子の泣く気配に、耳の敏い里そのものが戸惑っているようだった。
珠璃は、土間へ足を下ろしかけて一瞬迷った。
廓を抜ける時に履くものなど持って来られなかった。
素足のままでは、また石や葦の根に足を裂かれるが、昨日の日和下駄では走るにも不都合だ。
また今日は短いとはいえ葛葉の小袖を着ている。足元が男物では可笑しい。
土間の隅に、誰かの古い草履が脱ぎ置かれていた。
鼻緒は擦れ、藁はところどころ毛羽立っているが、葛葉のものほど小さくはない。
珠璃の足には少し小さい。
それでも素足で飛び出すより余程いい。
今はありがたく借りることにして、急いで爪がけた。
里の外れには、小さな橋があった。
葦の茎を編み、水面の上に渡した細い道。
朱籬廓では、葦は悪しに通じるからと、葭と呼び替えられていた。
けれど、九郎助の里では違う。
葦は葦のまま水際に茂り、屋根を葺き、簾となり、舟にまで編まれている。
何かを口先三寸で言いくるめる者など、ここには暮らしていない。
すべては在りのままの、穏やかで長閑な日々だった。
その葦の上に、人間の男の子が座り込んで泣いていた。
七つか八つほど、痩せ形で肚も空かしているだろうと思われた。
麻の着物は泥で汚れ、草履の片方は失くしている。
「おっかあが、居ない」
子どもは、騒ぎに寄って来た里の者たちを見ても怯えなかった。
角のある小鬼も、鱗の女も、狐火も、おそらく何もかも見えていないのだ。
結界が崩れかけて入り込んだが、妖を見る目までは開いていない。
その子の背後に狐がいた。
赤茶けた毛並みの小柄な狐だった。
濡れた葦の間から顔を出し、細い目でこちらを見ている。
人の言葉を解す眼だが、九郎助のような佇まいはない。
「野狐じゃ」
葛葉が言った。
赤茶けた狐は、ちろりと舌を出した。
「おお怖い怖い。葛葉姫は今日も角が立っておる」
「わしに角はない」
「では気が立っておる」
野狐は耳と尻尾を持った人間の男の姿へ変わった。
若い行商人のような姿だが、裾を見ると足元に細い葦の葉がまっすぐに散っている。
九郎助や葛葉の変化に比べると、どこか化け切れていない。
鼻は不自然に長く、目尻には狐の名残が長く引かれて残っていた。
「その子をどうする気だったか?」
九郎助が問う。
「道に迷うておったから、拾うたのよ」
「人の子を拾って、どこへ運ぶ」
「……母親のところへ」
「嘘を吐くと、尻尾の匂いが濃くなるぞ」
九郎助の指摘に、野狐は顔をしかめた。
「善狐はこれだから嫌いじゃ。すぐ匂いで物を言う」
善狐。
とすると、九郎助と葛葉とは、野狐と同じ狐ではないのか。
野狐が九郎助を見る目には、同じものへの親しみはなく、確かに何がしかの反発があった。
「匂いと言えば……何やら旨そうな匂いがする」
野狐の目が、珠璃へ流れた。
小袖は短い。腿から下が頼りなく露わになり、逃げてきた夜の傷もまだ消えていない。
野狐の視線は、肉の柔らかいところを探し、舌なめずりするようにそこへ絡みつく。
「まだ誰にも触れられていない」
「俺が見つけた」
「まだ、誰のものでもないだろ」
「そうだ。――誰のものでもない」
九郎助は珠璃を振り返らない。
だが、金色の尻尾が警戒するようにぴんと立ち上がっている。
「だからこそ触れるな。あれが、自分で選ぶまでは俺でさえ待っている」
野狐の笑みが、薄く歪んだ。
「善狐の長は、喰えぬ肉まで囲うのか。ご立派なことで」
「さっさと去ね」
九郎助が鋭く言うと、野狐は鼻の長い顔を背け、肩を竦ませて去って行った。
ほどなくして葦原の向こうから女の呼び声が上がり始めた。
子どもは「おっかあ」と大声を張りながら駆け出し、霧の薄れた道で母親に抱き留められる。
母子は里の者の姿が人間にでも見えているのか、狐耳や尻尾には目もくれず何度も礼を言い、来た道を戻っていった。
草庵へ戻ると、炉端に団吾が腕を組んで待っていた。
何があろうと次こそは食べさせる、という顔である。
戻ってくる気配を先に読んでいたらしく、根菜汁を温めてよそい直し、稲荷を乗せた皿を並べ、箸の向きまで揃えて、すっかり三人分のお膳立てを済ませていた。
「まったく、朝餉の途中に捕物豚箱騒ぎとは。お稲荷が拗ねますぞ」
「ほんに団吾は気苦労の多い性格じゃのう」
それぞれ低い膳には青い葉を敷いた平皿があり、その上に油揚げで包んだお稲荷が並べられている。隣に根菜汁の椀だ。
焦げ目のついた油揚げの甘い匂いがした。
ところが九郎助は平皿を一つ掴むや否や、また外へ駆け出していく。
それを見て団吾は鼻を鳴らし、竈のある土間の方へと引っ込んだ。
「兄さまは優しいのじゃ」
葛葉は根菜汁の椀へ手を伸ばした。
それを見て、珠璃も箸を持ち上げる。
食べられる時に食べる。
それは廓でも妖の里でも、きっと変わらない。
それに、残したら団吾にどやしつけられそうだった。
「野狐を探し出して飯をやるのじゃろう。腹を空かせた野狐は碌でもないことを考えるからの。……子どもが喰われんようにの用心じゃな」
珠璃は箸を止めた。
追い払った相手に、飯を持って行く。
きっと九郎助らしいのだろう。
葛葉が根菜汁に口をつけたので、珠璃も稲荷を持ち上げて口に運んだ。
壁に掛かった硝子壺の狐火は、なお青く、金へは戻っていない。
偉い方の卒去が契機なら、戻ることはないのだろう。
「こんな時に、困ったものじゃ」
葛葉は根菜汁を一口含んで飲み込み、ふいに珠璃を見た。
「そなたには、兄さまと契ってもらう」
珠璃は飲み下し損ね、危うくお稲荷を喉に詰まらせかけた。
「……何を、おっしゃる」
「契りじゃ。妖狐の匂いを纏う。それで応急処置ができる筈じゃ」
葛葉は、当然と言わんばかりの顔をしている。
「また、匂い……」
「田舎者丸出しに嫌そうな顔をするでない。お前からは甘い人間の女の匂いと、あと朱籬廓の伽羅と焦げた物の怪の匂いがする。兄さまの匂いを重ねるのじゃ」
団吾が横から小さく咳払いした。
「姫さま、その言い方ではお客人がお稲荷を美味しくいただけませんぞ」
「では何と言えばよい。野狐が嗅ぎつけた。面倒じゃ」
「もう少し、こう、護符とか、仮の縁結びとか」
「まあ、そんなものじゃ」
葛葉はおざなりに涼しい顔で箸を遣わせて、葉の上の稲荷を一つ取った。
珠璃はすっかり食欲を失くしてしまった。
契る。
その一語に、身体が勝手に強張る。
――ああ結局、廓で売られるか、妖に売られるかの違いなのだ、と。
葛葉は妖の理で言っている。
けれど値を付けられたことのある珠璃の身体は、そうは聞けなかった。
水揚げを済ませた娘なら、一度も二度も同じ。
誰かのものにされた娘なら、次にまた別の誰かのものにされても同じ。
――否、違う。同じではない。
一度奪われたからといって、次も差し出してよいことにはならない。
それは、番頭新造が珠璃へ投げた理屈に似ていた。
一度きりだからこそ高く売れるものなら、裏で二度売ればよい。
相手の背景も深く考えぬのが客で、すべて責任を負うのは珠璃だ。
けれど首尾よく周りの者は得をする。
そう、言いたかった。
元はといえば借金のある生まれが悪い。
金子で証文を取った側が如何様にもして何が悪い。
けれど、言えば言うほど、借金を清算しないまま色街から逃げ出した遊女の、虫のいい言い分として聞かれる気がした。盗人猛々しいと言われても可笑しくはないのだ。
――だが、生まれが卑賎だとして、その後も苛まれることが当然とされ、二度と這い上がれぬのは、果たして正しいことなのだろうか。
否、苦界十年を勤め上げ、年季が明けたとしても、その頃にはもう身体を壊している者の方が多いのだ。
「名を変えた程度では足りぬ。結界が崩れた今、そなたは見つかりやすい。ならば眷属を被せるのが早い」
「ほら姫さま、よく見なすって。食欲を失くしちまってる」
血の気の引いた頬。膝の上で固まった指先。
団吾にとって、それは一大事なのだろう。
葛葉はそこでようやく、珠璃の顔色を見た。
「……なんじゃ、何を想像した。猥らがましいものではないぞ」
「……」
「わしの言い方が悪かった。人間は、簡単に他人と縁を結んだり、大らかに咬合わったりしないのだったな」
「……」
不本意そうな様子だ。
だが、言い直す分別はあるらしい。
「房事をせよ、と言うておるのではない。名と匂いを結ぶきりじゃ。兄さまは優しいからの」



