番頭新造のやり方にも、ある程度の真実はあった訳だ――と珠璃は思った。
生まれを散々莫迦にされてきた後で、皮肉なことに、今度は育ちだった。
絶対に本人には覆せぬものばかりを、ここへ来ても突かれる。
今度は、朱籬廓で育ったことが疵になる。
花魁座りをすること。返事の前に相手の顔色を読むこと。
食べ物を前にしても、まず値や借りを考えてしまうこと。
そういうものが、珠璃の身体には染みついている。
都では鄙女。
廓では売り物の遊女。
妖の隠里では、色街の娘。
どこへ行っても、珠璃は名より先に場所で呼ばれる。
珠璃は姿勢を改めたが、土間の空気は暫し動かなかった。
炉の灰の下には、まだ火が残っているのに、誰も薪を足そうとはしない。
珠璃は膝の上で指を揃えたまま、睨みつける葛葉の金の眼から逃げられずにいた。
「兄さまはいつも、決めてから仰せになる」
「先に問えば、反対したろう」
「するに決まっておろう。今もじゃ」
葛葉の衣の裾に、狐火の文様が揺れていた。
怒っているのだと判る。
けれど、番頭新造の怒りとは何かが違う。
あの女の怒りは、他人への妬み嫉みだった。
葛葉の怒りは、何かを守るために神経が尖っているゆえだ。
その尖りが、たまたま珠璃へ向いているとでもいうような。
「兄さま。今、里がどれほど危ういか、お判りであろう」
「判っている」
「ならば尚更じゃ。わしと人間との婚儀を前に、色街から物の怪を引き連れた娘など、我らが屋へ入れるものではない」
婚儀。
その言葉に、珠璃は目を上げた。
では、葛葉は人間の花嫁になるのだろうか。
妖の姫が、人間へ嫁入りする。
姫として傅かれ、兄に守られて育った葛葉――。
売られ、名を変えられ、値をつけられて、知らぬ男の前へ勝手に据えられる自分。
それとはまるで違うのに、朱籬廓の水揚げの話とどこか似ている。
女の行く先が、女自身のものではない。
呼び方が違うのみで、差し出されることに変わりはない。
葛葉は敏く、珠璃がそうして婚儀と水揚げを同じ天秤へ載せたことを見逃さなかった。
「その目は何じゃ」
幼い顔に、年経た妖狐の姫の鋭い眼光が冴える。
「わしを、そなたと同じに見たか」
「……そのような心算は」
「嘘じゃな。顔に出ておる」
珠璃は返事を失った。
図星だった。
葛葉の眼が細くなり、一歩、珠璃へ近付いた。
兄と違って背丈も小さい。
なのに珠璃は、そこで初めて判った。
葛葉はただ守られている姫ではない。
嫁ぐことを、取引ではなく自分の役目として睨み返している姫なのだ。
「わしは売られるのではない。里を守るために行くのじゃ」
「……はい」
「その返事も気に入らぬ。お前ごとき、判っておらぬのに見知った顔をするでない」
葛葉の尖った声の奥に、何か押し殺したものがある。
「お前などに憐れまれる筋合いはない。……わしは選んだ。選んだことにせねば……割りに合わぬ」
そのとき奥の土間から、がたん、と鍋の蓋が鳴った。
「姫さまァ、腹が減っとると怒りっぽくなりますぞ」
場違いなほど間の抜けた調子で、誰かが口を挟んだ。
現れたのは、小鬼だった。
背丈は珠璃の腰ほどしかない。
頭は大きく、額には短い角が一本、頬は赤く、腕だけは妙に太い。
前掛けを締め、両手に湯気の立つ盆を抱えている。
盆の上には粥の椀と、焼いた葱、味噌を塗った握り飯、小さな漬物皿が並んでいた。
「誰が怒りっぽいのじゃ」
「姫さまですな」
「黙れ、団吾」
「黙ると飯が冷めますでな。九郎助さまも、お客人も、まず食ってから揉めなされ」
小鬼は悪びれもせず、炉端へ盆を置いた。
湯気が上がる。
米の匂いがする。
続いて葱の焦げた甘さと、味噌の香ばしさ。
珠璃の腹が、忘れていたように小さく鳴った。
恥ずかしくなって、袖の内で指を握る。
葛葉は、それを見逃さなかった。
「そんなにきつそうに腰紐を締めるからじゃ。腹が減っておるなら食べればよかろう」
「……頂いて、よいの」
「なぜわしに聞く」
「その、後で帳面に……」
言い終える前に、小鬼が目を丸くした。
「帳面? 飯を食うのに帳面が要りますかい」
珠璃は返事ができなかった。
朱籬廓では、何にせよ無料のことはなかった。
飯も、薬も、衣も、休み、情けも、すべてどこかで借りになった。
泣いた子は飯を減らされ、助けられれば誰かの借りが増えた。
だから差し出された椀を前にしても、まず考えてしまう。
これは誰の損になるのか。
後で、いくら返せと言われるのか。
九郎助が椀を一つ取り、珠璃の前へ置いた。
「飯は飯だ」
「……」
「食え」
珠璃は恐る恐る椀を持った。
熱が掌へ移る。
粥を一口含むと、煙に焼かれた喉へ染みた。
少し痛い。
けれど飲み込めた。米の甘さが、体の奥で解ける。
「泣くでないぞ」
葛葉が言った。
珠璃は反射的に椀を下ろしかけた。
「泣いたら、飯を下げられるの……?」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
小鬼の団吾が、困ったように盆を抱え直す。
葛葉は何か言いかけて、口を閉じた。
九郎助が、珠璃を見た。
「下げぬ」
葛葉が、少し間を置いて言った。
「この里では、泣いた者から飯を取り上げたりせぬ」
珠璃は椀を見下ろした。
湯気で目元が熱くなる。
泣いているのではない。
粥の湯気が、目に触れただけだ。
そう思おうとしたが、うまくいかない。
「わしらは泉で水浴びするんでな。風呂は好きに使え」
そう言った葛葉は、わざとそっけなく顎をつんと逸らした。
けれど風呂場の戸を指す手つきには、優しい気遣いが籠っている気がした。
珠璃が風呂から戻ると、炉辺にはもう火が入っていた。
湯を使ったので、冬の気は容赦なく襟元へ入り込んで来る。
九郎助はその傍に座していた。
戻った珠璃を見上げた金の眼が、濡れた髪の先から、襦袢越しの細い肩へ落ちて止まる。
替えの小袖はなく、珠璃はまだ襦袢のままだった。
「……もう少し、よく拭け」
九郎助は立ち上がり、珠璃の後ろへと回った。
指先が一つ上がる。
金の狐火がぬばたまの黒髪の間を滑り、濡れて首筋へ貼り付いていた髪をするすると乾かしてゆく。
髪がふわりと持ち上がり、耳朶のあたりを撫でて過ぎた。
九郎助はふいに立ち、土間の台所へ向かった。
戻って来た手には、指樽と手拭がある。
「足を出せ」
言われて初めて、珠璃は自分の足が傷だらけであることに気付いた。
冷えた石を踏み、泥を蹴り、葦の根に引っ掛けた足である。
爪の際には黒い土が入り、指の腹には細かな切り傷が走っていた。
九郎助は珠璃の隣へ腰を下ろし、手拭へ酒を含ませた。
足首を取る手つきは荒くない。
けれど迷いもなかった。
親指から順に、指の間を拭われる。
傷へ酒が触れた途端、ぴり、と熱が刺した。
「痛むか」
「……このくらい」
答えると、九郎助はそれ以上聞かなかった。
ただ、土を拭い、傷口を確かめ、爪の際まで丁寧に清めていく。
触れられている気がする。
そう思うほど近いのに、九郎助の指は珠璃の伊達締めも腰紐も解く気配がない。
濡れた肌へも、首筋へも、胸元へも届かない。
ただ足だけを取っている。
逃げるために傷ついた足を、一つずつ、元の形へ戻すように。



