「三津田さま」
珠璃は顔を上げた。
「出資をお受けいたします。ただし、女を傷つける客は、どれほど金を積んでも出入りお断りでありんす」
「よい」
「芸妓衆への支払いは、こちらで決めます。客筋を盾に、値を叩くこともお断りでありんす」
「それもよい」
「……それから」
珠璃は、三津田をまっすぐ見た。
ここだけは譲らない、と決めていた。
「わたしを、深朱太夫とは呼ばないでおくんなんし」
廓に与えられた名だ。
値をつけ、飾り、客の前へ差し出すための名だった。
もう、その名で過去の記憶に引き戻されたくはない。
「それでも、よろしおすか?」
三津田は一拍置いてから、深く笑った。
「承知した。だが、芸妓の仕込みは甘やかしてはならぬぞ。煽てて使うのは楽だが、楽な先に待つのは身の没落だ」
長く世を見て、痛い目も甘い汁も一通り味わった老人だけがする笑いだった。
「その場で恨まれても、後から思い返して有り難かったと思えるものだけが本物でな。……人の欲に合う珍しさ、付け焼き刃の人真似だけで値が付く女もいる」
何も手を付けない三津田に気兼ねして、気の利く若い娘が温かい茶を運んで来た。
蘭と珠璃の小料理屋の躾は、行き届き始めている。
「それは芸ではない。そんなものは相手の欲に寄り掛かっただけだ。後に残らぬ。いずれ没落する」
三津田は湯呑へ目をやり、満足そうに頷いた。
「こういうことだ。言われずとも察し、出しゃばらず、遅れもせぬ。これも立派な芸のうちだ。客を読もうとしている」
三津田は、茶を運んで来た娘の背を目で追った。
「判るか? 楽に愛される夢ばかり食わせて育てた娘は、金を払う客にはならん。選ばれる側だと思い込んだまま長じた後、人間を見抜いて選ぶ目も、金を稼ぐ手も育たぬ。花柳界を漂う二流で終わるのが関の山だ」
細かな算段までは、まだ若い珠璃には追い切れない。
ただ、三津田の言葉が娘の先の値打ちを見ているのだということは、朧げに伝わった。
「あの娘は、いずれ立派な芸妓になるだろうさ。……そうなった時、どうだ? 厳しく育ててくれた見世には、大恩が残る。やがて政界の大物の内儀にでも収まれば、晴れの席を設けるのは、お前の店だ。格調高く、絶対に間違いがないと、躾けられた身を以て信じ、任せられるからだ」
「芸妓が……政の?」
珠璃には考えられないことだった。
芸は身を売る前の飾りであり、客の座を華やがせるためのものだと、かつては教えられてきた。
けれど三津田の眼差しは、座敷の先を見ていた。
大店の跡取りの祝言。
名跡を継ぐ者の披露。
政の筋と商家筋が、盃の陰で腹を合わせる夜。
誰を上座へ据え、誰の盃を先に満たし、どの芸妓をいつ入れるか。
料理の格、酒の銘、帰り際の土産一つで、客の面子も、次の金の流れも変わる。
国を背負って立つ話は、異国風の食堂で卓子を挟んで済ませるものではない。
畳の目、膳の高さ、盃を差し出す順、襖の向こうに控える芸妓の息遣い。
一つ一つを読み違えぬ座敷でこそ、人は本音を零す。
大きな仕切りの転換点を一手に任される珠璃の姿を、三津田は当たり前のように思い描いている。
「これからの世では、それすら可能だろうよ。お前の見世は人間と妖の商談さえ成立する貴重な場になる」
小料理屋の暖簾の向こうに、今まで見たことのない道が一本、細く引かれたようだった。
「安い女を育てるな。……安く扱われれば、女はその値に似つかわしい、三文小説の顛末を辿る。安い夢だけを追って果てる。長じた後、この見世に戻り、金を落とすことはない」
その言葉に、珠璃は紅扇姐さまを思い出した。
――妾の今世の願いの一つは、あんたが安く売られぬようでありんす。
「苦労して芸を仕込まれた娘は違う。稼ぐ芸妓となって戻り、今度は高い座敷を呼ぶ客にもなる。こちらは世のため人のために育てた顔をして、一流処から先々まで取れる」
購買力を持つ賢い芸妓になるよう、叱るべきところは叱り、育てるべきなのだ。
珠璃は、素直に頷いた。
きっちり芸を仕込むことと、痛めつけることは違う。
それを取り違えた場所で育ったからこそ、その差だけは見誤れない。
かつての紅籬楼には、躾の名を借りただけの折檻も多かった。
「では、珠璃姫。よろしく頼む」
その呼び方は、少し不思議だった。
売り物としての名でも、花魁としての名でもない。
商いの相手として呼ばれた名であり、妖狐の里の長の番である今は本名でもあるものだった。
珠璃は、初めて三津田へ小さく頭を下げた。
「そのくらい、気が強くなくては困る」
三津田は、漸く団子汁へ口を付けた。
湯気の向こうで、すでに胸中は新しい算盤を弾いているようだ。
それから、思い出したように目を上げる。
「それと、酒を。こういう太平楽な話と美人を肴に飲む酒は、旨いと決まっておる。……珠璃姫、まァ、一杯」
先程の気の利いた働き娘が、珠璃に席を立たせる間もなく、即座に銚子を運んで来た。
たちまち珠璃の前へ小さな盃が置かれ、澄んだ酒がとくりと注がれる。
珠璃は盃を取り上げ、三津田へ軽く目礼してから口を付けた。
一口で干す。
空いた盃を掌に受けたまま、三津田へ目を向けた。
「御返杯」
廓できつく仕込まれた作法は、身体に残っている。
けれど今は、客に媚びるためではない。
商いの相手として、盃を返すためのものだった。
三津田は心底愉快そうに目を細めた。
珠璃は顔を上げた。
「出資をお受けいたします。ただし、女を傷つける客は、どれほど金を積んでも出入りお断りでありんす」
「よい」
「芸妓衆への支払いは、こちらで決めます。客筋を盾に、値を叩くこともお断りでありんす」
「それもよい」
「……それから」
珠璃は、三津田をまっすぐ見た。
ここだけは譲らない、と決めていた。
「わたしを、深朱太夫とは呼ばないでおくんなんし」
廓に与えられた名だ。
値をつけ、飾り、客の前へ差し出すための名だった。
もう、その名で過去の記憶に引き戻されたくはない。
「それでも、よろしおすか?」
三津田は一拍置いてから、深く笑った。
「承知した。だが、芸妓の仕込みは甘やかしてはならぬぞ。煽てて使うのは楽だが、楽な先に待つのは身の没落だ」
長く世を見て、痛い目も甘い汁も一通り味わった老人だけがする笑いだった。
「その場で恨まれても、後から思い返して有り難かったと思えるものだけが本物でな。……人の欲に合う珍しさ、付け焼き刃の人真似だけで値が付く女もいる」
何も手を付けない三津田に気兼ねして、気の利く若い娘が温かい茶を運んで来た。
蘭と珠璃の小料理屋の躾は、行き届き始めている。
「それは芸ではない。そんなものは相手の欲に寄り掛かっただけだ。後に残らぬ。いずれ没落する」
三津田は湯呑へ目をやり、満足そうに頷いた。
「こういうことだ。言われずとも察し、出しゃばらず、遅れもせぬ。これも立派な芸のうちだ。客を読もうとしている」
三津田は、茶を運んで来た娘の背を目で追った。
「判るか? 楽に愛される夢ばかり食わせて育てた娘は、金を払う客にはならん。選ばれる側だと思い込んだまま長じた後、人間を見抜いて選ぶ目も、金を稼ぐ手も育たぬ。花柳界を漂う二流で終わるのが関の山だ」
細かな算段までは、まだ若い珠璃には追い切れない。
ただ、三津田の言葉が娘の先の値打ちを見ているのだということは、朧げに伝わった。
「あの娘は、いずれ立派な芸妓になるだろうさ。……そうなった時、どうだ? 厳しく育ててくれた見世には、大恩が残る。やがて政界の大物の内儀にでも収まれば、晴れの席を設けるのは、お前の店だ。格調高く、絶対に間違いがないと、躾けられた身を以て信じ、任せられるからだ」
「芸妓が……政の?」
珠璃には考えられないことだった。
芸は身を売る前の飾りであり、客の座を華やがせるためのものだと、かつては教えられてきた。
けれど三津田の眼差しは、座敷の先を見ていた。
大店の跡取りの祝言。
名跡を継ぐ者の披露。
政の筋と商家筋が、盃の陰で腹を合わせる夜。
誰を上座へ据え、誰の盃を先に満たし、どの芸妓をいつ入れるか。
料理の格、酒の銘、帰り際の土産一つで、客の面子も、次の金の流れも変わる。
国を背負って立つ話は、異国風の食堂で卓子を挟んで済ませるものではない。
畳の目、膳の高さ、盃を差し出す順、襖の向こうに控える芸妓の息遣い。
一つ一つを読み違えぬ座敷でこそ、人は本音を零す。
大きな仕切りの転換点を一手に任される珠璃の姿を、三津田は当たり前のように思い描いている。
「これからの世では、それすら可能だろうよ。お前の見世は人間と妖の商談さえ成立する貴重な場になる」
小料理屋の暖簾の向こうに、今まで見たことのない道が一本、細く引かれたようだった。
「安い女を育てるな。……安く扱われれば、女はその値に似つかわしい、三文小説の顛末を辿る。安い夢だけを追って果てる。長じた後、この見世に戻り、金を落とすことはない」
その言葉に、珠璃は紅扇姐さまを思い出した。
――妾の今世の願いの一つは、あんたが安く売られぬようでありんす。
「苦労して芸を仕込まれた娘は違う。稼ぐ芸妓となって戻り、今度は高い座敷を呼ぶ客にもなる。こちらは世のため人のために育てた顔をして、一流処から先々まで取れる」
購買力を持つ賢い芸妓になるよう、叱るべきところは叱り、育てるべきなのだ。
珠璃は、素直に頷いた。
きっちり芸を仕込むことと、痛めつけることは違う。
それを取り違えた場所で育ったからこそ、その差だけは見誤れない。
かつての紅籬楼には、躾の名を借りただけの折檻も多かった。
「では、珠璃姫。よろしく頼む」
その呼び方は、少し不思議だった。
売り物としての名でも、花魁としての名でもない。
商いの相手として呼ばれた名であり、妖狐の里の長の番である今は本名でもあるものだった。
珠璃は、初めて三津田へ小さく頭を下げた。
「そのくらい、気が強くなくては困る」
三津田は、漸く団子汁へ口を付けた。
湯気の向こうで、すでに胸中は新しい算盤を弾いているようだ。
それから、思い出したように目を上げる。
「それと、酒を。こういう太平楽な話と美人を肴に飲む酒は、旨いと決まっておる。……珠璃姫、まァ、一杯」
先程の気の利いた働き娘が、珠璃に席を立たせる間もなく、即座に銚子を運んで来た。
たちまち珠璃の前へ小さな盃が置かれ、澄んだ酒がとくりと注がれる。
珠璃は盃を取り上げ、三津田へ軽く目礼してから口を付けた。
一口で干す。
空いた盃を掌に受けたまま、三津田へ目を向けた。
「御返杯」
廓できつく仕込まれた作法は、身体に残っている。
けれど今は、客に媚びるためではない。
商いの相手として、盃を返すためのものだった。
三津田は心底愉快そうに目を細めた。



