蘭の小料理屋は、少しずつ軌道に乗り始めていた。
お大尽で通人の三津田が後ろ盾についたことも大きい。
かつての朱籬廓を、女に身を売らせぬ朱籬新地へと改める際、三津田は陰で一騎当千の働きを見せた。
古い廓の仕組みも、顔役も、厭というほど知り尽くしていた男である。
だからこそ金を出し、口を利き、新しい看板の下へ商家筋ばかりか政の筋の客まで呼び込んだ。
名は表に出ずとも、紛れもない立役者だった。
話は、その晩へ遡る。
座敷の奥では、舞妓たちが「梅とさんさん桜はァ、いずれ兄やら弟やら、わきて言われぬ花の色ェ」と喉を転がしていた。
蕎麦猪口を運んでいた珠璃は、その最中、暖簾を分けて歩み寄る男を見て、一瞬だけ手を止めた。
白髪を鬢に蓄えた三津田だった。
上等な羽織を何でもない顔で着こなし、色街に馴染んだ足取りで店へ入って来る。
その目だけが、座敷の広さ、客の入り、女たちの動きまで、一つずつ値踏みしていた。
かつて珠璃が深朱と呼ばれていた頃のことだ。
紅籬楼を背負って立つ花魁の水揚げの相手として、人品骨柄卑しからぬ人物と名を挙げられた初老の男。
避けられるなら、避けて通りたかった。
けれど商いを始めた以上、避けて通れぬ顔というものがある。
大金を持ち、客筋を持ち、噂の流れを持つ男。
三津田は、その一人だった。
「これはこれは。深朱太夫」
三津田は、揶揄う調子で笑った。
言うなり、近くの机をぽんと叩いて拍子を取る。
「……もう花魁でも、太夫でもありんせん。……それに、今は珠璃と名乗っております」
珠璃はつい、廓詞で返してしまう。
怒鳴るでも睨むでもないが、三津田には向かい合った者を一段下がらせるだけの圧がある。
ただ笑いかけて来るだけで、こちらの立つ足場を、昔の畳へ引き戻してくる。
「朱籬廓一の姫に相応しい名だな」
珠璃は返事をしなかった。
三津田は邪険にされることなど織り込み済みの顔で笑みを深め、さらに畳み掛ける。
「あなたが花魁の幕を引いた、最後の花道は滅法な評判でしたよ」
懐柔するかのように言い、勝手に近い席へ腰を下ろした。
酒ではなく、団子汁を頼む。
「……失敗ったな。見たかったよ。人間と妖の世になる、とな。五十年ぶりほどの潮流の変わり目だ。果たして大時化か否か」
けれど全く時化が来るとは思っていない顔だった。
椀が運ばれて来ると、三津田は箸を取った。
湯気の立つ椀を眺めたまま、すぐには口を付けない。
椀の味に興味があるのではない。
店の造り、女たちの動き、客の入り、奥の勘定場。
そのすべてを見ている。
やがて三津田は、箸を置いた。
椀には、まだ一口も付けていない。
ああ、と珠璃は思った。
この男は、遊びに来たのではない。
商いを見に来たのだ。
お大尽で通人の三津田が後ろ盾についたことも大きい。
かつての朱籬廓を、女に身を売らせぬ朱籬新地へと改める際、三津田は陰で一騎当千の働きを見せた。
古い廓の仕組みも、顔役も、厭というほど知り尽くしていた男である。
だからこそ金を出し、口を利き、新しい看板の下へ商家筋ばかりか政の筋の客まで呼び込んだ。
名は表に出ずとも、紛れもない立役者だった。
話は、その晩へ遡る。
座敷の奥では、舞妓たちが「梅とさんさん桜はァ、いずれ兄やら弟やら、わきて言われぬ花の色ェ」と喉を転がしていた。
蕎麦猪口を運んでいた珠璃は、その最中、暖簾を分けて歩み寄る男を見て、一瞬だけ手を止めた。
白髪を鬢に蓄えた三津田だった。
上等な羽織を何でもない顔で着こなし、色街に馴染んだ足取りで店へ入って来る。
その目だけが、座敷の広さ、客の入り、女たちの動きまで、一つずつ値踏みしていた。
かつて珠璃が深朱と呼ばれていた頃のことだ。
紅籬楼を背負って立つ花魁の水揚げの相手として、人品骨柄卑しからぬ人物と名を挙げられた初老の男。
避けられるなら、避けて通りたかった。
けれど商いを始めた以上、避けて通れぬ顔というものがある。
大金を持ち、客筋を持ち、噂の流れを持つ男。
三津田は、その一人だった。
「これはこれは。深朱太夫」
三津田は、揶揄う調子で笑った。
言うなり、近くの机をぽんと叩いて拍子を取る。
「……もう花魁でも、太夫でもありんせん。……それに、今は珠璃と名乗っております」
珠璃はつい、廓詞で返してしまう。
怒鳴るでも睨むでもないが、三津田には向かい合った者を一段下がらせるだけの圧がある。
ただ笑いかけて来るだけで、こちらの立つ足場を、昔の畳へ引き戻してくる。
「朱籬廓一の姫に相応しい名だな」
珠璃は返事をしなかった。
三津田は邪険にされることなど織り込み済みの顔で笑みを深め、さらに畳み掛ける。
「あなたが花魁の幕を引いた、最後の花道は滅法な評判でしたよ」
懐柔するかのように言い、勝手に近い席へ腰を下ろした。
酒ではなく、団子汁を頼む。
「……失敗ったな。見たかったよ。人間と妖の世になる、とな。五十年ぶりほどの潮流の変わり目だ。果たして大時化か否か」
けれど全く時化が来るとは思っていない顔だった。
椀が運ばれて来ると、三津田は箸を取った。
湯気の立つ椀を眺めたまま、すぐには口を付けない。
椀の味に興味があるのではない。
店の造り、女たちの動き、客の入り、奥の勘定場。
そのすべてを見ている。
やがて三津田は、箸を置いた。
椀には、まだ一口も付けていない。
ああ、と珠璃は思った。
この男は、遊びに来たのではない。
商いを見に来たのだ。



