葉月。
八月朔日、田実の祝い。
草庵の手前の垣根には、いつもの狐面が掛けられていた。
茹だる暑さも、もう珠璃の肌にはどこか遠かった。
半ば妖へ近付いた身体は、夏を以前ほど苦にしない。
里の草庵は、黄金の波に抱かれていた。
春には水を張るばかりだった田が、いまは一面に稲をくゆらせている。
青かった茎は深く色を変え、穂先には重みが宿る。
風が渡るたび、水田からざわりと音が起こる。
稲穂はまだ刈り取られるには早い。
けれど、確かな実りを約していた。
稲荷の妖狐に守られた里に、相応しい日だった。
黄金に輝く稲。
田実の祝い。
五穀豊穣の祈り。
遠くには葦の穂波が白く群れ、田には稲穂が重く垂れている。
風が渡るたび、白と黄金が揺れ、里のすべてが一つの金色へ溶け合っていく。
草庵の前には、白帷子を纏った九郎助が立っていた。
陽を受けた髪、金の眼、背筋のまっすぐな立ち姿。
白が人ならざるものの気配を際立たせている。
背後には、いつもと変わらぬ静かな佇まいの深い楠の森と古い社。
その隣に、白無垢の珠璃がいた。
珠璃の眸が、陽光を受けてきらめく。
黒の奥に紅が沈み、紅の縁に金が差している。
葛葉が宝石眼と呼んだそれは、いまや廓の灯りの下、男を惑わせるための眸ではない。
光を受けるたび、割れた玻璃の断面のように色を返し、見る者のほうが奥へ惹き込まれそうになる。
葛葉は、少し離れた縁側で指樽の塩梅を確かめていた。
童女めいた顔に、満足気で誇らし気な表情を浮かべている。
その傍らには、小鬼の団吾がいた。
祝いの場に似合うよう、普段よりきちんとした衣を着ているが、田のほうが気になるらしい。
稲穂が揺れるたび、視線だけがそちらへ引かれていく。
「団吾、稲は心配ないぞ」
葛葉が、三々九度に用いる漆の盃を縁側に並べながら横目で言う。
「本来なら、お前の仕事じゃぞ?」
「収穫前でございますからな。田実の祝いとはいえ、雨が気になって、気になって」
「ほう?」
「狐の嫁入りと申しますからには」
「我らこそが妖狐じゃぞ。今日は雨など降らせぬ。ほれ、盃を用意せよ」
縁側に置かれた七輪の網の上には、串を打たれた鮎が塩を吹いている。銀の腹が火に照り、尾の先が焦げて、川の匂いと炭の匂いが混じっていた。
隣では、丸茄子の皮が黒く縮んでいる。
箸で押せば、中はもうとろりと崩れそうだ。
焼けた皮の裂け目から、夏の名残のような湯気が立つ。
焙烙焼き用の鍋も傍らに用意され、ささやかな祝宴の様相を帯びている。
それらの更に上、草庵の軒先には、青く若い稲穂が掛けられていた。
まだ実りきらぬ稲を刈り取り、神前へ供える風習がある。
珠璃は、そっと息を吸った。
ここへ来た夜のことを思う。
葦舟に乗り、追われ、怖れ、身の置き場も判らぬまま連れて来られた。
だが、逃げ込んだ場所が、いつしか帰る場所になった。
飯も衣も、肌に触れるものも、廓では一級のものが揃えられる。
けれど、何を食べ、何を着て、誰の前に出るのか、自分では何一つ決められない。
辛さとは貧しさではなく選ぶ意思を奪われることだ。
この里の暮らしから、珠璃はいつしかそれを悟っていた。
その草庵で今、白無垢を纏っている。
隣の九郎助が、口を開いた。
「あのとき俺は、夏になれば、里は一面の稲田になる、と言ったな」
「うん」
九郎助も同じときのことを考えていたようだ。
「葉月の光景を見せられて、良かった」
その一言に、この里を背負う者の誇りがあった。
稲穂の向こう、田の水には空が映っている。
青と金の間を、狐火が一つ滑った。
昼の光の中で見る狐火は、稲穂の金と見分けがつかぬほど自然に、田の上を渡っていく。
稲荷の狐と稲が、同じ土地の息で結ばれていることを見せるようだった。
珠璃は、九郎助の横顔を見上げた。
「九郎助さま」
名を呼ぶと、金の眼がこちらへ向いた。
怖くない、と言えばまだ嘘になる。
この人は、ただ優しい男ではない。やはり妖だ。
物の怪が現れれば、調伏に出向かざるを得ない運命を背負っている。この先も、穏やかな日ばかりが続くとは限らない。
赴く場所も、朱籬新地のみではないだろう。
里を越え、橋を越え、いずれ人間と妖の世の裂け目へ向かう日が来る。
「どうして、わたし?」
問いは、小さく零れた。
九郎助は、すぐには答えなかった。
風に揺れる稲穂の向こうを見、それから徐に珠璃へ目を戻す。
「俺は、縁結びの狐でもある。――その俺が、百年待って選んだ縁だ」
珠璃は、何も言えなくなった。
番に選ばれてからというもの、ずっと考えていた。
迷いながら、懸命について来た。怖くても、判らなくても、九郎助の背を見失わぬように歩いて来た。
それでも、ふと知りたくなったのだ。
どうして、百年も。
どうして、珠璃なのか。
「お前は、運命に翻弄されるばかりの、か弱い娘とは違う」
その言葉が、白無垢の内側へ静かに沁み込んでいく。
「どんなに細い運命の糸でも、自ら手繰り寄せる娘だ。見事な奉納の舞を踊り切った姿が、未だに目に焼き付いている」
紅い大傘を手に、泥を踏み、穢れを狐火へ渡した夜。
あの時、九郎助は思い知ったのだ。
珠璃は、囲って守るだけの娘ではない。
傷を抱えたまま、自分の足で穢れの前へ立てる娘なのだと。
あれは誰かに命じられ、守られるままに踊った舞ではなかった。
あの夜、穢れは、噴き出す先を求めて彷徨っていた。
積極的に里へ入りたいのではない。子狐を喰らいたいのでもない。
ただ、どこへ向かえばいいのか判らず、怪異へ変じる明確な意思もないまま、紅い火となって水辺に迷っていた。
その火が、珠璃の舞に惹かれた。
紅い大傘の流れるような翻り。
泥濘みに足を取られそうになりながらも、崩れぬ運び。
廓で売り物にされた筈の所作。
それらが誰にも媚びず、誰にも値を付けさせず、夜の水辺で一つの神事となっていた。
その見事さに、穢れの奥で荒びかけていたものが、鎮められたのだ。
喰らうための火ではなく、導かれるための火へ。
祟るための荒魂ではなく、鎮められた和魂へ。
物の怪へ堕ちる筈だった者さえ、現世の美しさを思い出し、珠璃の傘を追った。
だから珠璃は、里を守る先導役となれたのだ。
「生まれも育ちも、己の身に刻まれたものも、すべてを越えてきた。売られるための意味を変じ、値を付けられるための価値を変え、自らの足でここまで来た」
売られて来た。
名を変えられた。
衣を着せられ、芸を仕込まれ、いつか誰かに身体を買われるものとして育てられた。
だから「選ばれる」という言葉には、今もどこか怖さがある。
選ばれるとは、値を付けられること。
選ばれないとは、捨てられること。
そう教え込まれてきた。
けれど珠璃は、番頭新造のように、遣り手婆のように、女が女を更に深い谷底へ沈める道を選ばなかった。
逃げ出して、廓とは違う場所で独り咲くこともできた。
妖の里で、九郎助に囲われ、守られるのみの花になることもできた。
怖いからと、物の怪へ堕ちた女たちの嘆きから目を逸らすこともできた。
けれど、どれも選ばなかった。
「種族や寿命の違いさえも越え、縁を結ぶ覚悟を決め、重い天命を背負う俺を選んでくれた。……そうだろう?」
選ぶとは、値を付けられることではない。
囲われることでも、奪われることでもない。
自分の足で歩いて、共に並び立つ相手の道を、同じだけ引き受けることなのだ。
九郎助は無理を通さなかった。
珠璃が自ら頷くまで、待ってくれた。
守りながらも、選ぶ余地を残そうとしてくれていた。
「廓から逃れ、他で咲く選択肢もあった。俺はお前から選択肢を奪わぬよう、為るべくした……心算だ」
為るべく、というところに、九郎助らしい不器用さがあった。
本当は、何もかも自分の許へ置きたかったのかもしれない。
物の怪からも、野狐からも、朱籬廓の名残からも、世の悪意からも、珠璃を遠ざけたかったのかもしれない。
それでも九郎助は、閉じ込めなかった。
白い袖を掴んで引き戻す代わりに、道の先へ狐火を置いた。
珠璃が怖いまま進むなら、その足許を照らし続けることを選んだ。
「強い娘なのだ。俺は、そんな娘を待っていた」
待ってくれる。
けれど、選んだ後は離さない。
その甘さと怖さが、九郎助には同じだけある。
珠璃は、自分の白い袖を見た。
稲田の黄金が照り映え、目にも鮮やかな色に染まっている。
かつて廓の中で、八朔の日の花魁道中の余興として消費されていた白無垢。
今は、自分で選んだ道の上で、九郎助の隣に立つための白と金に溶け合った色になっていた。
「九郎助さまを受け入れると決めた時、あなたの天命も丸ごと飲み込む覚悟を決めました」
きっと誰かを愛することは、ただその人の温もりを欲しがることではない。
その人が背負う道も、逃れられぬ役目も、いつか向かう闇も、共に抱えると決めること。
そして珠璃の願いもまた、九郎助が分かち合ってくれる。
誰かを愛することは、片方のみが救われることではない。
お互いの天命を、怖いまま、甘いまま、抱え合うことなのだ。
葛葉が、ぴくりと耳を動かした。
団吾は何か言いかけ、葛葉に袖を引かれて口を閉じる。
「朱籬新地を変えることを、共に担ってくださったこと、感謝しています。物の怪の調伏へ向かうのは、今も怖い。怖くないと言えば、きっと嘘になります」
珠璃は九郎助をまっすぐ見た。
金色の稲穂が、風に傾く。
一面の実りが低く波打ち、白無垢の裾にも淡い光を映した。
「それでも、あなたの天命を、わたしも助けたい」
九郎助の眼に、深い翳りが差した。
いつか九尾へ至る。
その宿願は、最早九郎助一人のものではない。
番となった以上、片方の願いは、もう片方の命にも触れる。
「穏やかな道ではない。わたしのように、物の怪の注意を引いてしまう者も、そう多くはない……と思います」
それは、誇りではない。
傷を役に立てたいという、願いだった。
朱籬廓で奪われたもの。
狐火渡りの夜に拾い直したもの。
人と妖の間で、漸く自分のものとして抱けるようになったもの。
そのすべてを、この先へと持っていくため。
「あなたが何を探しているのか、どうして九尾にならなくてはならないのか。……わたしには、まだ正しくは判らない」
九郎助は何も言わなかった。
ただ、金の眼で稲田の向こうを見ている。
「けれど、人と妖の間に立つあなたを、わたしも同じ間から支えます。守られるためではなく、共に歩くために」
稲田の実りが、目に見えない季節から始まっているように。
天命もまた、見えぬところで根を張り、時を得て芽吹くのだろう。
珠璃は、狐火の宿る手首を差し出した。
「あなたの宿願が命に刻まれているというのなら、わたしの命にも刻んで欲しい」
九郎助は、その手を取った。
握り潰すような強さではない。
逃がさぬためでもない。
ただ、これから先の長い道を、決して見失わぬための結び方だった。
白帷子の袖と、白無垢の袖が触れる。
その間に、金の狐火が一つ灯った。
火は、二人の手の内で細く尾を引いた。
熱いのに痛くはない。
縛る火ではなく、あの道を示す火だ。
朱籬廓から逃げるために灯った火が、今は同じ場所へ戻り、更にその先へ進むための火になっている。
「ならば、珠璃」
九郎助は、改めてその名を呼んだ。
甘く呼ぶためではない。
番として、同じ天命の前へ立たせるための呼び方だった。
「番として、俺の天命を共に負え」
金の稲穂が風に伏し、また起きる。
その音は、遠い祝詞の始まりに似ていた。
「俺もまた、お前の願いを負う」
珠璃の手首で、狐火が淡く揺れた。
あの日、契りとして結ばれた金の火が、今は命の奥へまで根を下ろしている。
「朱籬新地を守る。水底へ身を投げた女たちを忘れぬ。物の怪へ堕ち、喰われる人間を見捨てぬ」
それは、甘い誓いというより、社前で交わす、二人の間柄にだけ成立する厳正な誓いだった。
妖にとって、何より重い天命にかけて、誓っているのだから。
珠璃には、そのほうがずっとよかった。
肉体的な欲に塗れた愛だけを囁かれるより、もっと深く、長く、逃れがたく結びつく気がした。
この昂然と立つ人の隣へ、自分も立つのだと、命から絡め取られた結び付きだ。
「誓う」
九郎助は、珠璃の手を取った。
その手は奪わない。
縛らない。
同じ天命へ向き合いながら、珠璃を確かに選んでいた。
「はい」
珠璃は、九郎助の手を握り返した。
「わたしも、あなたの番として永久に。逃げず、隠れず」
風が渡った。
その時、九郎助の背後で金色が揺れた。
珠璃は目を見開いた。
狐の尾だ。
いつもの尾へ寄り添うように、もう一本、淡金の尾が生まれている。
草庵の方から、葛葉の跳ねるような歓声が上がった。
兄の妖力が増す。
それは、物の怪との闘いの中で、兄を死から遠ざける力が増すということでもある。
喜ばずに居られる筈がない。
今の珠璃には、その思いが痛いほど判った。
「尾が増えれば、妖力が増す。信心してくれた者たちを、安らかに後生へ送り出す力も、それだけ強まるということだ」
後生、つまり来世だ。
その言葉に、珠璃は顔を上げた。
目の前の九郎助が、増えたばかりの尾を揺らしながら、珠璃を見ている。
「だが、今世を共に過ごしたいのはお前だけだ」
百年を生き、これから先も長く生きる妖。
その九郎助が、今この世の時間を、珠璃に預けると言ってくれている。
珠璃は九郎助をまっすぐ見ながら頷いた。
信心してくれた者たち。
その言葉に、珠璃はやはり思い出してしまう。
紅扇姐さまを。
どれほど願っても、あの人が最期にどうなったのか、今から確かめる術はない。
あの手を掴むことも、冷たい水際から引き戻すことも、もう叶わない。
けれど。
姐さまは、後生の頼みを強く願っていた。
こんな苦界の外に、次こそは息のできる場所があるのだと、どこかで信じたかったのだ。
九郎助の尾が増える。
九郎助の妖力が増す。
それは、ただ強くなるということではない。
水底へ沈んだ女たちへ。
名を失くした女たちへ。
誰にも見送られず、誰にも惜しまれず、帳面の外へ零れ落ちた女たちへ。
いつか、その火が届くかもしれない。
紅扇姐さまが、あれほど願っていた後生へと。
珠璃の手では届かなかった場所へ、九郎助の狐火なら届く日が来るかもしれない。
そう思った瞬間、珠璃は漸く判った。
九郎助の天命を助けたいという願いは、九郎助のみのためではない。
珠璃が失った人のためでもあるのだ。
ふいに風が吹き、稲穂が一斉に頭を垂れた。
黄金の波は、祝うようにも、拝するようにも見える。
田の水が陽を返し、その上を狐火が走った。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
昼の光の中で、それらは稲の実りと見分けがつかぬほど自然に揺れる。
風がまた渡り、稲田の向こうの木に、青い柿が幾つか実っているのが珠璃の宝石眼に映った。
まだ色付かぬ硬い実ばかりだった。
けれど、それらがいつか見た照柿色へ染まる日も、そう遠くないように思われた。
八月朔日、田実の祝い。
草庵の手前の垣根には、いつもの狐面が掛けられていた。
茹だる暑さも、もう珠璃の肌にはどこか遠かった。
半ば妖へ近付いた身体は、夏を以前ほど苦にしない。
里の草庵は、黄金の波に抱かれていた。
春には水を張るばかりだった田が、いまは一面に稲をくゆらせている。
青かった茎は深く色を変え、穂先には重みが宿る。
風が渡るたび、水田からざわりと音が起こる。
稲穂はまだ刈り取られるには早い。
けれど、確かな実りを約していた。
稲荷の妖狐に守られた里に、相応しい日だった。
黄金に輝く稲。
田実の祝い。
五穀豊穣の祈り。
遠くには葦の穂波が白く群れ、田には稲穂が重く垂れている。
風が渡るたび、白と黄金が揺れ、里のすべてが一つの金色へ溶け合っていく。
草庵の前には、白帷子を纏った九郎助が立っていた。
陽を受けた髪、金の眼、背筋のまっすぐな立ち姿。
白が人ならざるものの気配を際立たせている。
背後には、いつもと変わらぬ静かな佇まいの深い楠の森と古い社。
その隣に、白無垢の珠璃がいた。
珠璃の眸が、陽光を受けてきらめく。
黒の奥に紅が沈み、紅の縁に金が差している。
葛葉が宝石眼と呼んだそれは、いまや廓の灯りの下、男を惑わせるための眸ではない。
光を受けるたび、割れた玻璃の断面のように色を返し、見る者のほうが奥へ惹き込まれそうになる。
葛葉は、少し離れた縁側で指樽の塩梅を確かめていた。
童女めいた顔に、満足気で誇らし気な表情を浮かべている。
その傍らには、小鬼の団吾がいた。
祝いの場に似合うよう、普段よりきちんとした衣を着ているが、田のほうが気になるらしい。
稲穂が揺れるたび、視線だけがそちらへ引かれていく。
「団吾、稲は心配ないぞ」
葛葉が、三々九度に用いる漆の盃を縁側に並べながら横目で言う。
「本来なら、お前の仕事じゃぞ?」
「収穫前でございますからな。田実の祝いとはいえ、雨が気になって、気になって」
「ほう?」
「狐の嫁入りと申しますからには」
「我らこそが妖狐じゃぞ。今日は雨など降らせぬ。ほれ、盃を用意せよ」
縁側に置かれた七輪の網の上には、串を打たれた鮎が塩を吹いている。銀の腹が火に照り、尾の先が焦げて、川の匂いと炭の匂いが混じっていた。
隣では、丸茄子の皮が黒く縮んでいる。
箸で押せば、中はもうとろりと崩れそうだ。
焼けた皮の裂け目から、夏の名残のような湯気が立つ。
焙烙焼き用の鍋も傍らに用意され、ささやかな祝宴の様相を帯びている。
それらの更に上、草庵の軒先には、青く若い稲穂が掛けられていた。
まだ実りきらぬ稲を刈り取り、神前へ供える風習がある。
珠璃は、そっと息を吸った。
ここへ来た夜のことを思う。
葦舟に乗り、追われ、怖れ、身の置き場も判らぬまま連れて来られた。
だが、逃げ込んだ場所が、いつしか帰る場所になった。
飯も衣も、肌に触れるものも、廓では一級のものが揃えられる。
けれど、何を食べ、何を着て、誰の前に出るのか、自分では何一つ決められない。
辛さとは貧しさではなく選ぶ意思を奪われることだ。
この里の暮らしから、珠璃はいつしかそれを悟っていた。
その草庵で今、白無垢を纏っている。
隣の九郎助が、口を開いた。
「あのとき俺は、夏になれば、里は一面の稲田になる、と言ったな」
「うん」
九郎助も同じときのことを考えていたようだ。
「葉月の光景を見せられて、良かった」
その一言に、この里を背負う者の誇りがあった。
稲穂の向こう、田の水には空が映っている。
青と金の間を、狐火が一つ滑った。
昼の光の中で見る狐火は、稲穂の金と見分けがつかぬほど自然に、田の上を渡っていく。
稲荷の狐と稲が、同じ土地の息で結ばれていることを見せるようだった。
珠璃は、九郎助の横顔を見上げた。
「九郎助さま」
名を呼ぶと、金の眼がこちらへ向いた。
怖くない、と言えばまだ嘘になる。
この人は、ただ優しい男ではない。やはり妖だ。
物の怪が現れれば、調伏に出向かざるを得ない運命を背負っている。この先も、穏やかな日ばかりが続くとは限らない。
赴く場所も、朱籬新地のみではないだろう。
里を越え、橋を越え、いずれ人間と妖の世の裂け目へ向かう日が来る。
「どうして、わたし?」
問いは、小さく零れた。
九郎助は、すぐには答えなかった。
風に揺れる稲穂の向こうを見、それから徐に珠璃へ目を戻す。
「俺は、縁結びの狐でもある。――その俺が、百年待って選んだ縁だ」
珠璃は、何も言えなくなった。
番に選ばれてからというもの、ずっと考えていた。
迷いながら、懸命について来た。怖くても、判らなくても、九郎助の背を見失わぬように歩いて来た。
それでも、ふと知りたくなったのだ。
どうして、百年も。
どうして、珠璃なのか。
「お前は、運命に翻弄されるばかりの、か弱い娘とは違う」
その言葉が、白無垢の内側へ静かに沁み込んでいく。
「どんなに細い運命の糸でも、自ら手繰り寄せる娘だ。見事な奉納の舞を踊り切った姿が、未だに目に焼き付いている」
紅い大傘を手に、泥を踏み、穢れを狐火へ渡した夜。
あの時、九郎助は思い知ったのだ。
珠璃は、囲って守るだけの娘ではない。
傷を抱えたまま、自分の足で穢れの前へ立てる娘なのだと。
あれは誰かに命じられ、守られるままに踊った舞ではなかった。
あの夜、穢れは、噴き出す先を求めて彷徨っていた。
積極的に里へ入りたいのではない。子狐を喰らいたいのでもない。
ただ、どこへ向かえばいいのか判らず、怪異へ変じる明確な意思もないまま、紅い火となって水辺に迷っていた。
その火が、珠璃の舞に惹かれた。
紅い大傘の流れるような翻り。
泥濘みに足を取られそうになりながらも、崩れぬ運び。
廓で売り物にされた筈の所作。
それらが誰にも媚びず、誰にも値を付けさせず、夜の水辺で一つの神事となっていた。
その見事さに、穢れの奥で荒びかけていたものが、鎮められたのだ。
喰らうための火ではなく、導かれるための火へ。
祟るための荒魂ではなく、鎮められた和魂へ。
物の怪へ堕ちる筈だった者さえ、現世の美しさを思い出し、珠璃の傘を追った。
だから珠璃は、里を守る先導役となれたのだ。
「生まれも育ちも、己の身に刻まれたものも、すべてを越えてきた。売られるための意味を変じ、値を付けられるための価値を変え、自らの足でここまで来た」
売られて来た。
名を変えられた。
衣を着せられ、芸を仕込まれ、いつか誰かに身体を買われるものとして育てられた。
だから「選ばれる」という言葉には、今もどこか怖さがある。
選ばれるとは、値を付けられること。
選ばれないとは、捨てられること。
そう教え込まれてきた。
けれど珠璃は、番頭新造のように、遣り手婆のように、女が女を更に深い谷底へ沈める道を選ばなかった。
逃げ出して、廓とは違う場所で独り咲くこともできた。
妖の里で、九郎助に囲われ、守られるのみの花になることもできた。
怖いからと、物の怪へ堕ちた女たちの嘆きから目を逸らすこともできた。
けれど、どれも選ばなかった。
「種族や寿命の違いさえも越え、縁を結ぶ覚悟を決め、重い天命を背負う俺を選んでくれた。……そうだろう?」
選ぶとは、値を付けられることではない。
囲われることでも、奪われることでもない。
自分の足で歩いて、共に並び立つ相手の道を、同じだけ引き受けることなのだ。
九郎助は無理を通さなかった。
珠璃が自ら頷くまで、待ってくれた。
守りながらも、選ぶ余地を残そうとしてくれていた。
「廓から逃れ、他で咲く選択肢もあった。俺はお前から選択肢を奪わぬよう、為るべくした……心算だ」
為るべく、というところに、九郎助らしい不器用さがあった。
本当は、何もかも自分の許へ置きたかったのかもしれない。
物の怪からも、野狐からも、朱籬廓の名残からも、世の悪意からも、珠璃を遠ざけたかったのかもしれない。
それでも九郎助は、閉じ込めなかった。
白い袖を掴んで引き戻す代わりに、道の先へ狐火を置いた。
珠璃が怖いまま進むなら、その足許を照らし続けることを選んだ。
「強い娘なのだ。俺は、そんな娘を待っていた」
待ってくれる。
けれど、選んだ後は離さない。
その甘さと怖さが、九郎助には同じだけある。
珠璃は、自分の白い袖を見た。
稲田の黄金が照り映え、目にも鮮やかな色に染まっている。
かつて廓の中で、八朔の日の花魁道中の余興として消費されていた白無垢。
今は、自分で選んだ道の上で、九郎助の隣に立つための白と金に溶け合った色になっていた。
「九郎助さまを受け入れると決めた時、あなたの天命も丸ごと飲み込む覚悟を決めました」
きっと誰かを愛することは、ただその人の温もりを欲しがることではない。
その人が背負う道も、逃れられぬ役目も、いつか向かう闇も、共に抱えると決めること。
そして珠璃の願いもまた、九郎助が分かち合ってくれる。
誰かを愛することは、片方のみが救われることではない。
お互いの天命を、怖いまま、甘いまま、抱え合うことなのだ。
葛葉が、ぴくりと耳を動かした。
団吾は何か言いかけ、葛葉に袖を引かれて口を閉じる。
「朱籬新地を変えることを、共に担ってくださったこと、感謝しています。物の怪の調伏へ向かうのは、今も怖い。怖くないと言えば、きっと嘘になります」
珠璃は九郎助をまっすぐ見た。
金色の稲穂が、風に傾く。
一面の実りが低く波打ち、白無垢の裾にも淡い光を映した。
「それでも、あなたの天命を、わたしも助けたい」
九郎助の眼に、深い翳りが差した。
いつか九尾へ至る。
その宿願は、最早九郎助一人のものではない。
番となった以上、片方の願いは、もう片方の命にも触れる。
「穏やかな道ではない。わたしのように、物の怪の注意を引いてしまう者も、そう多くはない……と思います」
それは、誇りではない。
傷を役に立てたいという、願いだった。
朱籬廓で奪われたもの。
狐火渡りの夜に拾い直したもの。
人と妖の間で、漸く自分のものとして抱けるようになったもの。
そのすべてを、この先へと持っていくため。
「あなたが何を探しているのか、どうして九尾にならなくてはならないのか。……わたしには、まだ正しくは判らない」
九郎助は何も言わなかった。
ただ、金の眼で稲田の向こうを見ている。
「けれど、人と妖の間に立つあなたを、わたしも同じ間から支えます。守られるためではなく、共に歩くために」
稲田の実りが、目に見えない季節から始まっているように。
天命もまた、見えぬところで根を張り、時を得て芽吹くのだろう。
珠璃は、狐火の宿る手首を差し出した。
「あなたの宿願が命に刻まれているというのなら、わたしの命にも刻んで欲しい」
九郎助は、その手を取った。
握り潰すような強さではない。
逃がさぬためでもない。
ただ、これから先の長い道を、決して見失わぬための結び方だった。
白帷子の袖と、白無垢の袖が触れる。
その間に、金の狐火が一つ灯った。
火は、二人の手の内で細く尾を引いた。
熱いのに痛くはない。
縛る火ではなく、あの道を示す火だ。
朱籬廓から逃げるために灯った火が、今は同じ場所へ戻り、更にその先へ進むための火になっている。
「ならば、珠璃」
九郎助は、改めてその名を呼んだ。
甘く呼ぶためではない。
番として、同じ天命の前へ立たせるための呼び方だった。
「番として、俺の天命を共に負え」
金の稲穂が風に伏し、また起きる。
その音は、遠い祝詞の始まりに似ていた。
「俺もまた、お前の願いを負う」
珠璃の手首で、狐火が淡く揺れた。
あの日、契りとして結ばれた金の火が、今は命の奥へまで根を下ろしている。
「朱籬新地を守る。水底へ身を投げた女たちを忘れぬ。物の怪へ堕ち、喰われる人間を見捨てぬ」
それは、甘い誓いというより、社前で交わす、二人の間柄にだけ成立する厳正な誓いだった。
妖にとって、何より重い天命にかけて、誓っているのだから。
珠璃には、そのほうがずっとよかった。
肉体的な欲に塗れた愛だけを囁かれるより、もっと深く、長く、逃れがたく結びつく気がした。
この昂然と立つ人の隣へ、自分も立つのだと、命から絡め取られた結び付きだ。
「誓う」
九郎助は、珠璃の手を取った。
その手は奪わない。
縛らない。
同じ天命へ向き合いながら、珠璃を確かに選んでいた。
「はい」
珠璃は、九郎助の手を握り返した。
「わたしも、あなたの番として永久に。逃げず、隠れず」
風が渡った。
その時、九郎助の背後で金色が揺れた。
珠璃は目を見開いた。
狐の尾だ。
いつもの尾へ寄り添うように、もう一本、淡金の尾が生まれている。
草庵の方から、葛葉の跳ねるような歓声が上がった。
兄の妖力が増す。
それは、物の怪との闘いの中で、兄を死から遠ざける力が増すということでもある。
喜ばずに居られる筈がない。
今の珠璃には、その思いが痛いほど判った。
「尾が増えれば、妖力が増す。信心してくれた者たちを、安らかに後生へ送り出す力も、それだけ強まるということだ」
後生、つまり来世だ。
その言葉に、珠璃は顔を上げた。
目の前の九郎助が、増えたばかりの尾を揺らしながら、珠璃を見ている。
「だが、今世を共に過ごしたいのはお前だけだ」
百年を生き、これから先も長く生きる妖。
その九郎助が、今この世の時間を、珠璃に預けると言ってくれている。
珠璃は九郎助をまっすぐ見ながら頷いた。
信心してくれた者たち。
その言葉に、珠璃はやはり思い出してしまう。
紅扇姐さまを。
どれほど願っても、あの人が最期にどうなったのか、今から確かめる術はない。
あの手を掴むことも、冷たい水際から引き戻すことも、もう叶わない。
けれど。
姐さまは、後生の頼みを強く願っていた。
こんな苦界の外に、次こそは息のできる場所があるのだと、どこかで信じたかったのだ。
九郎助の尾が増える。
九郎助の妖力が増す。
それは、ただ強くなるということではない。
水底へ沈んだ女たちへ。
名を失くした女たちへ。
誰にも見送られず、誰にも惜しまれず、帳面の外へ零れ落ちた女たちへ。
いつか、その火が届くかもしれない。
紅扇姐さまが、あれほど願っていた後生へと。
珠璃の手では届かなかった場所へ、九郎助の狐火なら届く日が来るかもしれない。
そう思った瞬間、珠璃は漸く判った。
九郎助の天命を助けたいという願いは、九郎助のみのためではない。
珠璃が失った人のためでもあるのだ。
ふいに風が吹き、稲穂が一斉に頭を垂れた。
黄金の波は、祝うようにも、拝するようにも見える。
田の水が陽を返し、その上を狐火が走った。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
昼の光の中で、それらは稲の実りと見分けがつかぬほど自然に揺れる。
風がまた渡り、稲田の向こうの木に、青い柿が幾つか実っているのが珠璃の宝石眼に映った。
まだ色付かぬ硬い実ばかりだった。
けれど、それらがいつか見た照柿色へ染まる日も、そう遠くないように思われた。



