夜明け前、九郎助は気楽な兵児帯姿で草庵の戸口を開けた。
慣れぬ場所で浅く眠っていた珠璃は、戸板の軋みに目を覚ました。
葭海を越えてきたばかりの身には、草の匂いも土の湿りもまだ遠い国のものだった。
寝具の重みも、炉の灰の匂いも、何一つ珠璃の馴染みのものではない。
「悪い。起こしたか……着いて早々だが、呼び出された」
気づいた九郎助が、戸口で振り返る。
その尾が、朝霧を軽く払った。
九郎助の尾は一本だと思っていた。
けれど、障子に落ちた影を見れば、九本の尾がゆらりと重なっている。
「葛葉、珠璃を頼む」
見送りに顔を覗かせに来たらしい葛葉が、炉端にちょこんと座った。
眠そうな顔のまま、聞こえておる、という合図に片手を上げる。
もう片方の小さな指先には狐火が灯り、それを囲炉裏の炭へぽとりと移した。
炭が、ぱち、と鳴って赤く起きる。
「頼まれずとも、客人の世話くらいできるわ」
「珠璃。門の外へは出るな。戻るまで、ここにいろ」
返し方が判らず、珠璃は頷いた。
九郎助が一つ息を吐きながら草の上に一歩を置くと、その姿は朝霧に解けて消えた。
残されたのは、緋の襦袢を重ねたきりの珠璃と、妖狐の姫君のみだった。
草庵は広すぎず、狭すぎもしない。
けれど、何をしてよいか判らない者を置くには、あまりに余白が多い。
「座ればよい」
葛葉は火箸で炭を寄せた。
ぱち、と爆ぜた音に、珠璃の肩が跳ねる。
葛葉はそれを見て、少し眉をひそめた。
揶揄いでもなく、哀れむでもなく、ただ見た。
「廓では、そんなにも音に怯えるものか」
「怯えてなど」
「おる」
珠璃はまたも何も言い返せなかった。
膝を揃えて座ると、襦袢の裾が畳の上に広がった。
「兄さまは、なぜお前を連れてきたのじゃろうな」
葛葉の口調は、珠璃を責めているものではなかった。
見たことのない草花でも眺めるような、何気ない呟きだ。
「さぁ……でも、他に行くところがない」
「判らぬなら、兄さまに訊けばよい」
「……」
葛葉は火箸を置いた。
横から窺い見ると幼い顔をしているのに、金の眸からは長い年月を帯びた叡智が宿っていた。
珠璃のほうが世知辛い経験を経てきたと思うのに、何かを見透かされている心地になる。
「訊かぬまま契るよりは、ましであろう」
契る。
突然、何の話をするのだろうと珠璃は目を瞬いた。
「兄さまは、好きな番のみと契ると、以前から決め込んでおってな」
だが、葛葉はそれ以上を説明しなかった。
狐は夜のものだから昼は眠るのじゃ、と言って、炉端に尻尾を丸め横になってしまう。
九郎助は陽が高くなっても戻らなかった。
代わりに団吾が来て、炉に粥の鍋を吊り、湯を沸かし、何かと世話を焼いてくれた。
だが団吾は珠璃に近付く時は少し距離を置く。
気を遣われているのだと、暫くしてから判った。
夕暮れ近く、草庵の外で枝の折れる音がした。
戸は叩かれもせず開き、九郎助が入ってきた。
「明朝、長老の前へ」
「わたしも?」
「ああ」
眠っていないらしい九郎助の目が、緋の襦袢に落ちた。
一瞬、金の眼の奥を、苛立ちに似たものが走る。
珠璃は咄嗟に袖を合わせた。
隠すほどの肌は見えていない。
けれど、この妖の里では、襦袢一枚で人前に出ることがどれほどの恥なのか、それすら珠璃には皆目見当が付かない。
「着物を仕立てる暇がない」
「……」
「俺の羽織を羽織っていろ」
九郎助はそう言い、珠璃に金巾の羽織を脱いで渡した。
怒りでも哀れみでもない。何かを押し殺している眼だった。
欲望か、怒りか、それとも別のものか。
ただ、男がそんな眼をしながら触れてこないことが不思議だった。
「長老って?」
「黒狐だ。泉下と行き来ができる。人間の言葉で言えば黄泉の下、つまり冥府だ」
「冥府……」
「俺が社を通して人間と交信するようなものだ。もっとも、滅多に返事はせぬが」
九郎助はそこで一度、唇を引き結んだ。
次に出た言葉は、珠璃の身を冷やした。
「お前を野に放てと、言われた」
野に放つ。
人間の娘に向けるには、あまりに不似合いな言葉だった。
否、廓ではいつも、人ではないもののように扱われてきた。
飼えぬ獣。傷んだ荷。火のついた藁。
値で頷く女。抱けば逆らわず黙る女。
どれでも同じだと告げられた気がした。
九郎助は珠璃の前に膝をついた。
そして、触れる前に手を止めた。
その一拍が、珠璃には奇妙に映る。
男は触りたくなったら、女に触るものだと思っていた。
「明日は、嫌なら出なくてよい」
「でも、わたしを出せと言われた?」
「……俺が一人で場を荒らせば済む」
荒らす。
その言い方は、冗談に聞こえなかった。
長老の社でも妖狐の里でも、気に入らなければ本能のままに爪を立てるのが妖狐のやり方なのだろう。
「ううん、出る」
どのみち廓での扱いと、そう大して違いがあるまい、と思ったのだ。
それなら見て知っておきたい。
「無理はするな」
翌朝、珠璃は襦袢のまま、九郎助の羽織を肩に掛け、三和土にあった男物の日和下駄を履いて草庵を出た。
羽織は重く、土と夜露と、どこか焦げた狐火の匂いがした。
犬槐の林が見えてくる。
細くまっすぐな木と木の間、その奥に、一際大きな古い社が覗いていた。
苔むした鳥居が幾重にも並んでいる。
その先で、何かが紗のように揺れていた。
目にはっきりとは見えない。
それなのに、その周囲の空気が重いとでもいうように、ゆったりと凪いでいる。
社の奥、槻の大径木の下に黒衣の老人が座していた。
老人と見えたのは一瞬で、次には黒狐が蹲っているようにも見えた。
尾は土に溶けている。
その眼は、冥府の井戸のように深く黒く濡れていた。
「それが物の怪に狙われた、人間の廓の娘か」
長老の一言で、珠璃の足が止まった。
名ではない。また、場所で呼ばれた。
廓の娘。売られた娘。
いつも同じ鉤札になって、首に掛かる。
「珠璃だ」
九郎助が言った。
短い言葉なのに、社の奥まで刃のように通った。
黒狐の長老は、面倒そうに目を細めた。
名を呼ぶことそのものが、余計な情けであるかのようだった。
「名などどうでもよい。九郎助、お前は人間の社を気にし過ぎる。信仰だけ妖力として吸い上げればいいものを」
吐き捨てるような物言いだった。
人間の祈りも、願いも、名前も、ただ妖力へ変えるためのもの。
そう言い切れる者の眼には、きっと社の前で手を合わせる紅扇姐さまの姿など映らない。
「人間を識ってこその妖力だ」
九郎助の返事は短かった。
けれど、そこに迷いはない。
ただ信仰を食うのみであれば、低級な妖と変わらぬ。
長老へ向けたまなざしには、そんな冷えた断じ方があった。
「……妖と人間とを隔てた結界が揺らいでおる」
「ああ」
「冥府へ落ちた者どもが、戻ろうとしている。廓に溜め込まれた怨念は、都の水路から噴き上がる寸前じゃ。結界も、もう長くは持つまい」
廓の中で命を落としていった遊女たちの話だ。
名を奪われ、恨みを呑み、葭海の向こうで消えていった者たち。
一人一人は知らない筈なのに、なぜか知っている気がした。
「ならば、なおさら珠璃を手元に置く」
「愚かな――」
長老は立ち上がった。
黒い尾が床を擦り、社の板間に乾いた音が走る。
珠璃は小さく身じろぎした。
九郎助から借りた羽織の端を、知らぬ間に握り締めていた。
「その娘はよい軛になる。まだ物の怪へ堕ちきってもいない。境を縫うには恰度よい」
軛。縫う。恰度よい。
またしても珠璃をものとして見ている言葉だ。
「もしくは九郎助、お前が正式に契ればよい。花嫁として縛れば、その娘は妖狐へ寄る。里も暫くは持ち堪える」
「暫く、か……」
「人間では済まぬだろうが、どうせ寿命は短い。死んだら即刻次を探せ」
長老はさも当然のように言った。
その当然さが、珠璃の喉を塞いだ。
廓の番頭も、楼主も、客も、みな同じ顔で言った。
一人で済む。少し我慢すればよい。皆が助かる。
遊女が死んだら、予てから育てていた者を次に披露して、客を取らせる。
花の命は短く、せいぜい十年だから、数年早く消えただけ。
「それに、もともと廓の娘であろう。九郎助の発情を受け止める花嫁になれるなら、上首尾ではないか」
九郎助の手の中に、狐火が生まれた。
それは一瞬、綺麗な玉のように光る。
次の瞬間、九郎助は狐火を握り潰した。
火は掌の中で砕け、金色の粉になって板へ落ちる。
社の奥から様子を覗き見していた妖たちが、ざわりと息を呑んだ。
長老の黒い眼が、また冥府の底のように暗くなる。
「この娘は軛になど、せぬ」
「九郎助」
「珠璃は結界の杭ではない」
珠璃は九郎助の横顔を見上げた。
怒っている。けれど、その怒りは珠璃へ向いていない。
「朱籬の女たちは、俺にとって知らぬ者ではない」
金の眼が、社の奥を見据えた。
黒狐の役目は、冥府から生命を終えた人間も妖も捉えたまま逃さないことだ。
だから、これほど厳格に線引きをしようとするのだと珠璃にも解って来ていた。
「九郎助稲荷の前で幾人も泣いていた。客を呪う者。病を隠す者。子を宿して震える者。身請けを願う者。死んだ姐の名を、誰にも聞こえぬように置いていく者」
社の前で手を合わせる遊女たち。
灯りの届かぬ端に隠れ、絢爛豪華な袖に顔を伏せる。
願いなど叶わぬと知りながら、それでも祈らずにはいられぬ――
その姿を、九郎助はすべて見ていたのだ。
「願いは、みな重かった。恨みも、なお深かった。どれも穢れなどと一言で片付けてよいものではない」
九郎助は一歩前へ出た。
社の床板が、軋む。
「里は守る。都も守る」
「――では、契れ。お前の色に染めて里に馴染ませろ」
「朱籬が俺を選んでくれたら、だ」
「たかが人間の女のために、里を危うくするか」
珠璃は、自分が責められているのだと思った。
判っているのに、妖の里から九郎助の横から逃げ出せない。
どうやら、あの物の怪は珠璃を狙ったものらしいというのもあるが――。
「たかが、ではない」
九郎助が長老を睥睨する。
その眼に、珠璃は初めて、妖狐の強い気配を見た。
いつもの気遣いでも、庇護でもない。
触れれば燃える、刃のような怒りだった。
長老は黙っていた。
だが、ややあって、調子を変えた。
「お前は九尾になる妖狐だぞ」
「知っている」
「狐を束ね、物の怪どもと渡り合う」
「……そうだ」
「ならば、一刻も早く番を選べ。寿命の長い妖狐の姫を迎えよ。早う契って、契って、妖気を養い、尾を増やせ。人間の娘などすぐに老いる」
珠璃は目を伏せた。
――すぐに老いる。その言葉は、どの罵倒よりも深く刺さった。
廓での価値とは、若さと肌の張りと、まだ誰にも触れられていないことだった。
水揚げが済めば引付座敷で三々九度の真似事をし、床入りの手練手管を覚えて客を喜ばせること。
そこでは婚礼に似せた杯事さえ、つなぎ止めるための演出道具なのだ。
その全てを、別の価値観から容易く踏み抜かれた気がした。
人間であるからして老い易い、価値は殆どない。
珠璃は、九郎助の隣に長くは居られない。
ならば物の怪へ堕ちかけた娘を軛に使い、匂いなり気配なりで妖の里の目くらましにしてしまえばよい。そうした理屈の選択になるようだ。
九郎助が、それでも珠璃を救うと言い切る理由は何であろうか。
物の怪へ堕ちかけたから。
結界の軛になるから。
契れば力が増すから。
そうでないなら、なおさら判らない。
泣きたい気持ちに似ていたが、涙にはならなかった。
何しろ、泣き方さえ商売道具にされた身であった。
慣れぬ場所で浅く眠っていた珠璃は、戸板の軋みに目を覚ました。
葭海を越えてきたばかりの身には、草の匂いも土の湿りもまだ遠い国のものだった。
寝具の重みも、炉の灰の匂いも、何一つ珠璃の馴染みのものではない。
「悪い。起こしたか……着いて早々だが、呼び出された」
気づいた九郎助が、戸口で振り返る。
その尾が、朝霧を軽く払った。
九郎助の尾は一本だと思っていた。
けれど、障子に落ちた影を見れば、九本の尾がゆらりと重なっている。
「葛葉、珠璃を頼む」
見送りに顔を覗かせに来たらしい葛葉が、炉端にちょこんと座った。
眠そうな顔のまま、聞こえておる、という合図に片手を上げる。
もう片方の小さな指先には狐火が灯り、それを囲炉裏の炭へぽとりと移した。
炭が、ぱち、と鳴って赤く起きる。
「頼まれずとも、客人の世話くらいできるわ」
「珠璃。門の外へは出るな。戻るまで、ここにいろ」
返し方が判らず、珠璃は頷いた。
九郎助が一つ息を吐きながら草の上に一歩を置くと、その姿は朝霧に解けて消えた。
残されたのは、緋の襦袢を重ねたきりの珠璃と、妖狐の姫君のみだった。
草庵は広すぎず、狭すぎもしない。
けれど、何をしてよいか判らない者を置くには、あまりに余白が多い。
「座ればよい」
葛葉は火箸で炭を寄せた。
ぱち、と爆ぜた音に、珠璃の肩が跳ねる。
葛葉はそれを見て、少し眉をひそめた。
揶揄いでもなく、哀れむでもなく、ただ見た。
「廓では、そんなにも音に怯えるものか」
「怯えてなど」
「おる」
珠璃はまたも何も言い返せなかった。
膝を揃えて座ると、襦袢の裾が畳の上に広がった。
「兄さまは、なぜお前を連れてきたのじゃろうな」
葛葉の口調は、珠璃を責めているものではなかった。
見たことのない草花でも眺めるような、何気ない呟きだ。
「さぁ……でも、他に行くところがない」
「判らぬなら、兄さまに訊けばよい」
「……」
葛葉は火箸を置いた。
横から窺い見ると幼い顔をしているのに、金の眸からは長い年月を帯びた叡智が宿っていた。
珠璃のほうが世知辛い経験を経てきたと思うのに、何かを見透かされている心地になる。
「訊かぬまま契るよりは、ましであろう」
契る。
突然、何の話をするのだろうと珠璃は目を瞬いた。
「兄さまは、好きな番のみと契ると、以前から決め込んでおってな」
だが、葛葉はそれ以上を説明しなかった。
狐は夜のものだから昼は眠るのじゃ、と言って、炉端に尻尾を丸め横になってしまう。
九郎助は陽が高くなっても戻らなかった。
代わりに団吾が来て、炉に粥の鍋を吊り、湯を沸かし、何かと世話を焼いてくれた。
だが団吾は珠璃に近付く時は少し距離を置く。
気を遣われているのだと、暫くしてから判った。
夕暮れ近く、草庵の外で枝の折れる音がした。
戸は叩かれもせず開き、九郎助が入ってきた。
「明朝、長老の前へ」
「わたしも?」
「ああ」
眠っていないらしい九郎助の目が、緋の襦袢に落ちた。
一瞬、金の眼の奥を、苛立ちに似たものが走る。
珠璃は咄嗟に袖を合わせた。
隠すほどの肌は見えていない。
けれど、この妖の里では、襦袢一枚で人前に出ることがどれほどの恥なのか、それすら珠璃には皆目見当が付かない。
「着物を仕立てる暇がない」
「……」
「俺の羽織を羽織っていろ」
九郎助はそう言い、珠璃に金巾の羽織を脱いで渡した。
怒りでも哀れみでもない。何かを押し殺している眼だった。
欲望か、怒りか、それとも別のものか。
ただ、男がそんな眼をしながら触れてこないことが不思議だった。
「長老って?」
「黒狐だ。泉下と行き来ができる。人間の言葉で言えば黄泉の下、つまり冥府だ」
「冥府……」
「俺が社を通して人間と交信するようなものだ。もっとも、滅多に返事はせぬが」
九郎助はそこで一度、唇を引き結んだ。
次に出た言葉は、珠璃の身を冷やした。
「お前を野に放てと、言われた」
野に放つ。
人間の娘に向けるには、あまりに不似合いな言葉だった。
否、廓ではいつも、人ではないもののように扱われてきた。
飼えぬ獣。傷んだ荷。火のついた藁。
値で頷く女。抱けば逆らわず黙る女。
どれでも同じだと告げられた気がした。
九郎助は珠璃の前に膝をついた。
そして、触れる前に手を止めた。
その一拍が、珠璃には奇妙に映る。
男は触りたくなったら、女に触るものだと思っていた。
「明日は、嫌なら出なくてよい」
「でも、わたしを出せと言われた?」
「……俺が一人で場を荒らせば済む」
荒らす。
その言い方は、冗談に聞こえなかった。
長老の社でも妖狐の里でも、気に入らなければ本能のままに爪を立てるのが妖狐のやり方なのだろう。
「ううん、出る」
どのみち廓での扱いと、そう大して違いがあるまい、と思ったのだ。
それなら見て知っておきたい。
「無理はするな」
翌朝、珠璃は襦袢のまま、九郎助の羽織を肩に掛け、三和土にあった男物の日和下駄を履いて草庵を出た。
羽織は重く、土と夜露と、どこか焦げた狐火の匂いがした。
犬槐の林が見えてくる。
細くまっすぐな木と木の間、その奥に、一際大きな古い社が覗いていた。
苔むした鳥居が幾重にも並んでいる。
その先で、何かが紗のように揺れていた。
目にはっきりとは見えない。
それなのに、その周囲の空気が重いとでもいうように、ゆったりと凪いでいる。
社の奥、槻の大径木の下に黒衣の老人が座していた。
老人と見えたのは一瞬で、次には黒狐が蹲っているようにも見えた。
尾は土に溶けている。
その眼は、冥府の井戸のように深く黒く濡れていた。
「それが物の怪に狙われた、人間の廓の娘か」
長老の一言で、珠璃の足が止まった。
名ではない。また、場所で呼ばれた。
廓の娘。売られた娘。
いつも同じ鉤札になって、首に掛かる。
「珠璃だ」
九郎助が言った。
短い言葉なのに、社の奥まで刃のように通った。
黒狐の長老は、面倒そうに目を細めた。
名を呼ぶことそのものが、余計な情けであるかのようだった。
「名などどうでもよい。九郎助、お前は人間の社を気にし過ぎる。信仰だけ妖力として吸い上げればいいものを」
吐き捨てるような物言いだった。
人間の祈りも、願いも、名前も、ただ妖力へ変えるためのもの。
そう言い切れる者の眼には、きっと社の前で手を合わせる紅扇姐さまの姿など映らない。
「人間を識ってこその妖力だ」
九郎助の返事は短かった。
けれど、そこに迷いはない。
ただ信仰を食うのみであれば、低級な妖と変わらぬ。
長老へ向けたまなざしには、そんな冷えた断じ方があった。
「……妖と人間とを隔てた結界が揺らいでおる」
「ああ」
「冥府へ落ちた者どもが、戻ろうとしている。廓に溜め込まれた怨念は、都の水路から噴き上がる寸前じゃ。結界も、もう長くは持つまい」
廓の中で命を落としていった遊女たちの話だ。
名を奪われ、恨みを呑み、葭海の向こうで消えていった者たち。
一人一人は知らない筈なのに、なぜか知っている気がした。
「ならば、なおさら珠璃を手元に置く」
「愚かな――」
長老は立ち上がった。
黒い尾が床を擦り、社の板間に乾いた音が走る。
珠璃は小さく身じろぎした。
九郎助から借りた羽織の端を、知らぬ間に握り締めていた。
「その娘はよい軛になる。まだ物の怪へ堕ちきってもいない。境を縫うには恰度よい」
軛。縫う。恰度よい。
またしても珠璃をものとして見ている言葉だ。
「もしくは九郎助、お前が正式に契ればよい。花嫁として縛れば、その娘は妖狐へ寄る。里も暫くは持ち堪える」
「暫く、か……」
「人間では済まぬだろうが、どうせ寿命は短い。死んだら即刻次を探せ」
長老はさも当然のように言った。
その当然さが、珠璃の喉を塞いだ。
廓の番頭も、楼主も、客も、みな同じ顔で言った。
一人で済む。少し我慢すればよい。皆が助かる。
遊女が死んだら、予てから育てていた者を次に披露して、客を取らせる。
花の命は短く、せいぜい十年だから、数年早く消えただけ。
「それに、もともと廓の娘であろう。九郎助の発情を受け止める花嫁になれるなら、上首尾ではないか」
九郎助の手の中に、狐火が生まれた。
それは一瞬、綺麗な玉のように光る。
次の瞬間、九郎助は狐火を握り潰した。
火は掌の中で砕け、金色の粉になって板へ落ちる。
社の奥から様子を覗き見していた妖たちが、ざわりと息を呑んだ。
長老の黒い眼が、また冥府の底のように暗くなる。
「この娘は軛になど、せぬ」
「九郎助」
「珠璃は結界の杭ではない」
珠璃は九郎助の横顔を見上げた。
怒っている。けれど、その怒りは珠璃へ向いていない。
「朱籬の女たちは、俺にとって知らぬ者ではない」
金の眼が、社の奥を見据えた。
黒狐の役目は、冥府から生命を終えた人間も妖も捉えたまま逃さないことだ。
だから、これほど厳格に線引きをしようとするのだと珠璃にも解って来ていた。
「九郎助稲荷の前で幾人も泣いていた。客を呪う者。病を隠す者。子を宿して震える者。身請けを願う者。死んだ姐の名を、誰にも聞こえぬように置いていく者」
社の前で手を合わせる遊女たち。
灯りの届かぬ端に隠れ、絢爛豪華な袖に顔を伏せる。
願いなど叶わぬと知りながら、それでも祈らずにはいられぬ――
その姿を、九郎助はすべて見ていたのだ。
「願いは、みな重かった。恨みも、なお深かった。どれも穢れなどと一言で片付けてよいものではない」
九郎助は一歩前へ出た。
社の床板が、軋む。
「里は守る。都も守る」
「――では、契れ。お前の色に染めて里に馴染ませろ」
「朱籬が俺を選んでくれたら、だ」
「たかが人間の女のために、里を危うくするか」
珠璃は、自分が責められているのだと思った。
判っているのに、妖の里から九郎助の横から逃げ出せない。
どうやら、あの物の怪は珠璃を狙ったものらしいというのもあるが――。
「たかが、ではない」
九郎助が長老を睥睨する。
その眼に、珠璃は初めて、妖狐の強い気配を見た。
いつもの気遣いでも、庇護でもない。
触れれば燃える、刃のような怒りだった。
長老は黙っていた。
だが、ややあって、調子を変えた。
「お前は九尾になる妖狐だぞ」
「知っている」
「狐を束ね、物の怪どもと渡り合う」
「……そうだ」
「ならば、一刻も早く番を選べ。寿命の長い妖狐の姫を迎えよ。早う契って、契って、妖気を養い、尾を増やせ。人間の娘などすぐに老いる」
珠璃は目を伏せた。
――すぐに老いる。その言葉は、どの罵倒よりも深く刺さった。
廓での価値とは、若さと肌の張りと、まだ誰にも触れられていないことだった。
水揚げが済めば引付座敷で三々九度の真似事をし、床入りの手練手管を覚えて客を喜ばせること。
そこでは婚礼に似せた杯事さえ、つなぎ止めるための演出道具なのだ。
その全てを、別の価値観から容易く踏み抜かれた気がした。
人間であるからして老い易い、価値は殆どない。
珠璃は、九郎助の隣に長くは居られない。
ならば物の怪へ堕ちかけた娘を軛に使い、匂いなり気配なりで妖の里の目くらましにしてしまえばよい。そうした理屈の選択になるようだ。
九郎助が、それでも珠璃を救うと言い切る理由は何であろうか。
物の怪へ堕ちかけたから。
結界の軛になるから。
契れば力が増すから。
そうでないなら、なおさら判らない。
泣きたい気持ちに似ていたが、涙にはならなかった。
何しろ、泣き方さえ商売道具にされた身であった。



